3. ある春の日の夜 (3)
夜の参道も当然、峻険な佇まいである。
街灯の明かりもここまで来るとあまり届かず、満月が照らす光の薄暗い強さがその割合を大きくしていた。
実際、ここに来る途中のケヤキ並木を抜けている間はリラックスした気持ちが続いていたが、月を背景にした参道と、頭上わずかにその様子を見せている境内の幽玄な世界が、俺の肝をやや冷ましてきていた。言葉を選ばずに表現してしまえば、夜の神社は想像以上に不気味だった。幽霊や妖怪の類は信じていないし、強がりでもなくそこまで怖くもないのだが、そんな信心のない人間にも何かを感じさせようとするような、怪しい臭いが周辺には漂っていた。
見ているだけでその重さを想起させる、月明かりの大きな参道の石段をぼんやり眺めていると、また別種の、そわそわするような感じもわいてきた。これは何だろうと思った。ただの鉱物である石段の先に何かが動いているような、生き物のような、何かが始まってしまいそうな……そんな雰囲気がその場に醸成されているように思えた。
石段に足をかけないで、そのまま帰ってしまおうかとも考えた。参道を上がっていくことは別に目的でも何でもないのだから。気持ちは十分に切り替わった。サッカーのことは一旦頭から離れたから、今日はもう夜更かしせずに済むだろう。
だから事実、そうしかけた。そうやって踵を返そうとした時に―――境内の奥の方向から確かに、鳥の声ようなチチッ、という音が聴こえたのだった。
間をあまり置かずに、チチッ。また聴こえた。
鳥や獣の声のようにも思えるが、似て非なる印象はあった。もっと似たような音を過去に聴いたことがあるような気がするが……
少し考えて出てきたものが、焚火やキャンプファイヤーで、拾ってきた枯れ枝が炎にまかれて燃え出すときのパチッという音だった。そうだ、それの方がより近い。
本当にもしも境内の辺りが燃えているなら大事だが、そんな感じはしていない。それともこれは、異常事態でも思ったほどの問題になっていないと錯覚してしまう、いわゆる「正常性バイアス」というやつだろうか?
リハビリ中に進行した考えすぎる癖がまた顔を出してしまった。生来の性格も確かに考え込みやすいが、やっぱり問題を解決していくのは自分の行動でしかありえない。それだけは、この短い18年弱の人生で分かってきたつもりなのだ。そう思うや否や、俺の右足は一段目の縁にかかろうとしていたのだった。
両脇の斜面に植えられたナラとブナの林に遮られ、参道は一層薄暗かった。秋になればドングリがあちこちに転がって、参拝客が上っていくのをさらに阻むようになるが、5月であれば全く問題はない。
ただ、歩みを進め始める足取りは重かった。先に進むことに対し警告を発しているような不気味さのせいでもあるが、やはり忍者の修行は伊達ではなかった。そしてこの修行にこれまで耐えてきた自分の肉体について、少しだけ、労いの言葉をかけてあげてもいいかなという気持ちさえ生まれていた。
はたと顔を上げると、何やら前方に白くて丸みを帯びたものが見えている。一体何だ、と思う間も与えず、それは、自転車……それもママチャリではなくロードバイクが坂道を下りていくような速度で……どんどんと自分の方へ近づいてきていた―――!
「ふっ……ぬわぁっ!!」
普段の生活では絶対に上げる機会のない呻きとともに、俺はそれの下敷きになり、上ったばかりの5つの石段を腹ばいで滑り落ち、あえなくスタート地点に戻されてしまった。戻った瞬間、顔面をしこたま地面に叩きつけ、そのダメージを主に鼻で吸収した。
直後、背中から落ちなくて良かった、と心底思う余裕もなぜか同時に持っていた。空中からの落下で一番怖いのは言うまでもなく、頭への打撃である。ヘディングシュートを得意にしていた自分なればこそよく知っている。鼻の奥に広がる血の生温かさを感じながら、俺は不幸中の幸いに本当に感謝していた。
感謝の後は状況の把握である。落ちていくその始まりに自分の視野にあったものはなんだったか。白くて丸みを帯びたもの……。鼻の痛みに耐えつつ、うつ伏せのまま顔だけ辺りを巡らして、それを探してみた。
なぞなぞです、白くて丸みを帯びたもの、なんだ?
……月、か?
左を見てから、右を見たときに、地面に投げ出されているそれを見た。
満月のほの白い光に照らされながら、今まさに立ち上がろうとしている。
黒いローファーと、擦り剝けた膝小僧の赤い血との対比で、その白い足が妖しく美しいなと、一瞬思ってしまった。それは、
ヨネコウのブレザーを着た一人の女の子であった。
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