第7話 春の嵐
昨晩の雨などなかったように、今日のプラト領を見下ろす空は晴れ渡っている。
森の陽だまりへの道も思ったよりぬかるみはない。
けれど、普段はあまりない水気がそうさせるのか、地面には小さな足跡が見え隠れしている。
「ろ、ロエル、これ……!」
先程まで沈黙したままだった銀髪の少女は、嬉しさがにじむ声を出した。
おそらくその足跡の主に思い当たったのだろう。
「もう少しだよ」
後ろからついてくる彼女を振り返ると、その額には汗が伝っていた。
「ちょ、ちょっと!見ないで!」
「少し休憩しようか?」
「ち、違うから!平気だし、余裕だから。全然疲れてないわ!」
どうみても肩で息をしている彼女だったが、楽しみな気持ちのほうが強いらしい。
普段あまり山には入らないというので気がかりだったが、この様子なら心配しなくて良さそうだ。
俺は再び前を見て、歩き始める。
互いにまた無言に戻るが、先程より彼女は近くにいるような気がした。
「ふわぁ……」
今にもよだれを垂らしそうな王女様の眼の前には、身体を寄せ合って眠る子猫族。
お気に入りの陽だまりで、今日も彼らは気持ちよさそうに眠っている。
「かわいい……天使……にゃーん……すき……お土産にする……食べたい……」
「食べたいの!?」
呆然と立ち尽くしたまま、支離滅裂なことを言い始める彼女。
その扱いに途方にくれそうになっていると、助け船、もとい助け猫が声をあげた。
「悪い人がきたにゃ!」
チャップがそう言うと、お昼寝をしていた子猫族が一斉に顔を上げる。
「食べられる前に……食べちゃうにゃ―!」
「ひぃぇ!!」
一転攻勢に出た彼らに、にゃーん!と殺到された彼女は、やっぱり高貴さとはかけ離れた悲鳴を上げた。
「ふへへぇ、しゃーわせえ……」
まあ当然、子猫族達が人をおやつにするはずもなく。
新しい遊び相手が増えたと大喜び。
大きくて怖い生き物は苦手と聞いていたが、俺よりも背が低く、怖さとは無縁な彼女なら……という俺の考えは正しかったようで安心した。
目一杯憧れの子猫族達と触れ合った王女様は大変ご満悦なご様子である。
「よだれたれてるにゃ、お腹へってるにゃ?」
具体的には足に乗せたチャップに、尻尾でよだれをふかれるくらいの有様だ。
他の子猫族達は、遊び疲れたのかお昼寝を再開している。
「もふもふぅ……」
「く、くすぐったいにゃ」
恍惚とした表情で、今度はチャップの尻尾をなでさすり始めた彼女。
もはや変態の域である。
俺は近くの木の幹に背を預けて、ぽかぽかと暖かい木漏れ陽に身を任せる。
雨を忘れたような地面の上を通り抜ける、爽やかな風が心地よい。
「ロエル、どうしてここへ連れてきてくれたの……?」
しばらくそうしていると、彼女の真剣な眼差しがこちらを向いていた。
先程までのだらしなさは消えている。
いつの間にかチャップも、彼女の側でお昼寝をはじめていた。
「それに……伯爵を続けるってどういうこと?」
俺のその意思を、スタンデールさんに伝えたのは今日の朝のこと。
彼が今後の段取りについて説明をしてくれようとした際に、俺から伯爵を続けさせて欲しいと願いでたのだ。
アセンヌ院の院長としても、執事としても、ほとんど驚きの表情を見たことがない彼が目を見開いてくれたのは照れくさく、ちょっと誇らしかった。
「俺、ずっと反抗期だったんだ」
「反抗期……?」
自分の気持ちを正直に人に話す、そんな機会は今までそうはなかった。
だから突飛な出だしになってしまったのは仕方がない……はず。
その後、俺のここまでの話をした。
両親が死んだ時に感じたこと。
それ以来、傍観者のように生きていたこと。
「親に必死に反抗してたんだと思う。頑張らなくても生きていけるし、無理なんかしなくても生きていけるって見せつけたかったんだよ」
悔しさとか悲しさとか。
そういう気持ちに引っ張られたままで、俺は結局むきになっていたのだと思う。
一方で、返事をしてくれなかった世界、親を捨てたように思えた世界への精一杯の反抗だった。
「でもそうやって生きてみたら、すかすかの人生になってさ。生きてるのに死んでるみたいっていうか」
