貴女が望む未来を 4
あの事故から五日が過ぎた。トーカが目を覚まさないまま、SUBの攻撃がピタリと止まったまま五日が過ぎた。
八人の長官を前に発言を終えたターミヤ技術長は一礼した。
HS-5機にこれといった不具合は見つからない。彼の言葉をまとめると、そういうことになる。
「では、設計者の話も聞こう」
グレイ元帥の言葉に、ツクミ博士がフォスを促した。立ち上がった八歳の少年はやや緊張した面持ちで辺りを見回す。
ES計画が生んだ天才児は、HS機の設計には何のミスもない、と答えた。そのことは技術部の別の設計者によるチェックでも明らかだった。ただ彼の口からそれを確認しただけだ。
茶番劇だとイブキは思う。結論は一つの方向へ向かっている。
「どうやら明らかですな。機体には何の欠陥もない。今回の問題はパイロットによる過失」
「どの程度の処分が適当ですかな」
タリムの言葉にグレイ元帥が一堂を見回す。発言をしたのはまたもタリムだった。
「パイロットの資格を剥奪しましょう」
ざわっと議場がざわめいた。資格を剥奪されればパイロットとして飛ぶことが出来なくなるだけではなく航空関係の特殊業務に携わるための資格もすべて奪われてしまう。資格そのものを剥奪されてしまっては、怪我が治ってもパイロットはおろか通信士などとしても働くことが出来ない。
「お待ちください、いくらなんでもその処分は厳しすぎる」
思わずイブキは立ち上がった。こちらを見たタリムは首を横に振る。
「彼女はHSチームの不敗神話に泥を塗りました。月基地が落ちてから、一般市民の中には事態を悲観し暴動を起こすものもいる。それがようやく落ち着いてきたところにこの騒ぎです。HSチームが墜ちたとなれば今度はどんな騒ぎが起こるやら。他のパイロットたちの自覚を促すためにも、彼女には相応の処分を与えるべきです」
タリムは街の警備などを担当している。かん口令を主張したのも、この事故の責任の所在を明確にすべきと言い出したのも彼だった。懸念はわかるが、しかし。
「他のパイロットへの見せしめ、というわけですか。彼らはINITのために命を張っている。その結果がこの処分では納得できない」
「納得できないのはあなただけですよ、イブキ長官。他のお方、反論は?」
議場を見回すと長官たちは誰も目をあわさなかった。根回しはすんでいるのか、とイブキは内心で舌打ちをする。
「ならば彼女の上官である私を処分してください」
ザワリ、とまた議場がざわめく。タリムはやれやれと首を横に振り、立ち上がってこちらに近づいてくる。
「イブキ長官、落ち着きなさい。元HS-2の名が泣きますぞ」
タリムはイブキの肩をポンと叩く。そして、耳元で囁いた。
「どの道リバイアルの小娘はもう使いものにならない。彼女に責任をとらせて何が悪い?」
ゆっくりと首をめぐらせて、イブキは薄笑いを浮かべたタリムを見た。あまりの怒りに声も出ない。
「二人とも座りたまえ。落ち着いて話し合おう」
グレイ元帥の言葉。隣の席のネモ長官が腕を叩いてイブキを座らせる。タリムも席についた。
「滅多なことを言うな、イブキ。お前がいなくなればこれ幸いと、彼女はここから放り出される。リバイアルをよく思っていない人間は結構いるんだ」
ネモがそっと囁いた。そんな非人道的なこと、と思うがタリムならばやりかねない
「反論は出尽くしたようですし、多数決といきましょうか」
タラハが口を開きグレイ元帥が頷く。出来レースの結果など見えていた。
処分を受ける本人が不在のまま査問は終わった。
「意識不明の人間相手に何が査問だ」
小さく吐き捨てる。ちらりとこちらを見たタリムは何も言わずに会議室を出て行った。
釈然としない思いを抱えたまま、セカンは自室に戻った。トーカがパイロットの資格を剥奪されるとイブキ長官から聞いたのだ。シュリは激昂し、隊長とラットも怒りを隠せない様子だった。
セカンは、そうか、と思っただけだった。ただ釈然としない気持ちは残る。
「何だ、兄さん意外に元気そうじゃない」
ドアを開けると声をかけられビクリとした。誰もいないはずの部屋に、ここにいないはずの人間がいた。
