第5話 冷たさと賢さ

 エト伯はノフィ伯と離れるのが嫌で、閉領が現実味を帯びてきて焦っている。


 ……そんな噂が領地内にまことしやかに流れてから一週間。

 俺の行いが以前のエト伯と違っても、生暖かい目で見られるだけで、本気で不審がられるようなこともなくなった。

 そこはかとなく哀しい気分になるが、これも作戦のうち。

 監査まで耐えればいいのだ、と言い聞かせ日々を過ごすことにしている。

 

 エト伯がノフィ伯に惹かれていることは、端から見てもわかりやすかったし支部内では当たり前に知れ渡っていることだった。

 同時にノフィ伯はそのことを歯牙にも掛けない状態であることも知れ渡っていた。

 そんな状況だからこそ、スタンデールさんの妙案ででっち上げられたこの噂も、違和感なく受け入れられたのだろう。


 大抵のことは生暖かい目で見られるだけで済む、と分かった所で今は少しずつ生活様式も変えていっている。


 まずはお腹を引っ込めるため、と言う方便で食事を変えてもらった。

 やたらと豪華だった伯爵向けの食事を辞めてもらい、現在は使用人のまかないと同じ程度のものを出してもらっている。

 贅沢なご飯はとても美味しかったけれど、領の現状を知った状態で浪費をする気分にはなれなかったからだ。


 次に執務室や私室の掃除は自分でやらせてもらうことに。

 コミさんはエト伯の生態に詳しそうなので、できるだけ接触を避けようというのが一つの理由。


 もう一つの理由は、何しろ暇なのである……!


 エト伯が仕事をやりたがらなかったため、そのほとんどはもはや委任状態。

 俺がやったことと言えば、エト伯の筆跡を繰り返し真似をすることと、執務室に置いてある領地の状況を示した書類を読むくらい。

 おかげで書類にはエト伯らしい署名をすることができるようになり、プラト領の状況を再確認できたので監査官ともそれなりにやり取りできそうだ。


 結局、今では毎日の掃除が日課になっている。


 お飾りとしてあまり派手な動きを見せるのも憚られるのは事実。

 かつて、副官としてやっていた仕事が現在どうなっているのかはわからない。

 とはいえ今の俺にどうすることもできないし、求められてもいないので口を出すことはしていない。


 仕事に追われることもなく、時間がゆっくりと流れる日々。

 やたらと広く感じる執務室と、穏やかに降り注ぐ陽射し。

 明るいはずの執務室は、まるで挨拶を交わしたことのない同級生のような、そんな奇妙で所在ない静けさが横たわっていた。


 そんな日中とは対照的に。


 陽が落ちた後、ここ数日の執務室は賑やかであった。


 

「あー!まったくもう!」


 この人は本当に第二王女様なのだろうか……。

 最近俺の中の王女像が音を立てて崩れていっている気がする。


 執務室にある、大きめの応接椅子。

 三人がけできるほどの柔らかいそれに、うつ伏せに倒れこみ足を騒がせているのはノフィリア王女。


 およそ淑女らしからぬ様子に俺が目を白黒させていると、その視線に気づいたのか彼女は顔を少し起こす。

 ノフィ伯としての姿を解いた彼女の表情には、はっきりと不満が現れていた。


「なに?」

「い、いえ……」

「私だって人間だもの、苛立つし愚痴だって言うの!」


 再びぽふっと顔を椅子に埋め、足をばたつかせはじめる彼女。

 そのまま、顔だけをこちらに向ける。


 こんな様子を見れば、とてもじゃないが王女様とは思えないだろう。

 年齢は俺より少し上らしいが、歳下に見えるくらい無邪気というかなんというか……。


「それからロエル、何度も言ってるけど、話し方!」

「えっ」

「普通にして!って言ったでしょ。もうこんなとこ見られてるんだし、変に気を使わなくっていいの」


 更に不満顔の王女様は、数日前から俺に丁寧な言葉遣いをやめるように要求するのだ。

 とはいえ官学校で上司に対する礼儀を叩き込まれた上、この間まで開拓支部伯として関わっていたのだ。

 これが結構染み付いていて、改めるのに苦労していたりする。


「お嬢様、あまり無理を言ってはいけませんよ。貴方と違って官学校でしっかり教育をうければ、常識も礼儀も身につけるんですから」

「ちょっと!?スタンデールこそ礼儀を身に着けなさいよ!私、一応王女!」

「私の知る王女はそんな下品な格好はされませんので」

「ぐ、ぐぬぬ!」


 同席しているスタンデールさんにあっという間に言いくるめられ、彼女はぱっと身体を起こし椅子に座り直す。

 その一連のやりとりには、まるで仲の良い兄弟のような雰囲気があった。

 気のおけない……というのはこういうことだろうか。

 

