第5話   まずい状況に

 二人が今いるのは、背の高い杉の木。髪がなびくほど風が吹き、肌寒くて、春先は少し乾燥していて、だからこんなふうに霧が下駄からゆらゆらと目の前を覆い隠すような事態には遭遇しないはずだった。


 相手が、幻術に長けていなければの話だが。


「これは『霧隠れ』の妖術なのだ」


「んなもん、俺様でも知ってるよ」


「どこかの忍者が妖怪に教えたーとか、逆に妖怪が忍者に教えたんだーとか、そもそも二者の間に交流はなかったとか、諸説あるのだ」


「何もわかんねーじゃねーか」


 宴が下駄に手を伸ばそうにも、微妙に届かない。ここから飛んで取ろうと提案すると、肋介に止められた。


「もうお前、アレいじんな」


「私のせいじゃないのだー」


「放っといて、行くぞ。下駄に詰まってる妖力が切れれば、霧も止むし、勝手に地面に落ちてくるだろ」


 そう言って、肋介が木から飛び降りて着地する。宴は、下駄を取ろうか迷ったが、下で肋介が待っていることに気づいて、おとなしく木から下りることにした。体重を軽くする術を駆使しながら、そっと着地する。


 見上げると、杉の木のてっぺんが雨雲に飲まれたごとくになっていた。二人がぽかーんとしていると、雨雲の中から本物そっくりの雷鳴が、そしていきなり、大きな雷神が降って来た!


「うぉわ!!」


「屏風絵の雷神様なのだ」


 雷神は二人に衝突する寸前で、霧のように掻き消えてしまった。肋介は尻餅ついでにその場に座り込んで、仏頂面に。宴はぽかーんと杉の木を見上げていた。枝に、あの下駄の鼻緒が引っかかって、揺れている。


「先ほどの雷神様は、術者が作り出した式神なのだ」


「式神だぁ?」


「イタズラ防止用の術なのだ。術者が指定した者以外が触れると、中で組んでいた巫陣が発動して、一時的に護衛の式神が出てきて驚かせてくるのだ」


「驚かせるだけかよ」


「イタズラ防止用はな。盗難防止用になると、式神が本格的に襲ってきて、泥棒と式神の戦いになるのだ」


 術に長けた大妖怪などが施した細工は、全自動で己を守る兵器のようになることもあり、誰にも盗まれず悠久の時を超えることもある。宴が通う神使学校の、歴史の教科書に掲載された一文によると、人間が「文化遺産」や「国宝」と定めたモノの中にも、それらしき術の痕跡が見られると云う。


 枝が折れてしまい、地面に下駄が落ちてきた。しかし宴は、拾わないことにした。今の自分の力では、落とし物に探りを入れるどころか、安易に触れることも避けるべきだと考えたからだ。


「雷神様の幻術の他にも、いろいろと罠が仕込まれているやもしれぬ。これは迂闊に手が出せないのだ」


「とりあえず、木の下に置いとくわ。この木はイイ目印になるしな」


 まるで通学路で見つけた誰かの落とし物を、車に潰されないように端っこに寄せるかのようだった。


「五時になったら、私は一度家に帰って、幻術の破り方を勉強してくるのだ」


「学校で習ってねえのかよ」


「まだの科目なのだ」


「今すぐ帰ることはできねえの?」


「家の鍵はお母さんが持っていてな、五時以降でないとお母さんが仕事から戻らないから、家に入れないのだ」


「合鍵作ってもらえよ……」


 今の時刻が何時かわからない二人は、城山の中腹にあるゲートボール場の時計が、ほんの少ししかずれていないことを思い出して、さっそく走りだした。


 ……そして、さっきの下駄のある木の下の付近まで、戻ってきてしまった。


「だあああ! もう、城山全体が妙なことになってんぞ!」


「実際に体験してみると、なかなかに不可思議なものだな。これが幻術に長けた者の実力なのか」


 知らぬ間に感覚が狂わされてしまう。これには宴の石色の眉毛もハの字に下がった。


 二人の前方から、腕を組んでゆっくりと歩き進む老夫婦が現れた。


「うーん、なんだか散歩がいつもより短かったような……」


「そうですねぇ、頂上まで登ったはずなのに、なんだか、そこまで疲れていないような気がしますね」


 心地よい疲れと共に、足腰の健康のために頂上まで登ったらしき老夫婦の会話に、宴たちは無言になってしまった。ふと、二人の子供に気が付いた老夫婦が、お辞儀で会釈。宴は丁寧に一礼、肋介は不機嫌そうな高速一礼で返した。


「まずいぞ宴、この山は大勢の人間が健康のためとか言って、休みの日になると、頂上まで登ってくるんだ」


「休みの日とは、学び舎や職場の休日のことか?」


「ああ、大概の人間は、土日に登ってくるんだ。でも中には、平日が休みのヤツもいる。さっきの老夫婦みたいに、仕事を定年退職して、家でのんびりしてる人間もいる。あとは、夏までに痩せる! とか言って毎日走り込みしてるヤツとかな」


「けっこう来るのだな」


 肋介がフンッと鼻息荒く、両拳をパンッと打ち付けた。


「なんにせよ、この俺様に挨拶もなしに山全体に幻術をかけるたぁ、礼儀のなってねえにも程があらあ! 陣取り合戦のルールってヤツを、教え込んでやる!」


「ああ。このままでは、城山を訪れる者が迷子になってしまうのだ。なんとかせねば」


 しかし、どこからでも登ることができて、皆から慕われて久しい城山を、完全に封鎖できるすべが二人にはなかった。先ほど歩き去っていった老夫婦を追いかけて、今が何時なのか、腕時計を見せてもらうと、


「十一時なのだ……」


 門限の五時まで、まだまだ余裕がある。


「そうだ! 肋介、城山の稲荷神社の工事が終わったばかりであろ? 明神様の御使みつかい二体に、お知恵を借りに向かおう」


「あー、俺様はパスで。その役、お前に投げるわ」


「うん? では、任された」


 なにか、稲荷明神の御使いとの間で揉め事でもあったのかと思ったが、宴は何も聞かないでおいた。今は、この不可思議な緊急事態に対処するための知恵を借りに行くのが先だった。


「行ってくるのだ~」


「迷うなよ」


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