ベッドに腰掛け、フォスは足をぷらぷら揺らしている。立ちすくむセカンを小首を傾げたフォスが促した。
「入ったら?」
「……ああ」
扉を閉め、椅子を持ってきて弟と向かい合う。フォスの方が先に口火を切った。
「HS-5、墜ちたんだって?」
「ああ」
「落ち込んでないんだ。兄さん、HSチームのこと好きだって言ったくせに」
答えずにいると、冗談だよ、とフォスが口の端を上げた。
「査問のことは聞いた?」
「ああ」
「僕も呼ばれたんだ。そこでHS機の設計にミスはないかって聞かれた。僕はないって答えた」
フォスの顔が少し強張る。おそらくその場にツクミ博士がいたのだろう。弟と自分は彼を恐れている。彼に「役立たず」と言われることを恐れている。
「僕がそう答えたら、トーカさんがパイロットの資格を剥奪された」
じっと、フォスはセカンの目を見て言った。
「怒る?」
「どうして?」
「……ならいいや」
「おれは正直、機体に何かあったんだと思ってる」
ピクリとフォスの顔が引きつった。
「それは設計ミスってこと?」
「違う。お前が設計ミスなんかするはずないだろ」
その言葉に少し固まったフォスは、しばらく経ってから肩をすくめた。
「だよねえ」
足を揺らす速度が少し早くなる。
「ターミヤ技術長の性格なら、設計に問題があったら僕を責めてる。そうしないってことは逆に設計は正しかったってこと……」
何かに気づいたようにフォスは足を止め目を瞬かせた。
「そういえば」
「どうした?」
「査問には僕の他にもターミヤ技術長が呼ばれてたんだ。あのおっさんは……」
フォスの物言いをセカンはたしなめた。はいはい、と返事をしてフォスは続ける。
「笑ったんだ」
「え?」
「トーカさんの資格剥奪が決まった瞬間、ターミヤ技術長は笑ったんだ。僕は『嫌なおっさんだな』って思ったんだけど」
セカンは口元に手を当てる。フォスもセカンよりは劣るが通常の人間よりも動体視力が優れており視野が広い。フォスが見たことならばどんなにとんでもないことでもセカンには信じられた。
笑った。その言葉が気になった。トーカが資格を剥奪されて何故ターミヤが笑う?
「兄さんが機体に何かあったって思う根拠は何?」
「回避もせずにそのまま敵に突っ込んでいったのが見えた」
ついでにラットから聞いた脱出ポッドの話も伝える。ふうん、とフォスは言った。
「トーカさんに何かあった可能性もあるじゃない。例えば、もう何もかも嫌になって敵機に向かって行ったとか」
最近確かに様子がおかしかった。しかし、彼女はそんなことをするような人間ではないと思う。
そう言うとフォスはやれやれと息を吐いた。
「魔がさすってこともあるよ。第一、飛行ログには不審な点がなかったんだよ。技術部が改ざんでもしてればべ……」
動きを止めた二人はゆっくりと顔を見合わせる。
「機体に何か問題があったら、ターミヤ技術長は」
「多分、責任を問われるね。でもまさか」
セカンは立ち上がって端末を取り出した。それをネットワークに接続する。
本部にあるマザーコンピュータへ入り込み、情報を引き出す。サードがいた頃はよく三人で不正アクセスをして遊んだものである。昔とった杵柄だ。
引き出したデータをフォスに見せる。彼は首を横に振った。
「問題なし。無理だよ。改ざんされたんだったとしても元のデータなんてとっくに消されてる」
「フォス、飛行ログは確かSSチームの……」
「SSチームのシステム内に機体ごとに分けて一時的に保管され、SS機から本部へ飛ばす。本部でリアルタイムに機体の状態を監視できるようにね。……兄さんの言いたいことわかったよ。一時的な保管だから飛ばした端からデータは消えるけど」
「あれ以来戦闘はない。SS機の中からデータを復元させることは」
「可能、だね」
フォスはセカンに向かってゆっくりと頷いた。
「イブキ長官のところへ行く。フォスも来てくれるか?」
「面白そうだし行くよ。でも、これで何も出なかったら笑うから」
「何も出なかったらそれでいい」
そう、何も出なかったらそれでいいのだ。セカンはフォスと共に部屋を後にした。
