第2話   彼氏とは?①

 宴の手をつかんだまま、スミレは勢いよくお辞儀した。もう片方の手で抱っこしている椿つばきの首が、ガクーンとかたむいて、宴を凝視する。


 きょとんとする宴の、白い前髪が風に揺れる。何をお願いされたのかピンとこなくて、空色の青い目をぱちぱち、無言で和尚さんに視線を向ける。


 突然に始まった、ドラマのような青春の一ページ目に、和尚さんは上手いこと話を繋げねばとあわあわした。


「彼氏っていうのはね、ラブレターとか、バレンタインとか、手作りお弁当をいっしょに食べたりとか、そういうのだよ」


 お弁当、しか宴の知っている言葉がなかった。すっとした形の、白い眉毛をまんなかに寄せてしまう。


「すみれ、顔を上げてほしい。私はお弁当は持参していないのだ。和尚様なら、菓子の一つも持っているのではないか?」


 スミレはげんなりと顔を上げた。急な告白だったとは言え、この流れはナイと思った。


「もう、和尚さんたら。あのね、彼氏っていうのは……あれ? 彼氏って言葉、知らないの?」


「私はこの辺りの生まれではなくてな。まだ言葉に詳しくない。えっと、かれし? とは、なんだろうか。辛子からしからすなら知っているのだが」


「もしかして、外国の子なの? あ、そうよね、外国の人も着物でお寺参りするわよね。どこの国から来たの? 日本語とっても上手ね」


 宴が「……えっと……」と苦笑する。


 和尚さんも頭を掻いていた。


「宴くん、今日は何か用事かい?」


「ん? 本日のお昼過ぎに、椿の修理にうかがうと、事前に連絡していたのだが」


「ああ、うっかりしてたよ。半年に一回、お母さんと来てくれてたね。あれ? お母さんはいっしょじゃないのかい?」


「母は急な仕事が入ってしまった。花が散る前に、私だけでもお花見しようかと、あ、ちがった、修理を終わらせようかと思って……来たのだが……なんだか、体が固くなるな……」


 話している途中で、緊張に負けてしまった宴に、和尚さんがハハと笑う。


「そうだ、スミレちゃんは、今日は時間あるかい?」


「え? はい、勉強の予習とかありますけど、夕方にやる予定ですから」


「そっかそっか、じゃあ今日は椿ちゃんの修理はいいから、スミレちゃんと宴くんで、いろんな場所を歩いてみるのは、どうかな? 言葉もいろいろ教えてあげてね」


 スミレが驚いて和尚さんを見上げた。喜びと戸惑いが心に浮かんで、次の瞬間には、はしゃいで宴と向き合っていた。


「わたしでよければ! 行きましょ、宴くん」


「本当に良いのか? 和尚様。椿のことで、悩んでいたのだろう?」


「大丈夫だよ。今すぐに直さなきゃいけないこともないからね」


 和尚さんも、以前から宴の世間知らずっぷりには危機感を抱いていたのだった。いつか誰かが、そばにいて教えてあげる必要が……と考えていたところに、小さい時から知っているスミレが。

 これはもう、好機としか言えない。宴はめったにここを訪れないから、尚更、春休みのスミレとお出かけしてもらいたかった。


 和尚さんがその旨を話すと、宴が納得して、健気に待っているスミレに向き直った。


「すみれ、私のことは呼び捨てでいい。そっちのほうが調子が出る」


「あら、じゃあわたしのことも呼び捨てで。よろしくね、宴くん、じゃなかった、宴」


 男子を呼び捨てするのは初めてだった。いつも名字に、くん付けだったから、急に心の壁がなくなったみたいで、スミレはなんだか照れくさくなる。


「はい和尚さん! 椿ちゃんを返すわね」


 照れ隠しに、和尚さんの大きなお腹へ椿を押しつけるように返した。外見を修理したとはいえ、内部の作りは古いお人形だから、あちこち連れ回しては体の部品が取れてしまうかもしれない。


 スミレは風で乱れた前髪を手櫛てぐしで整えて、ちょっと気持ちを落ち着けてから、改めて宴に振り返ると、


「あれ? 宴くん?」


 もう呼び捨てを忘れてしまうほど、スミレは驚いた。足音もなく宴の姿が、忽然こつぜんと消えてしまっている。


「どこ行っちゃったの?」


「そこにいるよ?」


「え? え? どこですか?」


 そこ、とスミレのとなりを指さす和尚さん。しかし、誰も立っていない。


「すみれが消えたのだ!」


 宴は宴で、となりに立っているスミレの姿を見失って、おろおろ。散歩の約束をした相手が、一瞬で消えてしまっては、先に行ってしまったのかと思って階段の下も振り返る。が、いない。


