2. ある春の日の夜 (2)

 一階で眠っている両親を起こさないよう、音をなるべく立てずに忍び足で階段を下りていく。廊下を3歩で渡り切り、手に持っていた青のランニングシューズを履き、靴紐を結んだ。足への少し窮屈な、履き慣れた圧迫感が体と心を落ち着かせていく。

 歩を進めて、玄関の扉をガチャっと押し開けた。瞬間、生暖かい5月の風が頬をなぜる。汗はすでに引いているようで、その空気をヒヤッとしたものには感じなかった。


 後ろ手に扉を閉めて小さな庭に出た。父親の趣味の家庭菜園のフィールドである。日曜大工がライフワークである父の作る庭には、なぜだかつる性の植物が多い。アサガオの季節には紫色に彩られるし、ヘチマやゴーヤーは夏に収穫して食べている。加工して何かに使いたかったものか、側面の外されたプランターが放置されていたり、資材が乱雑に置かれ全体的な印象はカオス寄りだが、この庭の感じを俺は嫌いではなかった。

 見上げると今日は満月だった。門外に出るまでに感じ取れる、様々な慣れ親しんだものが俺を少しく落ち着かせてくれようとしているのではないかと思った。やはり部屋の中、スマホを眺め悶々としているのは性に合わないようだ。困ったことがあれば行動。悲しい時は行動。そして元気な時こそ、ボールを蹴って―――

 ボールを蹴るのはまだ難しかった。俺は再び右足の踵の部分に目をやって、この足がまた自分のもとに戻ってくるのはいつのことだろう、と少しだけ思いを巡らせかけた。

 ……考えても仕様のないことだ。また薄暗い方向へ持っていかれそうな自分の思考を遮り、丘の向こうにふらっと浮かぶ月を目指すように、俺は庭から駆けだした。


 走り出せば、自分の体調はいつもと何も変わらないことが分かってきた。半年間以上かけリハビリを続けていて、ある時から、単純に走ることだけにおいては、感覚が元に戻ってきたことが分かった。家の前を流れている小川に沿った遊歩道を走る時、右足は俺のものだ。この感覚に慣れていけば、きっとまた、整備された芝のピッチでも走れるようになる。

 きっと、また。問題はそんな所にあるのではない、と囁く小さな声も自分の中に感じていたが、今日はまだ向き合えない。今はこの、コンクリートよりは柔らかい、ゴムチップ舗装の遊歩道にだけ集中していたい。

 

 左手に住宅街、右手に小川を見ながらしばらく走り続けていると橋にさしかかる。その橋を渡らずに遊歩道を走り続けていくと、ひたすらのどかな小川の風景が続く。川幅は徐々に広がっていき、最終的には隣のN市に入り、N市に入ってからは土の道になる。

 一方、右に曲がって橋を渡ると、コンクリートの道を抜けてケヤキ並木へ入る。並木の中の道も舗装されている。数百メートルの長さをそこを抜けると、南山神社の参道入り口にたどり着く。

 

 南山神社はH市の数少ない観光スポット的な存在ではある。今では都会に通勤・通学するための新興住宅街であるH市がまだ小さな農村だった時代、小川の水源の一つだった南山神社が集落の中心地で、農民たちはその清水とともに育ってきた。という話を、小学校の社会科の時間に聞いたことがある、気がする。

 その成り立ちについてはあまり興味がなかったが、近所に住む運動部所属の学生ならびにスポーツマンの大人たちにとって、神社は興味を引く要素を一つ持っていた。斜度は県内有数と言われるその参道の、急勾配の階段である。

 お寺や神社は町を俯瞰できる高いところに置かれることが多いが、南山神社のそれは少しやりすぎかもしれない。最も急なところでは一段が大人の腰の高さくらいまで達している。「江戸幕府お抱えの忍者の修行に使われた」というお国自慢話も、あながち笑ったものでもないかもしれない。

 

 と、余計なことも思い出してしまったが、橋に着く前にどちらの進路を取るか決めないといけなかった。リハビリ中は迷うまでもなく遊歩道ルートだった。遊歩道のゴムチップはコンクリートやアスファルトよりも足への負担が軽いし、土の道も同様だ。遊歩道をゆっくり、そして徐々に距離を伸ばして走ることで、「走る」一点において俺は右足を支配下に置くことができた。

 ただ今日は、リハビリ前にはさんざん走りこんできた南山神社の参道がなぜだか恋しかった。足が肉体的に治ってからはまだ訪れていない。それに……夜の神社にはそもそも訪れたことがない。深夜でも街灯の明るい人工的な遊歩道よりも、案外心の落ち着きを感じられるかもしれない。参道を走るのはまだ厳しいだろうが、歩いて行けるところまで行ったら、少し休んでそのまま帰宅してしまおう。


 方針を決めた後はまた少し心が軽くなったような気がした。オレンジ色の街灯にほんの少し混じる月光の白い成分を感じながら、俺は分かれ道の橋を前方に認めていた。

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