第20話 金魚掬いならぬ人魚掬い
突然、椿が激しく身を
人魚のほうへ手を伸ばし、まっしぐらに走ってゆく椿。ピンクの紐の長さが足りずに、ピンと引っ張られて、それでも彼女へと手を伸ばし続ける。
人魚の、切れ長の双眸が、嬉しげに見開かれた。
「おお、人形よ。ワラワのもとへ来てくれるというのか」
人魚は泉の
「あ、あの!」
椿に何かされると焦ったスミレが、大きな声で呼びかけた。
人魚は露骨な不機嫌顔で、泉を動かす手を止めた。
「なんじゃ、そなたは」
スミレも負けじと、息を吸う。
「初めまして、雛尾菫です! あの、このお人形さんとは、どのようなご関係なのでしょうか」
「お前がそやつの所有者か」
「えっと、はい、そんな感じです」
人魚が椿の顔をのぞきこみ、その状態の悪さに、目尻を吊り上げた。
「おい娘」
「菫です」
「菫、この人形の作者が誰か、知っておるか」
「い、いいえ。でも、お寺の和尚さんなら、もしかしたら知っ――」
「知らんのか。なんとまあ」
スミレの台詞と被せ気味に、人魚が落胆の意を表した。
「価値のわからん者に、この
泉をぐいーんと動かして、水掻きの付いた人魚の手が、椿を縛るピンクの紐をがしりと掴んだ。
(あっ! 椿ちゃんが取られちゃう!)
椿を引き戻そうとしたスミレだが、人魚のが力が強く、スミレは前のめりに転びかけて手を離してしまった。
人魚の腕に納まった椿。その小さな頭を、人魚が愛おしげに撫でた。
「こんなにひび割れて、かわいそうにのう。皆に手荒く扱われたのか」
「そんなことしてないわ! ちゃんと大事にしてました!」
スミレの主張は、椿の裸足に付着した土汚れのせいで、信憑性がなかった。
「のう、人形よ、このひび割れた手足、これ以上に朽ちぬようワラワが
人魚は椿を赤ちゃんのように抱っこして、あっという間に水中へ沈んでいった。
泉の水が地面に吸収されて、残ったのは、びしょ濡れの雑草が生える道路だけだった。
「池ごと無くなっちゃった……」
スミレが、震える両手で自身のほっぺたを押した。
「池ごと無くなっちゃったわー!」
「スミレ、大声で叫ばずとも聞こえるのだ」
宴の冷静なツッコミに、スミレは少々腹が立った。
「もう! 宴も肋介くんも何してたの!?」
「はあ? 雑草が急に仕切りだしたから、任せたんだよ」
「任せないで! べつに仕切ってなんかないんだから!」
「お前こそ、なに盗られてんだよ、紐ちゃんと持ってろよ!」
「う、それは、わたしの油断だったけど……」
気まずそうにするスミレの様子を見て、肋介はちょっと意外に思った。無限に食ってかかる女だと思っていたから。ふと、宴がずっとうつむいて思案している姿に気がついて、声をかけた。
「どうしたよ」
「肋介、すみれ、私は時葉叶継の名前に心当たりがあるのだ。あの人魚に詳しい話を聞くことができれば、椿を修理できる手掛かりが掴めるやもしれぬ。もう一度、あの人魚に会おう」
「会うって……しゃーねーな、ちょっと待ってろ」
肋介は城山を見上げて、その生茂るたくましい緑に覆われた自然の中に、意識を飛ばしてみた。この地を縄張りとし、守ると誓い、その想いに応えてくれた土地……彼らは返答をよこした。人魚はまだ、山に潜伏していると。
「宴! こっちだ!」
「え、なになに!?」
慌てるスミレの手を引いて、宴は、先をゆく肋介の背中を追いかける。
スミレは二人の勢いについてゆくだけで、足が取れそうだった。転んだら、引きずられそうで、そればかりが恐ろしくて、走らざるを得ない状況だった。
肋介が入っていったのは、城山の山門。舗装されてない天然の道は、訪れる人々の足と、市の役員の管理によって歩きやすく平らかにされ、傾斜のある山肌には大昔より根を生やす大樹が、豪快に幹をねじ曲げながら空をめざして枝葉を伸ばしている。
若々しい黄緑色の、柔らく短い雑草の合間に、点々と蕾を見せる小さな花々が、三人の駆け抜ける道の両脇を、可愛らしく飾っていた。
最寄りにはゲートボール場、その両脇にはベンチが二つ。
ちょうど試合が終わって、おじいさんたちが帰ってゆくところだった。試合内容に不満があるのか、微妙にトゲのある感想を口々にしている。
スミレがゼェゼェしながら連れてこられたのは、そのもう少し先にある、手洗い場だった。竹を駆使した水道から、湧き水が小さく水音を立てている。
その傍らには、鎖でつながれた金属のコップが。しかし『飲めません』という立札の示すとおり、これは山の土のみで
「湧き水……?」
スミレはここで何度か手を洗ったことがあった。タオルを湿らせて、首に巻いたこともある。
見知った場所に、今は半分白骨少年と、自販機
「人魚は水気を好む妖怪だ」
半分白骨少年が、湧き水を見下ろしながら語る。
「春は空気も乾燥してるらしいし、最近は雨が降ってなかっただろ? そんな山に人魚が登ってきたんだ、水気が恋しくなるだろ」
「肋介くん、ちゃんとしゃべれたのね」
「どういう意味だ!」
ちなみに肋介の知識ではなく、山から託された言付けだった。
「で、こっからどうすんだよ」
「だれに聞いてるの?」
「山だよ、俺様の山!」
ここは市の
宴は山肌に近づいて、しゃがんだ。去年に掃き残された落ち葉からただよう、しっとりとした腐葉土の香りに、鼻を近づける。
「ここに潜伏しているのだな」
宴は立ち上がると、自販機模様のド派手な着物の、
「肋介、私を友と認めてくれたこと感謝している。おかげで、お前の縄張りとも
「お、おい! なにするんだよ、変なことすんなよ、俺様の縄張りだぞ!」
「肋介の害になることはしないのだ」
宴がどんどん糸を引き出して、器用に手早く、水引きのような作品を一つ作った。真っ白くて小さな
「できた。肋介とこの山の縁で作った、
「ちっちぇーなー。ままごとかよ」
「それどうするの?」
ふとスミレは思い出した。宴の作品は、どれも巨大化するのだと。
「さあ柄杓、ここらの縁をさらに吸って、大きくなるのだ」
宴が宙に放り投げると、柄杓は回転しながらむくむくと大きくなり、宴の両手に収まる頃には、
宴はさながらシャベルのごとく、湧き水の下に柄杓を突き刺した。土も野草も傷つけることなく、柄杓だけがすっぽりと地面に潜った。
せーの、と小さく掛け声。宴が掘り返すのと、細い湧き水が水面を揺らして大量の水源と化すのは同時だった。
「な、何事だ!」
柄杓が大量の水とともに
宴が柄杓を地面に置いた。後ろでスミレが「椿ちゃんを返して!」と叫びそうになるのを、片手で制す。
「人魚、話があるのだ。我々はその人形を修理するために動いている。作者の時葉叶継について、何か情報があれば教えてほしい。私ならば、それで直せるかもしれないのだ」
「……」
人魚は開いた口がふさがらないでいる。まだこの状況が飲み込めていないようだ。
人魚のべしゃべしゃに濡れた手で包まれている椿が、故障しないか心配になったスミレは、椿の髪も着物も濡れていない様子に、ひとまずホッとしたのだった。
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