第9話 顔を見る伯爵
「使用人は今日でおしまいにして、副官やってもらえませんでしょうか……?」
「……は?」
そうコミさんが声を発したきり、執務室には痛いほどの沈黙が訪れた。
まあ、それはそうだと思う。
いきなり都合の良いことを言っているのは分かっている。
とはいえ回りくどいことを語っても、誠意は伝わらないものだ。
小洒落た会話で、相手の緊張をほぐして楽しい雰囲気を作る、なんて高等技術は夢のまた夢。
あ、あのですね、えーと……みたいな、言っているほうは冷や汗をかき、言われている方は腹が立つ、悲しい時間を過ごす結果は目に見えているのだ。
だからこその、この行動。
ごめんなさい!もしくはお願いします!の最上級。
文字通りの土下座交渉である。
自分を使用人に勝手に登録した伯爵が、今更掌を返したのだ。
コミさんからすれば相当に頭にくる状況だろう。
けれどもおよそ二ヶ月後に迫る監査を通過するために、これは重要な賭けなのだ。
閉領を防ぐためにまずやらなければならないこと、それは経費の削減だ。
今月分はともかく、来月分は収支を改善するための行動は見せなければならない。
監査での期待度評価を稼ぐためにも、こういうわかりやすい策は欠かせない。
まずは伯爵報酬を当面返上することにした。
成果を上げる前に金銭を受け取るのは詐欺師である、というのは官学校時代に学んだ変人講師の教え。
なかなかの暴論だとは感じるが、今のエト伯が給料をもらう理由を探すほうが難しいだろう。
今回は彼の教えに従っていこうと思う。
俺が引き受けた仕事は監査を乗り越えること。
報酬は達成後に受け取る契約なのだから、途中で金銭をもらう根拠がない。
ちなみに監査を乗り越えられなければ、報酬は無しにしてもらった。
俺は意志の強い人間ではない。
逃げ場があるとどうも手を抜いてしまいそうで怖かったのだ。
ただし、前金は受け取ったままである……。
受け取ってもらわないと罪悪感で死にそうになります、と執事さんに言われて甘えてしまった。
強く断れなかった自分に、俺やっぱり俗物なんだなあ、と軽く哀しくなった。
そんな俺がやるのは心苦しいが、次に考えたのは使用人の減給だ。
豪華な食事をやめ、掃除を自身で行なう。
経営の反面教師ともいえるこの領地には、もはや来客対応の必要もない。
となると残る二人の使用人がやる仕事は少なくなる。
それなら今までと同額の給料を支払うのはおかしいと考えた。
減給に納得がいかなければ退職してもらう。
もちろん退職金の出費は必要になるが、領地として体質改善を試みたという事実は残る。
監査を乗り越えるためには重要なことだ。
もし退職する場合なら見舞金という形で、領伯の私費を渡すことができるのも大きい。
受け取ってしまった前金をここで使えればいい、という打算もあった。
支部二階部分が汚くても、領伯向けの料理の質が最低でも、現時点での領地には影響がない。
どちらも俺の手が回る程度でいい。
そこで早速使用人二人の給与の支払い履歴を確認した。
どれくらいの減額が適当なのか、それによってどれくらいの効果があるのかを計算するためだ。
すると目についたのはコミさんの給与だ。
使用人としてはかなり高水準。
プラト領の現状にはそぐわない額だった。
その理由を調べた結果、彼女が副官から強引に使用人に回されたことがわかったのだ。
彼女の給与を副官基準にとどめたのは、エト伯なりの謝意だったのかもしれない。
それでも副官としては安いけど……。
加えて幸運なことに、彼女の得意分野はこれからのプラト領に必要になるもので、思うところもあった。
彼女の赴任時期を確認した俺は、そこで一つ賭けをしてみることにした。
「……と、とにかくお顔をあげてください、こ、困りますので……」
長い沈黙を経て、コミさんは掠れ気味の声で言葉をかけてくれた。
彼女を見るのが少し怖くて、俺はゆっくりと頭をあげた。
しかし眼に入った彼女の表情は怒っている……というより、とにかく困惑一色という状態だった。
「その、ロエルくんが副官として赴任されていたかと思うのですが……」
……そうだった。
俺、今居ないことになってるんだった。
な、ならばここは……。
「か、彼は私に愛想をつかして逃げ出してしまいました。よっぽど嫌な思いをしていたようです」
正直に言えば人間としてはそこまで嫌いではない。
領伯としては最低だったけど、悪人ではなかった……と思う。
職員や使用人に悪さはしていなかったみたいだし、不正はなかったようだ。
まあ、予算配分はおかしかったけれど……それを正当に推し進めたところはある意味すごい。
「え……!彼が……そ……それはまた……」
彼女は驚きに目を見開いた後、憐れむような、やっぱり困ったような複雑な表情を見せる。
普段あまり表情を出さない彼女がこれである。
何か思う所があるのかもしれない。
「私はその……代わり、ということですか?」
さっと彼女はそこで表情を変える。
感情が読めない、けれどどこか冷たさを感じる顔だ。
一見、コミさんのいつもの表情に見えるが、違う。
