第6話 無言の世界
「なんかごめんにゃ。面倒なものあげちゃったみたいにゃ……」
適当な布に、適当に穴を開けたであろう上着を来た彼は申し訳なさそうにする。
「いやいや、単純に贈り物として嬉しかったよ?綺麗だったし」
王女様の涙を見てから二日後、俺は慎重に人目を避け子猫族達のいる森の陽だまりに来ていた。
エト伯としてある程度の奇行は見逃されているけれど、こもりがちな彼が森へ入ればさすがに声をかけられそうだったからだ。
仕事が忙しくないのが影響しているのか、最近なんとなく心が騒がしくなるようなことが増えた。
毎日雑務に追われていた日々では感じたことのない気持ちに、どうも落ち着かず足を運んだのだ。
赴任当初は一部の木々が色づき、葉が落ち始める頃だった気がする。
アセンヌ院にあった冒険譚では、その後急激に寒くなり雪というものが降る……という舞台があったが現実はそこまでではない。
プラト領もその後確かに寒くはなったが、教都と大差はなかったし日中の陽だまりは暖かかった。
その頃からさらに時が立ち、また暖かな季節がやってこようとしている。
木の幹に背を預け座った俺のお腹を突付いて遊ぶ、適当な服を着た彼はチャップ。
三毛柄の子猫族男性で、身長は立った時の俺の膝くらい。
年齢は大人になりたてといった所らしく、本人が言うにはまだ大きくなる予定だそうだ。
とはいえ、中身は子猫族特有の無邪気さはそのまま。
「にゃふふ、ロエルのお腹ぷにぷにだにゃあ!」
その証拠に、申し訳なさそうな顔はあっという間に消え、エト伯姿の俺のお腹に夢中のご様子。
チャップくん、今はお昼寝をしている幼い子猫族達も同じ遊びをしていたよ。
君一応大人って言ってた気がするんだけど……聞き間違いだったのかな?
「こちょこちょ……」
「ちゃ、チャップ!くすぐったいって!」
今度はもふもふした尻尾でお腹を撫でる遊びに移行したらしい。
ちょっと!それ、すごいくすぐったいんですけど!
「ロエルがくれるぷらあど?みたいに、もちもち感もあるにゃ。人族のお肌は面白いにゃ!」
「ぷ、プロウトね……く、くはは!ちょ、くすぐったいって!」
「にゃふふふ」
ひとしきり俺のお腹をくすぐると、ふと心配そうな表情になるチャップ。
子猫族は表情はもちろん、尻尾や耳も使った感情表現がとても豊かだ。
「なんかロエル元気ないにゃ、やっぱり嘘ついて小太りになるのは嫌だったにゃ?」
「嘘ついて小太りって……あのなあ……」
率直な言い回しに苦笑いしてしまう。
「それともその女の子に振り回されて疲れちゃったのかにゃ?」
「ううん……まあ、そうなのかな」
振り回されているのは事実だと思う。
成り代わる計画はスタンデールさんの発案だが、その始まりは彼女が落とした首飾りにある。
あの状況では、俺には提案に乗る以外に手はなかった。
むしろそのように外堀を埋められていったというか、手の内だったというか……。
振り返ってみても、かなり強引な手法だったことは間違いない。
だから多分、俺は事故の被害者側なのだろう。
それを認識しているから、スタンデールさんも王女様も謝罪の言葉を口にしたのだ。
そして。
「にゃ?」
「これ?これは、手紙。こうやって紙に文字を書いて渡すものだよ」
「人族は文字を書くのが好きだにゃあ」
「話すだけだと忘れちゃったりしちゃうし、まあ色々と便利なんだよ」
俺は今朝スタンデールさんから渡された手紙を開く。
「沢山文字が書いてあるにゃ……ロエルはこれ全部読めるにゃ?」
「一応ね」
「すごいにゃあ!なんて書いてあるにゃ?」
そこには報酬の額と、教都で紹介できる仕事の一覧が書かれていた。
そして俺が望めば、いつでもそれらの手続きに入ることも。
端的に言えばいつでも伯爵を辞めていい、そういう通知だった。
「にゃあ……。じゃあロエルはきょうと?へ行っちゃうにゃ?」
「二ヶ月後だと思ってたんだけどね、随分と早まったみたい」
「せっかく仲良くなれたのに、残念にゃあ……」
チャップの大きめの耳と尻尾がぺたんと萎れている。
別れを悲しんでくれているらしい彼の様子に、心がすこし暖かくなる。
そんな心の動きが、なんだかとても久しぶりな気がした。
