第5話 すみれの家なのだ
あんなに手足をばたつかせていた椿が、電池の切れたオモチャのように動かなくなってしまった。
(ん〜? さっき動いて見えたのは、わたしの、かんちがいだったのかな……)
椿の両脇を持って、歩きながら、真上に掲げる。人形が動くわけない、という固定観念に基づく自分と、でもさっき動いてた! と訴えるもう一人の自分に、スミレは眉毛を真ん中に寄せて、小首を傾げるばかりだった。
スミレの歩く振動に合わせて、揺れる小さな手足と、光沢ある長い髪の毛。
寺の蔵から取り出されたばかりの、まだ手入れのされていなかった頃の椿の格好は、江戸時代のまんまだった。乾燥しきってばさばさになった髪の毛、ひびだらけの肌、色
(きっと気のせいね!)
急にうきうきしながら椿を抱きしめるスミレに、傍らの宴も、よくわからないけど微笑んでいた。
(すみれは人形が好きなのだな。おなごとは、こういうものなのだろうか?)
下り坂が終わり、二人は住宅街に入った。この先には、ぜひ宴を案内したい名所、名物、土産品を売る店がずらりと並んだアーケードがある。伝統工芸品と美味しいお店がたくさんの、大通りにだって出られる。
……が、やっぱり宴の格好が気になった。真っ白だった着物は違和感の塊だったが、寺の植物の模様が付いた今も、変に目立っている。
「あの、宴、ちょっといいかしら」
「ん? どうした?」
「わたしの家、すぐそこなの。あの茶色い屋根のところ。ベランダに布団が干してあるでしょ?」
スミレは指を差して、ふと、ピンク生地に白と黄色のお花柄という、自分の掛け布団の模様がすんごく恥ずかしくなって、あわあわと慌てた。
宴の目線は、屋根に向いていた。この辺りは豪雪地帯で、冬の季節は屋根の雪下ろしがしやすいように、トタン屋根となっている。
「えっと、あそこが、わたしの家なの。そのー、ちょっと寄っていきましょ? あなたにはもう少し普通の格好をしてもらいたいのよね」
「私の格好は、普通ではないのか?」
「すごく、目立つわ。その、髪の毛も……」
その年齢で頭髪を真っ白くブリーチかけてる上に、髪の毛先だけ黄緑色のメッシュを入れた子は、スミレはお目にかかったことがなかった。宴のこれは、生まれつきなのだろうが、そうと知らない人が見たら、着物と相まってびっくりされるだろう。
「私は目立っても問題ないが」
するとスミレが拝むようなポーズで、お願いお願い! とジェスチャーするので、宴は一瞬きょとんとしたが、了承してうなずいた。
「わかったのだ。すみれの家で、少し世話になる」
「ありがとう〜!」
すんなり了承する宴に、スミレは脱力して眉毛が下がってしまうが、甘えることにした。
(あら、男子を家に招待するのって、初めてだわね。親戚の子が遊びに来ることはあったけど。家でお母さんに会ったら、なんて言おう……)
うーん、と考えるスミレだが、まあいいか、と開き直った。
「わたしの家、そんなに広くないけど、息が詰まるってほどでもないわ。お茶とお菓子、用意するわね」
「すみれは腹がへってたものな」
「……あの、お弁当は、作らないわよ?」
一世一代の突発的な告白は、宴の世間知らずにより撃沈されていた。
「こんにちは、ジーナちゃん」
スミレがしゃがんで背中をなでなですると、ジーナは耳だけぴくつかせて、顔は上げなかった。婆さん猫だからか、警戒心や好奇心というものは、薄くなってしまったんだろう。スミレの声を聞いただけで、充分のようだった。
宴がきょとーんとジーナの背中を凝視している。
「すみれの猫なのか?」
「誰が飼い主なのか、わかんないの。この近所でよくお昼寝してるのよ。野良猫かもしれないわね」
ふーん、という気の抜ける返事を一つ。宴もしゃがんで、ジーナを撫で始めた。
「じーな、私は宴なのだ。よろしくな」
着物の
猫を見下ろしてにやにやする宴の口角の端っこから、
(あ……そうか、宴は、人間じゃないんだったわね……)
しかも、どんどんジーナの三毛模様が、宴の右腕の着物の袖にじんわりと浮かび上がってゆく……。先に映っていた夕紅寺の植物の模様が、宴の腹部や背中方面へと、ゆったり移動してゆく。三毛猫模様の袖になった宴に、スミレは椿の着物も、そのようにならないかと、小さな手をそっとジーナに付けてみたが、ダメだった。