彼女のように、何かを求めて行動をすることなんて無かった。
悔しがったり、悲しんだり、そんなことを避けてきたのだから。
だから、誰かを巻き込めるほどの引力をもった彼女に心を動かされた。
きっとそんな彼女の有り様に、俺は惹かれたんだと思う。
目標も、欲しいものも、行きたいところも禄にない。
でもそんな俺だからこそ。
「伯爵をやることで、一生懸命な誰かを前に逃げないことで。やっと反抗期を終えて、変われるような気がしたんだ」
俺はすかすかのプロウトだ。
伯爵になる人間がやるべき努力などしていない。
王女様を支えられるほどの器もない。
それでも眼の前にいる一生懸命な人を見捨てるような行動は、かつて親を見捨てた世界を睨んだ俺に、つばを吐きかけるようなものだと、強く思ったのだ。
「だからお飾りの伯爵じゃなくて、偽物の伯爵になる」
自分の力で得た地位ではないし、首飾りだって借り物だ。
まごうことなき、偽物。
「怖い物語に出てくるような生きた屍じゃなくて。物語にすら出てこないくらいの、庶民になれたらいいなって……。ああ、いやちょっと例えが悪いな……ええと……」
ここまで言ってみたはいいけれど、なんだかとても恥ずかしくなってきてしまって。
大変締まらない最後になったと思ったのは俺だけじゃなかったらしい。
「ふふっ……」
案の定、王女様にはくすくすと笑われてしまう。
でもそれは少しのことだった。
すぐに彼女は真剣な表情になる。
「絶対にね、何がどうなったって私が謝る側なの。貴方を巻き込んで、挙句の果てに八つ当たりして」
ごめんなさい……と頭を下げ、そこで一度言葉を切った王女様。
沈黙はあったけれど、俺が嫌いな静けさはもう無かった。
「でも……今嬉しい」
顔を上げた彼女の表情は笑顔だった。
そして、そこには哀しさも滲んでいた。
「自分の住んでいたところが、全部無くなるって分かった時。心が抜け落ちたようになったの」
彼女は自分の思いについてぽつり、ぽつりと話をする。
「ロエルと違ってお父様もいるのに、私は貴方ほど強くはなれなくて。王宮へ入ってからずっと帰れなかったこの景色が無くなると、お母様がいた事さえ世界から消えてしまうような気がしたの」
家を引き払った時。
俺が感じた奇妙な静けさ、その予感を彼女も感じていたのかもしれない。
言葉にできない、圧倒的な何かを失った後に襲ってくるあの感覚。
俺は強がって目を背け、彼女は失わないようになりふりかまわず行動した。
きっとそれが、今の俺と彼女の違いそのものなんだと思う。
「理解されないって分かってたつもりだった。私の大切なものが、誰かにとって大切なわけじゃない。だから、権力みたいなもので無理を押し通すのはどうしても抵抗があった」
でも……と彼女はうつむく。
「眼の前で崩れていく領地が……もう、どうしようもなくて。誰に助けを求めたらいいのか、わからなくて。強引だって分かってたけど、無理やり貴方に背負わせてしまった」
震えていて、しかし彼女の意思ははっきりとこもった声。
「もっとたくさん謝るべきなんだと思う。わかってるけど……」
そこまで話して少し沈黙した後、彼女はもう一度顔をあげる。
「今はとにかく、すごく……すごく嬉しいの」
その頬には涙が伝っていた。
この間と正反対の表情で、彼女はまた泣いている。
「もうなんか上手く言えない……言えないけど。考えてくれて、悩んでくれて、気持ちを教えてくれて。ありがとう」
泣きながら笑う王女様。
これはノフィ開拓支部伯ではなく、彼女本人の心からの表情なんだと思う。
「っ……ふふっ……やだな……ロエルの前で私、泣いてばっかりね……」
溢れる涙を拭いながら彼女はもう一度微笑んだ。
「もう共犯だから」
しばらくして涙が引くと、そんなことを言い出す王女様。
やたらと共犯者を強調する彼女に押され、呼び方を変えることになった。
「ノフィ……さん?」
「さん、に遠慮を感じるからやめて」
「ノフィ?」
「よろしい」
ノフィ伯の姿をしていない時も、対等の関係ということにしたいらしい。
「閉領になっても報酬はもちろん出すけれど、ロエルのことは死にかけ君って呼んであげるから」
