見えるけど知らない敵の影
シドに連れられやって来た執務室にて、私はいつも通り本棚からまだ読んでいない本を選び、シドに机へと運んでもらう。
分厚く大きなその本は見た目三歳児程度の幼児が読む物ではないにしろ、ここでできることなんてこれぐらいだからねぇ。
こういう行動からただの幼女じゃないってわかるんだろうなーなんて思いつつ、一言お礼を言って本を広げた。
私が本を読み始めてすぐ、シドも自分の席に着いて仕事を始めていた。
領主の仕事といっても一部はシドが対応してもいいそうで、クラヴィスさんの机に比べれば少ないもののシドの机にもそれなりの量の案件が乗っている。
なんでも本来分担されている仕事が大摘発によって担当者が軒並み捕らえられ、一時的な措置としてクラヴィスさんとシドがそのほとんどを担っているとかなんとか。
人員を補填したくとも国家資格が必要な仕事だから対応できる人が極僅かで、その人達も別の仕事で手一杯で、という悪循環である。まさにブラック。
正直なところ私のお迎えだとかお守りだとかせず、仕事に専念した方がいいのではと思っちゃう程度の量が乗っている。
溜まりに溜まっていた最初の頃に比べたら随分減ってはいるが、それでもこの量を二人で片付けるのは詳しくない私でもおかしいと思いますよ。
しかもここからクラヴィスさんが留守になるわけだ。
前に言っていたことがそのままならシドは残るんだろうけど……シド一人で捌ける書類にも限度があるはず。
クラヴィスさんが帰って来る頃には執務室が書類の山だろうなぁ……。
背筋を襲う嫌な予感に思わず体が震え、現実逃避に本を読み進めることしばらく、扉が開く音が耳に入る。
突然だったので一瞬身構えたけれど、この部屋に許可無く入れるのは一人だけだ。
シドが席を立ったのと同時、本をめくる手を止めて顔を上げれば、開いた扉の先に想像通りの黒が見えた。
「おかえりなさーい」
「……ただいま」
現れたクラヴィスさんは珍しく疲れた様子を露わにしていて、手には一つの書状を持っていた。
金の装飾が施された紐で緩く結ばれているそれをシドへと手渡し、首元を少し緩めている。
溜息まで吐いちゃってまぁ、これはとてもお疲れですね。そんなにめんどくさい相手だったのかしら。
「何をされたのですか?」
「何も。ただアースを連れてこいと言われただけだ。
無理だと言っても中々聞こうとせず、理解させるのに時間がかかった」
「……使者にしては随分と無知のようですね。契約獣を飼い犬か何かと勘違いしているようだ。
アース様を王都へなど、よく考えて言ってほしいものです」
やけに疲れている理由を訊き、盛大に顔を顰め皮肉めいた言葉を吐くシドを見て一人首を傾げる。
国側からすれば新たな契約獣について知っておきたいから連れてこいって話なんだろうけど、シドの反応からして非常によろしくない要望なのだろう。
契約獣が強大な存在だからなのかなぁとも思うが、中身は気のいいおじいちゃんなアースさんを知っているのでなんだか不思議だ。
「アースさんを連れていくと何か悪いことでもあるの?」
「……そうか、トウカは魔力を持たないから感じないのか」
「はい?」
一瞬シドから流れた「何言ってんだこいつ」みたいな空気はさておき、納得した様子で呟かれてまた首を傾げる。
確かに私は魔力を一切持っていないらしいけれど、それと何が関係するんだろうか。
見当もつかず疑問符を浮かべまくっている私と違い、シドは理解したのか軽く目を見開いてクラヴィスさんから私へと視線を移してきた。
なんですその目は。私はなにもしてない、と言いたいけれどこの反応からしてなにか普通じゃないことなんだろうねぇ……私、何かしてますか?