「どうしたの?ロエル」

「いえ……あ!いや、なんでもない」


 染み付いた丁寧な言葉遣いが出そうになった矢先、むっとした表情で見られ慌てて訂正する。

 そんな俺に、腕組みをして大げさに頷く王女様。

 どうやら執事さんにもお気に召していただけたらしく、彼も微笑んでいた。


 彼女とスタンデールさんが夜にやってくるようになったのは数日前から。

 

 これはヴィージ灯の節約のためだった。


 基本的に夜間の作業は、ヴィージ灯に火を灯すことで明かりを確保する。

 これはヴィージという生き物が残していく蜜を固めて作ったもので、教国では広く使われている。

 しかしながら消耗品で、毎日使えばその出費もかさみがち。


 そこで最近、ほたる石を用いた明かりを灯す道具が登場した。


 教都で売られ始めたそれを、エト伯は早速買い求めこの執務室に取り付けた。

 彼の元では一切活躍せず高級な置物と化していたが、これの存在を知った王女様が残業時に使わせてほしい、と言い出したのだ。 

 特に断る理由もなく、そして立場的に自分だけ寝る気にもならなかったのでなんとなく同席している。

 

 さきほどまで彼女は書類に目を通していたのだが、内容が気に入らなかったらしく吐き出した言葉が冒頭のものである。


「……ロエルのプロウト、他のよりもちもちして美味しい気がする」


 応接机の上にはスタンデールさんが淹れてくれたお茶と、夜食用のプロウトが置かれている。

 椅子に座り直した彼女はその一つをつまんでいる。


 プロウトは、手軽に作れる素朴な食べ物だ。

 ゼリックの粉を水と捏ねて焼くだけ。

 主食としても、ちょっとした間食にも適していて、作る人によって割と味が違う。

 ふわふわ系、もちもち系、かりかり系……毎日食べるものだから、皆色々と工夫している。


 今彼女が口にしているのは、執務室の簡易的な調理場で俺がつくったものだ。

 ただぼんやり同席しているのも手持ち無沙汰だったので、夜食にと作ってみた所意外と気に入ってもらえたようだ。


「確かに……普通のものより中身が詰まっているような気がします。ロエルくんは料理が得意なんですか?」

「得意ってほどではないですね、もちもち気味なのは癖っていうか」

「昔からよく作ってるの?男の人は買ってしまう人もいたと思うけど……」

「幼い頃アセンヌ院にいたので、そこで慣れちゃいま……な、慣れちゃったのかな」


 アセンヌ院での暮らしでは、生活に必要なことは一通り教わる。

 中でもプロウト作りは、掃除とならんで最初に習うくらい簡単なことだ。

 官学校時代もちもち感に煩い講師と、とにかくよく食べる同期がいたことで、俺のプロウトはもちもち系に寄っていったと思う。


「ロエルってアセンヌ院から官学校へ入ったの……?」

「そ、そうだけど、どうかした?」


 少し驚いた様子の王女様。

 内心未だにどきどきしながら、可能な限り普通の話し方を意識して返事をする。


「……そう、ロエルはやっぱり賢いのね」


 柔らかい表情ではあるけれど、どこか哀しそうな笑みを浮かべる。

 そして独り言と、会話の間くらいの様子で言葉をこぼした。



「どうしてさ、賢い人ほどそうなんだろうね」



 初めて聞く、彼女の影のある声だった。

 前を向くことに躊躇わなさそうに思えた王女様は、今は少しうつむいている。


「ロエルがエト伯やってくれてね、予算も通せるってわかったし。ご飯のこととか掃除のことで、エト伯が変わってきてるっていうのは薄々皆感じてるはずなのよ」


 まさかあんな噂で誤魔化すとは思わなかったけど、と恨めしげに自身の執事を見やる彼女。

 ところが、当のスタンデールさんは涼しく微笑むのみ。

 そんなできる使用人に軽くため息をついて、ノフィリア王女は続ける。


「実際小さな案件はロエルが署名してくれて予算もついたでしょう?」


 確かに彼女の言う通り、些細な案件ではあったがいくつか署名をしたはずだ。

 一つは支部内での備品交換についてだったと思う。


「でもね、いくら言っても、そうやって変化を見せても。支部の皆は白けたまま。改善案を聞いても返事なんてないに等しいし、会議を開いたって静まり返るだけ」


 まあ……そうかもしれない。

 変化があったとはいえ些細なものだ。

 これまでの流れを覆せるほどの動きには到底思えないだろう。

 このまま時間切れになる未来は、今の俺にもはっきり見える。


「スタンデールの言うとおりね。私、やっぱり頭が悪い」


 自嘲気味に、しかしうつむいたまま彼女は言う。


「支部の皆は次の仕事があるもの。ここが無くなっても別の開拓領へ行くだけ。むしろこの待遇から逃れられるから嬉しい、って人さえいるわ」


 静かに、けれどどこか吐き捨てるように言う彼女の声は、少しだけ震えている。

 彼女が座る椅子の後ろに立つスタンデールさんは、もう笑ってはいなかった。



「貴方もそうでしょう?ロエル」



 そう言って顔を上げた彼女の瞳からは、一筋涙が落ちた。


「本当に賢いと思う。仕事だって開拓領だって代わりはいくらもあるものね。プラトである意味なんて、どこにもない。執着なんてするから、いつまで立っても馬鹿のまま」


 心底悔しそうに、そして心底哀しそうに。

 彼女は言葉を絞り出すように話す。


「思い出も、思い入れも。ほたる石を増やすわけじゃないし、今ここにお金を持ってきてくれるわけでもない。そんなもの、何の役にも立たないわ」


 何かをしても閉領を避けられるかはわからない現状。

 閉領後に転勤したほうが仕事の条件は良いものになる。

 