通知に従えば、俺はこの突飛な計画とは無関係な人間になって。
エト伯として、居心地の悪い椅子に座り続けなくて良いことになる。
手紙には主従二人分の直筆の謝罪も添えられていた。
要するに先日の夜の件に対する、彼らなりの答えなんだと思う。
あの夜以来王女様が執務室に来ることはなくなり、昼も夜も静けさは横たわったままだ。
「でもロエル……今日はほんとにお別れにきたのにゃ?」
元気が無くなった尻尾はそのままだけれど、彼の耳はぴんっと立っている。
どこか俺の心を見透かしたような彼の問いかけに、俺は驚いてチャップの顔を見る。
「なんとなく……迷ってる風に見えるにゃ。きょうとっていうのは怖いところなのにゃ?」
一時引っ込めた心配そうな顔をもう一度見せる彼。
「迷ってる……か」
一体俺は何に迷っているのだろう。
この手紙を受け取った時。
不思議と嬉しい、という気分にならなかった。
書いてあることは間違いなく有り難い話で、至れり尽くせりとさえ言えるはずなのに。
むしろ条件が良すぎて怪しい。
信用できない、何か騙されているのではないか。
俺はそう思ったから、この空虚な気持ちを何度も味わっているのだろうか。
利用されたから、そして不必要になったから捨てられるような、そんな可能性を感じたから二の足を踏んでいるのだろうか。
「子猫族は楽しい気分が特に好きにゃ。だから楽しい気分でいられる皆を仲間だと思っているにゃ」
傾き始めた陽を背に、心優しい友人は語り始める。
「別れが必要だったとしても。仲間なら笑って別れたいのにゃ。ちょっぴり悲しいことでも、気分の良い寂しさが残ってほしいのにゃ」
子猫族は気分屋だ。
事実、どんな本にもそんなふうに表現され、描写されている。
でも実際には、その意味するところは少し違った。
「ロエルとも、そうやってお別れしたいにゃ」
確かに彼らは気分で生きている。
でもそれは、お互いの気分を大事にしたい、という彼らの大切な気持ちの表れなのだと思った。
陽だまりの時間がすぎると、外は冷たい雨が降り出した。
ヴィージの羽音も、今日は聞こえない。
俺よりも、空虚さのほうが馴染んだ執務室で一人。
この部屋に我が物顔で居座ったままの静けさと、俺は顔見知りだ。
だからだろうか。
どうにも眠る気にならず、俺は思い返していた。
この静けさと見知ったきっかけ――両親の死について。
親戚縁者は、遺された俺をどう扱うか悩んだと思う。
俺もまだ10歳にも満たなかった頃合いだったし、とても心配してもらえたことを覚えている。
教国の国教であるアセンヌ教の孤児院、アセンヌ院に預けてもらえたのは彼らが一定額の寄付を続けてくれたからでもある。
アセンヌ院では、最低限の賃金を稼げる仕事を早くから教えられるから、一人で生きていく訓練にもなる。
親戚と一緒に暮らすことも勧められたが、迷惑をかけたくなかったという気持ちも強かった。
もっと幼ければ、あるいは自然に甘えられたのかもしれない。
ただ、両親の死とぶつかった俺の体験がそうはさせなかった。
優しかったし、懸命に働いていた父親。
そんな父を愛し、家のことはもちろん、時には自身も働き手として家を支えていた母親。
けれど二人は懸命になりすぎたからこそ、自らを振り返ることなく身体を壊し亡くなった。
俺を官学校に入れ、立派な暮らしを手に入れて欲しいという願いと、そのための貯蓄だけを残して。
ごめんね、と涙を流しながら謝る母親の姿は、今でも心に残っている。
細すぎる手で頭を撫でられながら、俺は悔しさを噛み締めていた。
そして二人が去り、遺されたものを知った時。
俺は感謝よりも、人の一生の哀しさ、儚さを感じたのだ。
願いを持ち、大人二人が懸命になった結果。
蓄えも途中のまま、結局息子は一人放り出されることになったのだから。
幸せを願って懸命になって声をあげても、この世界が返事をすることはない。
俺は大声を上げて泣いた後、そのことを悟った。
かつて暖かかった家は、冷たい風の通り道でしかなくなり。
二人の笑い声もぬくもりもそんな風に飛ばされて、だんまりを決め込む世界へ吸い込まれていった。
だから俺は決めた。
両親とは違う道を歩むと。