むしろ少し前に見た彼女の表情に似ている。
あの夜執務室から出ていったノフィがしていた表情だ。
何かが拭い去られてしまった後の顔。
その表情で俺は確信した。
やっぱり、コミさんは「彼女の側」の人なんだ。
「プラト領を『適化』します。だから貴方の力が必要なんです」
適化、というのは官学校で変人講師が始めた研究の一つ。
官学校内でもっとも人気がない。
そもそも講師が不健康な見た目というのも大きい。
でも不人気にはもう一つ大きな理由がある。
なのにわざわざそこを選び、彼女と似た表情を見せたコミさん。
間違いない。
叶えたい何か、欲しい何か、達成したい何か。
コミさんは、そういったもの持った人なのだ。
それなら俺のやることは決まっている。
そんな眩しいものの持ち合わせがないからこそ、伯爵という地位を利用して行動しなくてはならない。
この人の顔から、何かを拭い去ってはいけない。
そんな世界はもうまっぴらごめんだ。
こういう人に哀しい顔をさせない、そう決めたんだから。
「現在プラト領は閉領を目前にしています。次回の監査を超えることができなければ、この領地は撤退を免れない。
そのためには確かな実績が欲しい所ですが、短期間で大幅な改善は見込めないと判断しています。
となれば期待度評価を取りに行くしかありません」
だからこそ、さきほどから目を見開いたままのコミさんに、とにかく俺の方針を話してみる。
現状判断材料が足りないだろうし、副官になってもらうとすれば結局話す必要のあることだ。
まあほとんど変人講師の受け売りなんだけど……。
「期待度評価を上げるには……」
「し、仕組みを変えるのが一番効果的……」
コミさんは俺の言葉を引き継いだ。
やっぱり。
彼女は本気だった人なんだ。
その証拠に官学校を俺より先に修了し、使用人を年単位でやらされていたのにも関わらず。
未だに変人講師の教えを覚えている。
「ですから、適化を学んでいた貴方に協力していただきたい。副官として知恵を貸してもらいたいのです」
とりあえず、これで俺の策はおしまいである。
当然、勝手に配属を変え使用人にした挙げ句、今更副官に、と言われても気分を害するだろう。
まるで物のように扱われたと感じてもおかしくない。
しかもエト伯と彼女の間には、特筆するほどの信頼はない。
でも見過ごすことはできない。
コミさんのあの表情を放っておくのは、俺のちっぽけな決意に反するのだ。
彼女が使用人として働く間に、かつての思い入れをどれくらいすり減らしたか。
そして閉領を前に、何を思っているのか。
予測は大方当たっていたみたいだけれど、後は彼女の気持ち次第。
俺は言葉を区切り、彼女の返答を待った。
「……やります」
どれくらい沈黙があったかは定かではない。
けれど、彼女の感情がたしかに表れた表情と声。
「やらせてください」
まるで別人のように熱を感じる彼女の瞳に。
俺は賭けに勝ったことを実感し、ほっと息をついた。
ど、どういうこと……!?
「本来ならコミさん用の机があるべきなんですが……」
あ……はい、ここに座ったらいいんですね……。
いえいえ、お構いなく。
ってそうじゃない!
どうなってるのこれ……。
心なしか嬉しそうな伯爵に、応接椅子に誘導されながら私はひたすら混乱していた。
使用人が伯爵に誘導されるってなんなんだ……。
彼のまっすぐな眼に見つめられ。
私は熱にうかされたように、やらせてください、と答えた。
正常な判断ができているのか自信がないのは、見逃してほしい。
唐突ではあったが、憧れの仕事。
短い期間で終わるかもしれないけれど……副官だ。
逃げ出したという副官の代わりと言われた時は、少し心が冷えたのを感じた。
そこで、この期に及んで何かを期待していた自分に気づき、情けなくなった。
感情を抑えて、取り繕って、隠してきた本心に心底呆れたのだ。
それに伯爵が私をどう扱ったかを思えば、浮足立ちそうになった自分を抑えられた。
今更言っても仕方がないが、副官から異動させられたことは事実だ。
けれど、伯爵の次の一言はそんな私を撃ち抜いた。
正確に、的確に、寸分違わず、私を捉えた。
――プラト領を『適化』します。
青天の霹靂とはこのことだ。
閉領を目前に、使用人の職すら失う。
途中で副官を辞めさせられている私の場合、他の開拓領への再配置はまずあり得ない。
だから諦めようと、無かったことにしようと言い聞かせていたのに。
伯爵の口から聞かされたのは、いつかの彼の言葉だった。
官学校の講師になった憧れの副官が、よく言っていたこと。
期待度評価をあげるには、仕組みを変えるのが効果的。
私の心はあっという間に持っていかれてしまった。
自分でも簡単な女だとは思うけれど、どうしようもない。
望んでやまなかった機会が巡ってきてしまったのだ。
けれど……なんで適化の話をエト伯が知ってるんだろう。
一般の知名度なんてそれこそ皆無といってもいい分野のはず。
伯爵は官学校じゃなくて、家庭教師で官学をやったって聞いたけれど……。
ああ……やっぱり何がなんだかわからない!
