ルージュ

1.イブキ


 この年になってこれほど悩むとは思わなかった。

「口紅がいいんじゃないですか? トーカちゃんも、もう年頃の娘さんなんですから」

 母親の代からこの家で働いてくれている料理人のハンナが嬉しそうに言う。隣で彼女の夫である執事のミントも頷いた。

「パイロットは化粧をしてはいけないということはないのでしょ」

「ああ」

 もうすぐトーカの十九歳の誕生日。HS-5として頑張っている愛娘にプレゼントを渡したいが何を送ればいいのかわからない。二人に相談して正解だった。

「ほら、アクセサリーは好みがありますし、トーカちゃんの仕事だと普段はつけれないじゃないですか。その点口紅だったら普段も使えますし。月基地の方ではやっぱりいい物は手に入らないんじゃないかとも思いますし」

「なら、ハンナ。悪いが見立ててやってくれないか。俺はそういうのは苦手だから」

 突然ミントが噴出す。

「どしたの?」

「いや、泣く子も黙る初代HS-2のイブキ長官が娘のために店で口紅を選んでいる姿を想像したら笑えてきて」

 ハンナの頬が引きつる。こちらをちらりと見てますます顔を引きつらせる。

「じゃあ頼んだ。それからハンナ、笑いたければ素直に笑え」

 部屋から出、ドアを閉めたとたんハンナの笑い声が響く。

 いくら昔からの付き合いとはいえもう少し遠慮しろと思った。



 次の日、帰宅するとハンナが満面の笑みで出迎えてくれた。

「折角ですからいろんな店を巡ってきました」

 差し出されたのは大量のカタログ。

「どの色がいいと思いますか?」


 どうやら、今夜は眠れそうにない。




2.トーカ


 コロコロと手の中で円筒形のものを転がす。十九の誕生日にイブキ長官から送ってもらった口紅。

 ありがたいことに長官は毎年誕生日プレゼントをくれるが、これまでは兵法書だの重さが変えられるダンベルだのミニドライバーセットだの妙な所で実用的なものばかりだった。

 それがどういうわけか今年は口紅。いい色で気に入ったが、長官の心境の変化が謎だ。

「ただいま。あれ、みんなは?」

「お帰り、ラット。シュリとセカンは昼ごはんを買いに行ってくれて、隊長は会議よ」

 ふうん、と答えてラットはトーカの手に視線を移す。

「男からのプレゼント?」

「まあね」

「つければいいのに」

 ラットが顔を覗き込む。トーカは肩をすくめた。

「そういうことはシュリに言ってあげたら?」

「オレが言ったら逆効果。化粧をしたシュリさんは見たいけど」

 そう、とトーカは呟く。逆効果。残念ながら彼の言葉は正しい。

 給湯室へ向かう背を見て考える。報われないHS-2にプレゼントをしてあげるのも悪くない。

 それにしても、と、ポーチから鏡を取り出し塗ったばかりの紅を拭う。

 この状況下で口紅を塗っていることに気づかない男がシュリの薄いメイクを喜ぶかどうかは、はなはだ疑問ではある。




3.シュリ


 口車に乗せられてしまった。

 ミーティングルームのドアの前に立ち、今更ながらにシュリは思う。

 昨日の夜、『この色どう思う?』とトーカが口紅を持ってきた。二人でしばらく女の子らしい会話を交わした後、彼女は別の一本をくれた。

 流石に断ったが『明日、口紅塗っていこうと思うんだけど一人じゃ恥ずかしいからシュリもこれ塗ってきて』と言われた。もちろん断った。が、『これイブキ長官が贈ってくれたの。明日定時連絡あるし、塗ったところ見せようと思って』と最初の口紅を示し言う。

 トーカがイブキ長官に育てられたとは聞いていたが、長官でもそんなことするんだと少々呆れる。渡してくれたのが薄くて良い色だったので、まあこれならと了解した。そして今朝、ウキウキしながらそれを唇にのせた。

 しかし、ミーティングルームのドアの前に来て気づいたのだ。

 話が上手すぎないか、と。

 長官のプレゼントだという件は嘘か本当かわからないが、よく考えればトーカは『一人じゃ嫌だから一緒にやろう』と言い出すタイプではない。長官に見せたいのなら一人でさっさと塗るだろう。

 ハメられた。

 何故そんなことをしたのか理由はわからないがハメられた。

 かといって今更落とすのも勿体無い気がする。気づかれるか気づかれないかぐらいの淡い色だ。いや、しかし。

「何やってるんだ、シュリ」

 ビクッとして振り向くとタースがそこに立っていた。

「お、はようございます、隊長」

「ああ、おはよう。入らないのか?」

「入ります」

 一歩身を引き、ドアを開けた隊長の後に続いて中に入る。

 隊長は別段普段と変わりなかった。化粧をするな、という規律はないが融通の利かない隊長が口紅に気づいたなら何か言うはず。

 ホッとしたような、味気ないような複雑な気持ちでセカンと挨拶を交わす。彼も気づいた様子はない。

「シュリおはよう」

「おはよう、ラット」

 ラットはこちらの顔をじっと見つめ笑った。

「似合ってる」

 思わず顔が朱に染まる。

「な、何が?」

「口紅」

 何事もなかったかのようにラットは給湯室へ歩いていく。

 シュリはその背に呟いた。

「……どうしてあんたが気づくのよ」

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