頑張っても、歯を食いしばっても、幸せを願っても。
結局虚しさと風の通り道しか残らないのだ。
決別の意味もこめて、生まれ育った家もアセンヌ院に入る頃に売り払った。
虚しさの象徴を手放した後、そこに感じたのは不気味なほど静かな時間だった。
この静けさを知った後、俺はとにかく無駄を省くことにした。
頑張ることや必死になることに意味はないと確信を持ったからだ。
親が遺したものを活用し、官学校に入った。
願いを背負って……というより、浪費すれば金なんて簡単に底をつくし、腐らせても無駄だな、と感じたことが大きかった。
講義は落第しない程度にそれなりに。
人付き合いも距離を保って、参加する必要のない競争は積極的に避けた。
副官になったのも同じ理由。
プラト領は先行きが不透明な上、給与も低いので赴任先として人気はない。
その頃から左遷の地、なんて揶揄されることもしばしばだった。
けれど他の領の席を競っても、その労力に見合うほどの給与の差には見えなかった。
せいぜい見栄を買う余裕が生まれる程度だ。
けれど、そうして手に入れた見栄だって、人生が終わるとやってくる静けさの前では何の意味もない。
もし閉領になってしまっても、不正でもしていなければ他の任地へ移動になるだけだし、プラト領を避ける理由はなかった。
そして予想どおり、誰と競うこともなくあっさりと赴任が決まった。
どこも間違っていない。
両親よりも賢く生きている、そう思っていたのに。
あの夜から、彼女の言葉が頭から離れないのだ。
どうしてそんなに冷たいのか、と。
何故か眼に焼き付いたままなのだ。
何かが拭い去られ、けれども哀しみだけは残ったような、そんな彼女の横顔が。
久しぶりに領地に降った雨も、俺の耳からその声を洗い流すことはなかった。
あの横顔の幻影も、いくら瞬きをしても薄まることはなかった。
そして、誤魔化せないほどに纏わりついた空虚さと、再会後にあっという間に部屋の主となった静けさを、改めて俺の眼前に突きつけるのだ。
かつて感じた奇妙な静けさとともに。
教都を飛び出し、周囲を巻き込み、俺を睨みつけた彼女。
確かに、はた迷惑だと言えるのかもしれない。
俺が彼女の被害者だと訴えたら、それは筋が通っているのかもしれない。
けれど何かを欲して、必死になって飛び出して、自身の愚かさと無力さに人前で泣いて。
そうやって彼女は生きている。
何も求めず、傍観者として立ち止まり、付け焼き刃の正当性と賢さによりかかって景色を眺めて。
そうやって過ごしてきた俺とは、まるで正反対だ。
そんな俺に、あの表情はできないだろう。
あの涙を流すことはできないだろう。
あんなに人の心を締め付けて、動かす瞳を見せることはできないだろう。
きっと……彼女は生きていて、俺は生きていないのだ。
一生が終わった時の静けさを、あの時からずっと握りしめたまま。
結局その時と同じ静けさに囲まれているのなら、それは死んでいるのと同じではないか。
冷たいに決まっている。
きっと俺はずっと悲しかったのだ。
優しくて、頑張っていた両親があっけなく死んでしまったことが。
きっと……俺はずっと恨めしかったのだ。
懸命な二人に返事を返さなかった世界と、他人事のように通り抜けていく風が。
あの時はまだ、俺は先日の彼女と同じ目をしていたんじゃないだろうか。
だとしたら。
かさかさに乾燥して、すかすかに空気が通り抜けたプロウド。
それは多分俺だ。
他人事と決め込んだような、きっと全然美味しくない人生だろう。
彼女だったら。
中身の詰まったぎっしりしたプロウドになるんだと思う。
美味しいかどうかは……ちょっとわからないけれど。
でも、多分強烈で唯一無二の味がするんじゃないだろうか。
皮肉なものだ。
自身が再三作らされ、癖になっているプロウトは後者なのに。
あの時悲しかったからこそ。
あの時悔しかったからこそ。
このまま伯爵の席を立ってしまえば。
雨が上がっても、この気持ちが晴れる機会はもう一生無い。
そんな気がして仕方がなかった。
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