スミレは立ち上がって、引き戸の玄関扉の取っ手に指をかけた。がたがたと揺れただけで、開かない。
「あら~、閉まってる。あ、そうだった、お母さん今日は夕方までパートがあるって言ってたわね」
「鍵が開いていれば、母上がいるのか?」
「うん、うちは家の中に大人がいるときは開いてることが多いのよね」
スミレはスカートのポケットから、ボールのような形状の猫のキーホルダーが付いた玄関の鍵を取り出した。引き戸の重なる箇所についた銀色の鍵穴に差して、右に回す。
スミレが勢いよくガラッと開けたので、宴がびっくりして、ジーナは寝返りを打っただけだった。
「ただいまー!」
スミレが玄関に上がって、靴からスリッパに履き替えた。
宴も、ちょっと遠慮がちに玄関に足を踏み入れる。玄関の左側には靴箱があり、大小の靴が収まっていた。宴の足元には、スミレが脱いだばかりの桃色のサブリナシューズと、女性物のサンダル二足と、紺色の鼻緒の大きなゲタが一足。
「男物のゲタなのだ」
「お父さんのなの」
宴が、ふぅん、とつぶやきながら、ゲタを凝視している。
「宴?」
スミレが怪訝な顔をしていると、ハッと宴が顔を上げた。
「ああ、すまない。男物のゲタが当然のように並んでいるのは、どういう感じなんだろうと、考えていた」
「ん? どういうこと?」
「うちは母子家庭でな。家の男手は私一人なのだ」
「ああ、そうだったのね」
スミレのクラスにも母子家庭の子が何人かいたが、どの子もお母さんと仲が良かった。
「今度、お母さんのお話、聞かせてね」
「聞くより会ったほうが、わかりやすいぞ。性格そのまんまな見た目だからな」
「そう言えば、毎年和尚さんのもとへ、お母さんと来てるって言ってたわね。ぜひお会いしたいわ!」
「今度、紹介する。すみれと都合が合えばいいな」
ちゃっかり、宴と約束するスミレなのだった。
宴は履いていた草履を脱いで、きちんと向きをそろえてから、廊下を歩くスミレについていった。
廊下を歩いてすぐ、左手にガラス戸が、右手側には障子戸があって、スミレは右の部屋が客間であることを教えながら、左手のガラス戸をがらりと開けた。
「ここがうちの居間なの。あ、ちょっと散らかってるかも! ここで、待っててね」
スミレが先に居間へ入ってあちこち見回すと、綺麗好きな母が
(ほっ……じゃなかったわ、お母さんパートから戻ったら絶対怒ってる。やばいわ~。……まあいいか、そのときになったらあやまろう)
大きな窓際のベージュのソファに、椿をそっと座らせた。
「宴、もういいわよ、入ってきて」
入ってきた宴を残して、今度はスミレが廊下へと出る。
「わたしは着替えを取ってくるから、ソファで座ってて」
居間に残された宴は、テレビに、一刀彫りのテーブル、天井の電灯に、絨毯にと、物珍しさに青空色の両目を丸くして、突っ立っていた。
この場の家電の一切の名称がわからない。珍しい物でいっぱいの部屋に、「わあ……」と感嘆の声を漏らす。
「して、そふぁ、とは? 座椅子のことなのだろうか」
するとソファに座っていた椿が、片手でとなりをぽんぽんと叩いた。
「おお、そこか。ありがとう、椿」
窓際のソファまで歩いてゆく途中、視界に入った一刀彫りのテーブルの上に、今月号の雑誌が置いてあった。
日本の伝統を特集している雑誌のようだ。お茶や弓道、花道を始めたい読者へ向けた、優しく短い紹介文と、名場面の
いちばんメインで表紙を飾るのは、
彼の紹介文を、宴の青い双眸が追ってゆく。
「伝説の人形師、
スミレが着替えを両手に持って、廊下を戻ってくると、まるで誰もいないかのように異様に静かだったので、開いているガラス戸からこそっと顔をのぞかせてみた。
(あら? ふふ、ソファで正座してる)
宴が椿と並んで、正座して雑誌を読み合っていた。宴が椿にも見えるように、雑誌を傾けている。
(優しいのね〜宴。って、あの雑誌は……!)
スミレは慌てて、二人に声をかけた。
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