ターミヤは基地の一角に与えられた自室でのんびりとしていた。二日前の査問で、ここ最近の懸案事項であったHS-5墜落事故の片がついたのだ。
一番最初の時点で、HS-5機の異常には気づいていた。どうやらHS-5は突然、操縦不能に陥りエンジンが止まったらしいのだ。そんなことが知られれば責任問題になって一番上のターミヤの首が飛ぶ。だからデータを書き換え、それを隠して報告した。
正式発表の前に兄であるタリムと弟のタラハに相談をした。兄にはかなり怒られたが、上手く片をつけてくれた。一度出された決定が覆ることはない。責任の所在は明らかになった。
イブキ長官がおいでです、と秘書が告げてきた。通すように伝える。やれやれ、と思った。HS-5はイブキ長官の女だ、という噂がある。今日の査問でも、初代HS-2だけが結果に反論し渋っていた。公私混同も甚だしい。
現れたイブキの顔色は悪い。不健康な奴だと内心で吐き捨て、表面上は穏やかに出迎える。立ち上がって席を勧めるが、イブキは腰を下ろさなかった。
「どうかされましたか?」
「人払いをしていただけますか?」
言われてターミヤは秘書に出て行くように合図をする。二人きりになったところでターミヤは鷹揚に言った。
「これでよろしいですかな」
イブキは黙って一枚のディスクを差し出す。
「これは?」
「HS-5の飛行ログです。SS-1のシステム内に一時的に保管されていたものを復元しました」
ひくっとターミヤの顔が引きつった。視線を落としているイブキの表情はよくわからない。
「HS-5の不具合。制御が不能になりエンジンが停止した。そう出ています。あなたが査問に提出したデータとは大きく食い違ってますね」
「こちらは、私はそんな報告は受けてはいない」
「では技術部の誰かがデータを改ざんした、と?」
「そういうこともあるかもしれんな」
「なるほど。それは監督不行き届きですね。そもそも責任とは、上がとるものですよ」
ターミヤは言葉を捜す。
「もういいじゃありませんか。一度出た決定は覆らない。もう、この話はこれでお仕舞いにしましょう」
答えずに、ゆっくりとイブキはこちらに近づいてくる。制止の声を上げるが、その歩みは緩まない。後ろに下がり壁に追い詰められたターミヤは、イブキに殴り飛ばされた。
「ぶっ」
壁にぶつかり転倒は免れる。何のつもりだと顔を上げたターミヤはイブキの気迫に押し黙る。
「トーカと同じ目に遭わせてやろうか?」
胸倉をつかまれ息が詰まる。イブキが錯乱したと思った。その証拠に、こちらを掴む彼の手はブルブルと震えている。
「パイロットは機体を信じて飛ぶしかない。ターミヤ、お前のつまらない保身が、INITのために戦っている全パイロットを危険にさらしている。そのことに気づいているか?」
「イブキ長官!」
ドアが開いて入ってきたのは甥のタースだった。真面目馬鹿の甥のことはあまり好きではないがこの際は関係ない。
助けを求めると、タースがイブキを引き剥がした。喉をさすってゲホゲホと思いっきり咳をする。息を吸って吐いて、ターミヤは言った。
「タース、警備を呼べ。イブキを捕まえろ」
こちらの言葉には答えずに、タースはイブキを庇うように立ちはだかる。ゆっくりと、彼は口を開いた。
「ターミヤ技術長、一つお聞きしたい」
喉をさすりながら甥を睨んだ。この状況で何の問いだろう。
「あなたは自分が行ったことの意味がお分かりですか? トーカの事故の原因がわからなければ、同じ原因で他の機体が墜ちる可能性もある」
どいつもこいつも、とターミヤは鼻を鳴らした。
「そんなことよりイブキを何とかしろ。こいつは俺を殴ったんだ。今すぐ長官を辞めさせろ」
次の瞬間、ターミヤはまた壁に沈んでいた。タースに殴られた。その事実を認識して呆然となる。
何がどうしたんだ、とターミヤは震え出す。イブキだけではなくタースまで。狂ったのか。いや、違う。よく見れば二人とも正気の目をしている。それが怖かった。
「お、お前、誰を殴ったと思ってるんだ! 兄貴に言うぞ」
「言えばいい。跡継ぎと無能な弟。タリム長官がどちらを庇うか試してみるか?」
ひくっと頬が引きつるのを感じた。若造が何を偉そうに。