「アース様は強大すぎる魔力を帯びておられます。
ある程度は抑えているようですが、それでもあれほどの魔力を持つ存在が近くに居れば、普通の人は耐えられず魔力酔いを起こしかねません」
「魔力酔いは魔力の暴走に近い症状だ。
軽度であれば安静にさえしていれば治るが、重症となると専門の治療が必要になる」
「……もしかして命にかかわったりするやつです?」
「するやつです」
「魔力を使い慣れていない子供や病人、老人といった弱っている者は特に危険だな。
下手をすればアースが通りがかっただけでも成り得る」
「ア、アウトーー!!」
「……理解が速くて助かる」
思わず叫んでしまったけど意味は伝わったらしく、小さく呟くパパンが再び溜息を吐いていた。
領地の人達に契約のことを知らせた後も連れてこないのは単にアースさんの休息のためかと思ってたけど、こういう理由もあったのね。
こう例えると失礼だが、言わば毒の塊を人が大勢集まる王都へ連れてこいってわけでしょう。アウトだよ。
辺境の城であるゲーリグ城でもダメなのに、老若男女様々な人が集まっているだろう王都だ。危険にさらされる人の数は一気に跳ね上がる。
人が少なければ良いという話でもないのだけれど、何百人と重傷者が出たら大騒ぎどころの話じゃない。
例え知らずに要求していたんだとしても、今の説明を聞いたら危険だとわかるだろうに、どうして聞こうとしなかったんだろう。
──まさかクラヴィスさんに責任を擦り付けるためか。
嫌な考えが過ぎるとほぼ同時、頭の上に慣れ親しんだ大きな手が乗せられる。
そのまま優しく撫でられるので思わず顔を上げれば、誰かへの呆れを滲ませながらも緩く笑むご尊顔がこちらに向けられていた。自分の顔の良さに自覚を持っていただけませんか。
「視たところ陛下直属ではなかった。妙な息でもかかっているのだろうよ。
それより今から使者を連れてアースに会ってくる。
その間に準備と王都への同行者を募っておいてくれ」
「人選はいかがいたしますか」
「そうだな……兵を二人、御者をオルグ以外で二人、それから経理から文官を一人……が限度だな。
なるべく王都に一度も行ったことのない者を優先して選んでやってくれ。
長時間は無理だが多少の時間は作ってやれるだろう」
「かしこまりました」
突然の顔の良さを見せつけられ固まった私を置いて、主従は会話を続ける。
何せパパンはいくら私が固まろうと悶えようと止めるつもりは一切ないみたいだものね。
最早よくあるこの状況にシドも慣れて放置一択ですよ。ちょっと寂しい。
クラヴィスさんの指示を受け、シドは一礼して準備のためにすぐさま部屋を出ていく。
固まっていた私が言えることではないが、どことなく表情が硬かったのは気のせいだろうか。
それも気になるけど、それより今は王都への同行者についてだ。
「一緒に王都に行く人達ですよね? なんだか少なくありません?」
領主が王家に呼ばれて王都へ行くとなると、もっと大人数で向かうものだと思っていた。
大名行列、とまでは言わないが少なくとも身の回りの世話をする使用人とか連れて行くものじゃなかろうか。
だけどクラヴィスさんの言っていた人選はまさに最低限の人数だよね?
あんまり連れて行くと城内の仕事が回らなくなるかもしれないけれど、最初の頃に比べたら城内の人間も多少増えているのでそこまで回らなくなることはないだろう。
それは眺めて知っている私より自ら管理しているクラヴィスさんの方が把握しているはず。
聞いている限り王都にはクラヴィスさんの敵がいるようだし、安全を考慮してせめてもう少し兵を連れて行ってほしいのだけど、クラヴィスさんは机の方へと向かいながら首を振った。
「少ない方が守りやすい。
それ以上となると傷の一つは覚悟してもらわねば守り切れん」
「パパンが守る側ですか」
「私が守られる側か?」
どうやら安全を考慮した結果がこの人選だったようだ。
守られるべきは貴方だと思うのですが、いやまぁ、パパンだからなぁ……。
「……守られるべき立場だとは思いますよ」
「そうか」
なんとなくわかってはいたけれど、どうにもこの人には【自分が守られる】という選択肢がないようだ。
一般的な意見として苦笑い交じりにそう告げれば、どこか遠い視線で返された。
ちょっと闇深い物を感じてしまったわ。気のせいであってほしいけど気のせいじゃないんだろうなー。
他者を守ることが当然で他者に守られることは考えもしない。
独りでも進むこの人のことを想えば、そうなってしまうのも無理はないのか。
それとも自身を狙う敵の存在がこの人をそう在らせているのか。
それでも想う。この人は一体どれほど背負い、背負わされ、歩いているのかと。
幼くなってしまった私では何もできないのだけれど、それでも心配するぐらいは許されるだろうか。
この手が届く範囲で支えることは受け入れてくれるだろうか、と。
なんて思ってても、できる事なんて知識を伝えることぐらいだけだからなぁ。
事務処理ぐらいならできる、と思いたい。幼児が事務処理を手伝うのは流石にダメですかねぇ。
どうして私は幼児化したんだろうか。
考えても今はどうしようも無いけれど、結局そこに至ってしまう思考に緩く首を振った。
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