そんな冗談が言えるくらい、いつもの調子を取り戻したおうじ……ノフィ。
すやすやと寝ているチャップのゆらゆらと動く尻尾を捕まえたり、捕まえなかったりしている。
しかし、随分長居してしまった。
ノフィの伯としての仕事をかなり圧迫してしまった気がする。
「大丈夫よ。執務室には立派な道具があるじゃない、活用しなきゃ予算の無駄……でしょ?」
「確かに」
無駄を嫌った俺へ都合のいい言い分に、俺は思わず笑ってしまう。
眼前のくすくすと笑う彼女がやってくれば、あの静けさは去っていくだろう。
また賑やかな残業が待っていそうだ。
「むにゃ……難しい話は終わったにゃ?」
俺たちの控えめな笑い声で起きたらしいチャップがむくりと身体を起こす。
寝ぼけ眼の彼に、お別れはしなくて良さそうという話をすると。
「にゃあ!やったにゃ!またもちもちのおやつ食べれるにゃ!」
と飛びついてきた。
真っ先におやつの話を出すどこまでも無邪気な彼の様子に。
俺たちは今度こそ大きな声で笑った。
「……で、件の手紙は可愛らしい子猫族にあげてきた……と」
その日の夜。
賑やかになるかな……と想像していた執務室は思った以上に静かであった。
その静寂にスタンデールさんの声が響く。
「王族に渡れば、直接報酬等がでる形式のあれを」
執事さんがおっしゃっているのは、俺が一度は受け取った報酬や今後の仕事について記述された手紙のことである。
あれをもったまま、というのはどうも逃げ道があるようで……ということでノフィにお返ししたのだ。
そしてその手紙の行き先はまさかのチャップ。
彼が手紙の中身ではなく、王族が使う綺麗な紙と判子模様に興味津々だったからだ。
ほしいにゃ、と迫られた彼女は一切逡巡するそぶりを見せず渡していた。
「可愛かったんです」
そして当のお嬢様は、この潔さである。
ちょっと誇らしそうな表情ですらあるが、何を誇っているのかはわからない。
あれだ、アセンヌ院にあった童話の……馬鹿には見えない服の類。
庶民には感知できない誇り、みたいな。
なんかそういうのだよ、きっと。
「そう、可愛らしかったからあげたんですね?割と貴重なものだと記憶しておりますが」
「か、可愛かったんです」
強情である。
まあ彼らが教都へ行くことはないだろうし、報酬をせびることはないとは思う。
むしろまず間違いなく皆で触って遊んで、明日にはくしゃくしゃになっているはずだ。
スタンデールさんにその辺りは説明済みではある。
とはいえ、少しは釈明する気ないのかな……それもはや感想じゃないか……。
「子猫族と遊べて、楽しかったで……いたっ!」
やっぱり感想だった!
5歳くらいからでも言えちゃう感想を放つ王女様は、不敬罪を恐れない執事さんに叩かれていた。
「お、王女に手をあげたわね!不敬罪!有罪!有罪!」
「私はお嬢様の教育係ですから、間違いは正さなくてはなりません。それに私が叩いたという証拠はありません」
「後ろからだったけど、分かるもの!なんかこう、スタンデールっぽい感じだったもの!ぱぁんって感じが凄いスタンデールっぽかったもの!何回も叩かれてるから知ってるわ!」
仲良し主従はにわかに騒がしくなり、大変庶民じみた二人の言い合いが始まった。
俺は、そんな様子に頬が緩むのを感じる。
我が物顔で居座っていた静けさを追い出したのは、一つの嵐だったのかもしれない。
その嵐は騒がしくて、気づけば巻き込まれてしまうほどの暴風。
けれど春先に吹いたその風はどこか暖かくて、気づけば背中を押されていた。
ぬくもりを拭い去ったあの風を、後生大事に抱えていたのは俺自身。
その風を長く飼いならした俺の心は、今もすかすかのままには違いない。
それでもざわめいたのは、どこかに両親のぬくもりがまだ残っていたからだろうか。
彼女が見せた涙、笑顔。
いつか俺が、あんなふうな表情ができるようになる日がくるかはわからない。
けれど、少なくとも今あるそれが虚しさに潰されてしまわないように。
願わくば彼女がまた、嬉しくて泣けるように。
偽物は世界にもう一度、声を上げようと思うのだ。
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