「一度出た決定は覆らない。お前らが何を喚いても無駄なんだよ。どうせ今頃あの小娘は……」
二人の表情が変わる。ターミヤは慌てて口をつぐんだ。どうやらこのことはまだ知らないらしい。弟のタラハは医療関係の人事権を持っており、それ故こちらの思惑通り動いてくれる医者も何人かいる。
HS-5は今日の午後、その短い生涯を終えることになっていた。
お疲れ様です、と申し送りを済ます。トキヤが付きっ切りで治療にあたるとはいっても彼も人間、休む時間は来る。そして今がその時だ。
悪いな、と基地詰めの医師であるカールはトーカを見下ろした。ターミヤから指示された日は査問の二日後、すなわち今日だった。悪いな、と思う。眠り続ける彼女の容態はゆっくりとではあるが快方に向かっていた。
言う通りにすれば本部の医師長にしてやる、とターミヤは言った。タラハにそう働きかけてやる、と。次の医師長はトキヤになると大方の人間は思っている。三つ年上のトキヤを抑えて自分が医師長になる。悪くない話だ。
さて、辺りに人はいない。基地にいる医療スタッフの人数は限られていたし、看護師が先ほど様子を確認した。容態が急変して数値が乱れればアラーム音で知らされるようになっているし、小康状態を保っている最近の彼女はしばらくの間は一人になる。
遅効性の毒をちくりと一刺し。それで医師長の座が転がり込む。楽にしてやるよ、とカールは口の端を上げた。
その時。
「どうかしましたか?」
ビクリとして振り返ると看護師が首を傾げて立っていた。彼女の名はなんといったか。看護師の名などいちいち覚えてはいない。カールは口の中で舌打ちする。
「ちょっと様子を見てるだけだよ。君は?」
「わたしは出来るだけ、トーカさんの傍にいるようにしているんです」
「それは感心」
「トーカさんは兄のチームメイトで……兄にはこれ以上辛い思いをして欲しくありませんから。それに」
「それに?」
看護師はじっとカールを見た。真っ直ぐに見つめられカールは目を逸らす。
気にした様子もなく、彼女はトーカの髪を整え、椅子に座った。
「ここは見ているから少し休憩しなさい」
「わたしは平気です。カール先生こそ、少し休んでください」
気づかれているのだろうか。まさかそんなはずはない。何とか彼女をここから引き離さなければ。
いや、と考えを改める。彼女の目を盗むことぐらいは出来る。彼女がここにいるのはむしろ自分が疑われないためには好都合。
「先生、異常はありません。さっき確認しました」
「ちょっと自分の目で確かめたくてね」
計器の確認をしている振りをしてトーカに近づいた。ころあいを見計らってさりげなく、体に触れればそれでいい。
看護師はじっとこちらを見ている。カールは愛想笑いを浮かべた。
「トキヤ先生の患者だから、僕はあまり触らせてもらえないんだ」
「トキヤ先生はトーカさんのことを本当に心配されていますものね」
「そうだね」
「イブキ長官も忙しい方なのに何度もお見えになるんです。イブキ長官は本当に素晴らしい方で……」
どうしてこちらから目を逸らさない。世間話を始める看護師にカールは苛立った。どうにか注意を逸らす方法はないものか。
ピピピ。小さな音が鳴った。この部屋に通じている内線だ。しめた、とカールはほくそ笑む。
ピピピ、ピピピ。電話は鳴り続けている。看護師はこちらを見たまま動こうとはしない。
「どうした? 電話をとってくれ」
ごくり、と看護師が喉を鳴らす。その顔が次第に青ざめていく。しかし、こちらを凝視することをやめない。
「何をやっている。緊急の用件だったらどうするんだ」
「申し訳ありませんが、先生が出ていただけませんか? わたし、少々気分が悪くて」
「看護師が医師を顎で使うのか? 気分が悪いのならばこの部屋から出て行きたまえ」
電話が止んだ。カールはマニュアル通り看護師に言う。
「何の用件だったか確認したまえ」
「できません」
「何故?」
視線をこちらに固定している看護師の体が小刻みに震えだした。凝視をやめない看護師。その頬はピクピクと痙攣している。
「何を怯えている?」
ゆっくりと看護師に近づく。こちらを見たまま彼女は小さく首を横に振る。
唐突に、ドアが開いた。
