4. ある春の日の夜 (4)
白、と認識していたその色の本当のところは、月の光に照らされていたブラウンであった。ローファー、綿らしい紺の靴下に白く伸びた脛、規律正しい折り目のチェックのスカート……から、さらに昇っていくと、見慣れた母校のブレザー姿の彼女がすっくと、確かに立ち上がっていた。体勢が体勢なので、首がこれ以上は持ち上がらない。したがって彼女の顔を認識することは叶わなかったが、よく見知った人物ではないことは察せられた。一見親しみやすそうでありながら、その実全くその正体を知り得ていないその姿、そのアンバランスさが、ここに至るまでに生じた今夜の非日常的な情景の集大成のようにも感ぜられた。
血塗れの鼻のひりひりとした刺激、さらにそれを上回って余りある腹部への疼痛によって、しばらくは立ち上がれそうになかった。だから俺は、彼女の首の襟の白さと、ヨネコウブレザーの象徴と県内では呼ばれているらしい深紅のリボンのコントラストを、しばし、眺めていたのであったが、当人は悠然と参道を見上げているのみらしかった。
視界の縁で、彼女の顎が一瞬持ち上がったような気がした。そうして、参道の様子をもう一度確認し終えてから、彼女が顔を右斜め下方に向けた。数秒間俺の姿を認めた後、ごく短いため息とともに。
「どうして、こんな所にいるわけなの……」
言外にはありありと、呆れた、という色が発せられている。この声の持ち主は、性格の類型で言うなれば恐らくサバサバ系の、それもバリバリのキャリアウーマン的な資質を持った女性に違いない……とたった一言の中に像を描ける。今なら。入院・リハビリ中に培った想像癖は、右足の古傷以上に俺の人生へ影響してくる、のかもしれない。
態度に気圧されて「いやそれは」なんて口ごもりそうになったのだが、少し立ち止まって……本当は寝転んでいるのだが、考えてみれば、それはそのまま彼女にだってあてはめられることに気づいた。よって俺は気を取り直して「それはあんたにだって」と言いかけながら、今度こそ本当に、リボンから彼女へと顔を向けた。
黒く丸く大きく、初めの声のイメージとはかなり異なる、愛らしい瞳。差し込む月光が、黒い池の中にわずかばかりの白斑を演出しており、穏やかな印象を与えているのだった。
そして意志の強そうな、太い眉。
この眉は見知った眉ではなかったが……全く見たことがないわけでもなかった。
その機先を制するように、
「君、
当てられてしまった。
「そう言う、あんたは、えぇっと……確かダブってこっちの」
みなまで言いかけたところで、首根っこを突然ぐいっと掴まれた。驚いて体は硬直したが、構わず彼女はコンクリートの道にゴリゴリゴリと俺をなすりつけ、引きずり、参道脇の木陰でやっと乱暴に突き放した。
トレーニングウェアが破けていないか心配になったが、別に痛くはない。痛くはないのだが……とんでもない力だった。突き放された時だって情けなくもウェッというカエルの音を発してしまった。
「それ以上言うのは」
吸って、吐いて。大きく深呼吸だ。
「それ以上言うのはやめなさい」
満月の光が注ぐ。頭上に仁王立ち。最初のため息よりもさらに冷たかった。今度は悲しみの色が強かった気がする。
だから一体、なんだってんだ。
「……一体、なんだってんだ」
「私はもうダブりたくないの。上のアイツは、単位なんか気にせずに私を追ってきているけど、その気持ち全然理解できないの。君にはわかる?ねえ」
喧嘩腰だし、意味もなく攻撃的だ。仕方のないことではあるが、ずっと見下ろし続けられるのも気分が良くない。
18年弱の短い人生ではあったけれど、主にサッカーというスポーツを通じて多くの人とコミュニケーションを取ってきた。大体の人と仲良くなれるスキルが自分には身についていると思ったけれど、これは最高レベルの関門かもしれない。
俺はここまでほんの少し聞き取れた情報を整理しながら、なんとかこのカエルの状況を好転させようと知恵を絞る。
「『アイツ』っていうのが、上の方にいたのか?神社は、火事になってないよな?……一体あんたこそ、ほんとに、何してたんだよ」
ようやく言いたいことの一割位は発せられただろうか。可能な限りに努めて冷静に問いかけた文章だったが、効果はあっただろうか。
彼女はその丸い瞳をさらに丸くして、少し目を伏せた。右手を額に当てて何事かを考えているようだ。瞼が徐々に下がっていき、ほとんど目を閉じるかと思ったその刹那に、再び丸い瞳が姿を現した。
目を開くや否や彼女はしゃがみ、俺の顔を素早く覗き込んできた。一連の動作に迷いはない。その時何かを決断して、何かを、選ばなかった。
「君、この状況を打開するために協力して。私の言う通りに」
初めて、彼女と同じ目線の高さになった。
「私にはたくさんのやるべきことがある。だから、今ここに携えている剣を振るうの」
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