1. ある春の日の夜 (1)

 息をはっと吐く音とともに目を覚ます。目は冴え、心拍数はシャトルラントレーニングくらいのレベルまで上がっていて、肩で息をしている。額、脇、手、背中に至るまで汗がびっしょりだ。暑くもない。部屋の中は夜の闇に包まれていて、スマホのSNS通知の小さな点滅だけがやたらと目につく。


 ベッドの下の床に放ったままのリモコンを、横になったそのままの体勢で腕を伸ばしてつかむ。電灯をつけると、枕にははっきりと汗のシミが黒く、丸く残っていた。この分だと朝になったらシーツは洗って、マットレスは干さなきゃいけないな、と、どうでもよいことをまず考えつつ……次第に自己嫌悪に浸る時間が近づいてくる。

 充電器につながれていたスマホを、これまた体を起こすこともせずにおもむろに引っ張ってくる。0時38分。寝床に入ってからまだ1時間あまりしか経っていない。

 少し前までは1分1秒でも長く眠っていたいと思っていたのに、いつしか1分1秒でも早く朝になってほしいと思うようになった。いつの頃からなのか、本当ははっきりと分かっている。消化したつもりであったのだ。意識のある段階の自分は、落ち着いている。夜がいけない。夜のまどろみは理性と感情の境界を曖昧にするし、なぜだかわからないが大体がネガティブな方向に思考を飛ばしてしまう。


「うじうじしやがって……どうしてこんなにも」

 そうやって一人、何もない天井に向かって呟く。我ながら女々しいと思う。あそこまで、ヨネコウは文字通りの死力を尽くしていた。誰が悪いわけでもない。過ぎたことは戻らない。

 考え事をしていて消えてしまったスマホの画面を再点灯し、通知の欄を見る。中西なかにし 亮二りょうじ。タブを触ってアプリを起動する。


『暁先輩 お疲れ様です、中西です。

 来週土曜はいつも毎年5月にやってる、今年の新人と上級生のミニゲーム大会があります。よかったらちょっとだけ見にきませんか?しばらく時間はたちますけど、監督も秋山先輩も、暁さんがいないとまださびしそうです。

 本当にムリはしなくて全然大丈夫なので!よかったらよろしくおねがいします!』


 後輩の中西には気の毒なことをしてしまったと思う。極力俺の琴線に触れないよう、本当に考えて文章を起こしてくれたということがよく分かる。そして、そんな気遣いがさらに自分の情けなさに追い打ちをかけてしまうのである。俺は中西からのメッセージの画面を見ていられず、メニューに戻して、すかさず画面を消灯した。


 ―――10分くらい、そうして嫌悪の沈殿の中に浸っていただろうか。ひとしきり自分を嫌悪しきった後、ようやく上体を起こせるようになる。下肢へと手を伸ばし、右の踵の上部、あの日宙に向かって踏み切ろうとした自分の腱をさすってみる。当然、今では全く痛みを感じることはないが、心理的にはもう別の生き物のようである。

 あの日から習慣的にやってしまう確認作業を終えてから、頭を切り替えるための作業に入る。今日の気分はかなり酷い。久しぶりにあそこまで鮮やかな情景を頭に思い浮かべたものだ。夢の中の太陽の熱が、現実の自分にまでその残り火を与え、心の中で黒くくすぶる感じがしている。こんな時、俺はどうしたい?


 ……外の風に当たりたい。


 日付を超えて帰宅することはあっても、外出することはこれまでにはなかった。だが、部屋の中にいれば汗の臭い、どうしてもいじってしまうスマホのせいで、ぐるぐると終わらない思考の輪の中に入ってしまう。少しでもそんな気分を変えるために……部屋の戸の近くに積んである、服がたたんでしまってあるカラーボックスをしばらく見つめていた。


 部屋の明かりはそのカラーボックスと同じ、無機質な蛍光灯の色を俺に注いでいた。

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