彼は本当にエト伯なの?
それとも、私の頭がおかしくなった?
とりとめのない考えが頭の中をぐるぐると渦巻き、考えがまとまらない。
こんなに混乱したのは人生で初めてかもしれない。
正直表情を保つので精一杯。
「使用人だと読むことができなかったと思うので、まずはこちらを」
眼の前の机に置かれたのは、プラト領の収支を始めとした経理書類。
官学校時代、何度も眼にした形式のものだ。
私は声を出す余裕も失われていたので、とりあえず頷いて受け取る。
なんとか自分を落ち着かせながら、目を通す。
当然芳しくないわけです、と伯爵は苦笑する。
「ただ私の報酬の返上と、人件費が抑えられるので少し余裕がでてきます」
人件費が抑えられる……というのは使用人が激減したことが原因だ。
見た所退職金の支払いは先月までで終わっているし、伯爵報酬の返上分も大きい。
っていうか全額!?
えっ……この小太り伯爵どうしたの!?
私は思わず書類から顔をあげ、伯爵を見つめてしまう。
結構失礼な表情をしていたのかもしれない、彼は気まずそうに言う。
「え、ええ……書類の字が一部汚いのは、しぶは……いえ、前の副官が乱筆だったようで……はは……」
確かに言われてみれば、書類は分かりやすく二種類の筆跡に分かれていた。
片方は美しいが、片方はお世辞にも綺麗とは言えない。
この書類は支部伯の仕事なので、おそらく副官だった彼が手伝ったのだろう。
相変わらず便利に使われていたらしい、これは逃げ出したくもなるかもしれない……。
ってそうじゃない!
貴方これだと無給ですけど!
「あの伯爵、お給料は……」
「あ、コミさんの給与は据え置きです。副官としては低い水準で申し訳ありませんが、正直限界なので……」
「い、いやそうじゃなくて……」
貴方の給料の話です!
「とりあえず、給与面の問題ではロンドさんが一番困っています」
聞いてない!?
……きっと伯爵だしお金あるんだよね、貯蓄なんてしなさそうだったけど……。
お腹も蓄えてるし、痩せるいい機会かもね……。
気を取り直して、話を聞くことにする。
「ロンドの給与……ですか?」
「言いづらいんですけど……正直これ以上彼を雇っている意味がなくて……」
……哀れなロンド、婚約者にしばらく養ってもらうことになりそうね……。
「食事が美味しいのは嬉しいんですが、彼に腕を奮ってもらう必要はないんです。自分の分は自分でつくりますから……」
……この人は一体どうしたというのだ。
まかないでいい、と言った後は自分でつくるとか言い出した。
もうわけがわからない。
「あ、あの……一体どうされたんですか?何か特別なことでも?」
失礼は承知だが、聞かずにはいられなくなった。
「さ、最近は朝もお早いですよね。清掃もご自分でされますし、昼食は既にご自分でプロウトを作られてると聞いています」
プロウトを作るのでゼリック粉をもらえないか、と言われたロンドが呆けていたのは記憶に新しい。
「それに、その……こちらを見てお話になります」
そう、これが地味だけれど大きい違いだ。
朝の清掃を断られた日、強烈に感じた違和感はこれだった。
エト伯が私の目を見て話す。
今まではちらちらと見られるだけだったのに。
私の質問に、エト伯は気分を害したのか眉間に指をあてうつむく。
確かに最後はちょっとまずい発言だったかもしれない……。
と、考えていると彼は顔をあげて苦笑いする。
「こ、恋をしたから……かな」
ああ……よかった、私の知っているエト伯だ。
童貞が服を来て歩いている様子は、全く変わっていないようだ。
女性に夢を抱いていらっしゃるようで何より。
私は今までの動揺が嘘のように霧散していくのを感じた。
でも……。
なんで今、苦笑いしたの……?
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