 これじゃあ行動を起こす理由は見当たらない。

 先を見据えられる人間ほど、この答えに到達するのは早いだろうし、行動が早い人間は既にこの地を離れている。


「利口よ。効果的で、論理的で、正しくて。隙も、無駄もない。そんなもの見つけた先から削ぎ落としていくんだから当たり前よね」


 声だけでなく、肩まで震え始めた彼女の声はどんどんと勢いを無くしていく。


「あれもこれも欲しがって、駄々をこねて、でも能力はなくて。強引にかき回してみても、結局貴方も賢くって……そりゃあそうよね、アセンヌ院から官学校ですもの」


 涙が溢れることも構わずに、彼女は俺を睨みつける。

 美しい顔を精一杯険しくしたであろうその表情。

 縫い留められたかのように――あるいはかつて縛り上げられた時のように――俺の身体の自由は奪われ、身じろぎ一つできなくなった。



「ねえ教えてよ、賢い人ってどうしてそんなに冷たいの?」



 その言葉が響いた空間で、何かを考えたり思ったりするよりも先に。

 日中の執務室に横たわる、奇妙で所在ない静けさが戻ってきたと感じた。

 

 同じ場所、同じ空間なのに、昼と夜で明らかに違ったはずの部屋。

 けれど、陽がさしても、雨が吹き込んでも、星の瞬きに照らされたとしても。

 もうここから静けさが消えることはない。

 

 そんな直感にも似た感覚に俺は支配されていた。


 全員が黙り込み、止まったように感じる時間を動かしたのは、スタンデールさんの声だった。


「お嬢様」


 びくりと肩を震わせた王女様は、険しかった表情に悲痛さをにじませる。


「彼をこのような立場に追いやっているのは私です。エト伯が変われば、何かを見いだせるのではないかと愚考し愚行に出たのは私なのです。彼はそれを引き受けてくれて、こうして夜間も付き合ってくれています」


 決して大きい声ではない。

 けれど彼の言葉は、空虚さで満たされたこの空間によく響いた。


「お叱りを受けるなら、私です。背負う必要のないものを背負っているロエルくんに、そういったお気持ちを向けるのは大変失礼にあたります。この状況で私の言葉に説得力がないことは承知してはおりますが、どうかお聞き入れいただけますよう……」

「……」


 スタンデールさんの言っていることは事実ではある。

 事故から始まった今回の一連の事柄は、お互いにとって予想外の事態だったし、その後の対応も突飛なものだったことは間違いない。


「そうね……そうよね。ロエル、ごめんなさい。貴方に非はないのに八つ当たりしてしまったわ……やっぱり愚か者ね、私は」


 頬を伝う涙を拭きもせず、彼女はそう言って俺に頭を下げた後。

 ふらふらと執務室から去っていき、彼女を追い出した扉は静かに閉まった。


「さきほどの主の発言は私からもお詫び申し上げます。そしてすべての原因は私の発案ですし、ロエルくんにもこうして迷惑ばかりかけてしまいました……改めて申し訳のしようもありません」


 スタンデールさんは主をすぐには追わず、俺に正対し深く頭を下げる。


「い、いえいえ!頭を上げてください。俺は気にしてないですから……」


 気にしたところで何か変わるわけでもないし、前金まで受け取った仕事だ。

 ちょっと意見をぶつけられるくらい、業務の範疇だと思えば大した問題ではない。


 俺の言葉に穏やかな表情に戻る彼は、どこか保護者のような振る舞いを感じさせた。


「王族は意外と自由が効かないものです。彼女はかなり奔放ですが……それでも抑圧されている気持ちはあったのでしょうね。歳も近く、普段の姿を見せられるロエルくんに少し甘えてしまったんだと思います」


 開拓支部伯の仮面を持って教都を飛び出す王女様、確かに奔放さは否定できないだろう。

 

 偽り続けるというのは、どこかに無理が生じる。

 そしてそれは気持ちだって同じだろう。

 その無理を通すための突拍子もない策を含め、今回のことはそのしわ寄せだったのかもしれない。



「いつの間にか私も、お嬢様に毒されてしまっていたようです。いけませんね、これでは」



 自分の失策を悔やむ様子のスタンデールさん。

 その苦笑には、彼の主が浮かべた哀しみが滲んでいるような気がした。

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