「カール先生、ちょっといいですかぁ? 診療室の方、手が足りないんで来て欲しいそうですぅ」
別の若い看護師が入ってきて暢気な声を出す。
「……ああ」
張り詰めていた空気が弛緩した。
出て行かざるを得なくなり、カールは小さく舌打ちした。だが、チャンスはまだある。怪しまれないよう踵を返し、トーカのいる治療室を出た。
その途端、ぐいっと腕を掴まれる。驚いてそちらを向くと腕を掴んでいたのはHS-1だった。治療室から引き剥がされて後ろ手に締められる。
「痛っ!」
「ターミヤ元技術長から話は聞いた。医師にあるまじき行為だな」
サクラしっかり! そんな声が治療室の中から聞こえた。足早に入っていく白衣の裾が見えた。見上げるも、トキヤはこちらには目もくれず治療室へ入っていく。
行くぞ、とHS-1がカールを無理やり立たせた。行く先はどこになるのか。事が露見した以上ただではすむまい。それならば。
隊長、と呼ばれそちらを見たHS-1の隙をついて、カールは自分の腕をちくりと刺した。
後悔があるとすればそれは、遅効性の毒にしたことだけだ。
ターミヤ技術長は解任され、後任はサイロン家とは縁もゆかりもない人間に決まった。新任の彼は大破したHS-5を調べ、エンジニアたちから話を聞き、墜落の原因が整備不良によるシステムの不具合であることを突き止めた。脱出ポッドにもハード面の不具合があった。墜落の際に木にぶつかった衝撃で外れなければ、トーカは炎上したHS-5に取り残されていたそうだ。
しかし、とタースは思う。査問会によって決まったトーカの処分は変わらない。一度出た決定は覆らないのだ。
HS-5の事故から十日。ようやく面会が許され、タースはトーカを見舞っていた。
謝罪の言葉など無意味だ。ターミヤ技術長がやったことは謝っても謝りきれるものではない。事故の原因がわかったのはセカンと彼の弟のお陰だ。それがもう少し遅ければ、保身のための証拠隠滅という下らない理由で彼女は命を奪われるところだった。
トーカの胸は規則正しく上下している。意識がそろそろ戻ってもいい頃だ、とトキヤ先生が言っていた。呼びかけてやれ、とも言われたが彼女にかけられる言葉など今の自分にはなかった。
病室を出るとナギサと鉢合わせた。彼は一度本部勤めになったが、基地の医師の人数が増員され戻ってきたのだ。
ナギサはこちらを一瞥するとスタスタと歩いていった。タースはそれを追いかける。
「待ってくれ」
「話すことはない」
「礼を言わせてくれ」
足を止めた彼は意外そうにこちらを見た。
「何の礼だ?」
「トーカのことだ」
「あれはサクラくんのお陰だ」
「お前が『トーカの傍を離れるな』と言ったからだと、彼女はそう……」
「それがどういうことかわかってるのか?」
タースは押し黙った。それを見てナギサは口の端を上げる。
「わかってるようだな。ちょっとは成長したじゃないか」
「ターミヤ技術長は最初お前に指示したんだな」
トーカを殺すようにと。だからナギサは警告を残して基地を去った。
「カール先生も馬鹿なことをしたよ」
「俺に言ってくれれば、もっと早く……」
ナギサの表情が歪む。褒めて損をしたと彼は呟いた。
「言ったら馬鹿真面目なお前は馬鹿正直に向かっていっただろ。向こうは知らぬ存ぜぬで通し、オレが首を切られてそれで終わりだ」
なあタース、とナギサは言う。
「サイロン家の力はお前が思ってるよりもずっと大きいんだよ。オレだってミサキが技術部にいれば指示に従ったさ。ミサキに何かあっちゃ困るからな」
ピクリとタースの頬が動く。それに気づいてナギサは視線を外す。
「お前を別れて正解だよ」
「……ミサキは元気か?」
「もちろん」
「そうか」
タースは唇を噛む。じゃあな、と言ってナギサは背を向け去っていく。
これまでの自分はあまりにも無知でありすぎた。彼女の真意はどうであれ、それがミサキと別れることになった理由の一つであると思う。
「ミサキ……」
どうしているのだろうと名を呟いた。女々しいな、と自嘲しながら。
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