 隣同士で並んでいるのに、二人が互いを捜している。


「あ、いたのだ」


 宴がほっとした顔でスミレに声をかけようとしたら、スミレが山門から庭のほうへ、宴を捜しに入っていってしまった。


「あれ? また消えたのだ。すみれ、足が速すぎだぞ」


 すぐそこの庭にスミレがいるのに、宴は明後日あさっての方向へ顔を向けて、ちょっと不満そうに口をとがらせる。


 その異様な光景に、きょとんとしていた和尚さんは、ハッと気づいて、小脇にしていた椿を見下ろした。和尚さんの腕の中で、椿が宴を凝視している。


「もしかして、きみが二人を会わせてたのかい?」


 和尚さんは椿の両脇を持って、顔を近づけた。

 お人形の彼女は、答えない。白い手足が赤い着物の端から、ぶらぶらと揺れるだけだ。


「菫ちゃん、ちょっとこっちに戻ってきて」


「え? はい」


 戻ってきたスミレに、和尚さんがお人形を手渡した。


 そのとたん、スミレと宴が驚き顔で互いを発見する。「ここにいたの!」「すみれ、こんなに近くにいたのか」と同時にしゃべって驚いている。


 やっぱり、と和尚さんはにこにこしている。


「菫ちゃん、この子も連れて、お出かけしておいで」


「え? でも、椿ちゃんは古いお人形だし、何かあったら、弁償できませんから……」


「菫ちゃんはいつも、この子をとっても大事にしてくれてるから、何も起きないと思うよ。それより、この子は今まで遠出をしたことがないんだ。ずっとお寺の中で大事にされてきたんだけど、女の子だもんね、お外に出て、おしゃれな着物をみんなに見てもらいたいと思うんだ」


「そうですか? たしかに、大勢いる前では、椿ちゃんは出たことがなかったですね」


「三人で、川沿いの桜並木でも観光しておいで」


 スミレは、良いのだろうかと戸惑っていたが、お気に入りの椿と、なんだかとなりに居るだけでなごんでしまう宴と一緒に、お散歩できるということは、きっとこの上ない幸せなんじゃないかと考えたとたん、わくわくし始めた。


 ふと、夕紅寺の庭の、まだ蕾が残る五分咲きの桜の木を見て、急に夢が覚める。


「どうせなら、満開の桜がよかったな……」


 和尚さんもスミレの視線に気づいて、庭の木を見上げた。


「ああ、本当だ。ちょっと残念だね」


「すみれすみれ、一輪も咲いていないよりは、ずっと美しいのだ」


 宴が気にしていない様子だ。だったら、このままでいいかとスミレも納得する。


「そうよね、可愛いお花が咲いてることに、変わりないもの。それじゃあ和尚さん、椿ちゃんと出かけてきますね。宴くん、じゃなかった宴、お花見に行きましょ! 日本の桜はきっとステキな思い出になるわ!」


 笑顔のスミレに、宴がちょっと肩をすくめた。


「私は門限もんげんが、夕方の五時なのだ。それまでに到着できるだろうか?」


「すぐそこなの。歩いて十分か、そこらよ」


 初めて一人で歩いてきて、お母さん以外の女性に案内されてついてゆくのは、年頃の男子には恥ずかしいことだろう。


 でも和尚さんは、二人の相性が良さそうなので、任せてみることにした。


(宴くんもそろそろ、地上で活動する時期が訪れただろうからね)




 石階段を下りながら、進行方向を指さすスミレと、その後を追う宴。


「菫ちゃんなら大丈夫だ。きっと宴くんのことも椿ちゃんのように、大事にしてくれる。あ〜青春だねぇ」


 山門の下で二人の姿を見送りながら、和尚さんがため息をついた。


「そうか……あのお人形は、このためにあったのかもしれないな」


 夜な夜な動いている痕跡こんせきがある、と小坊主さんたちを怖がらせてばかりのお人形だった。気のせいだと思う和尚さんだが、あまりの訴えの多さに困り果て、蔵にずっとしまっておこうかと悩んでいた時期があった。


 そうしなくて良かったと、晴れ渡る空を見上げたとたんに、屋根までこけむした古い山門ののきが、視界に入ってきた。


「お、このアングルいいな。春の快晴と、苔がちょっと垂れてる屋根! 雰囲気がいいね~」


 しばらくカメラのシャッターが鳴り続いたのだった。


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