第1話 お寺へお人形を返しに
それは、まだスミレがスマホで自撮りをしたことがなくて、トイ★リンに対しても、複雑な劣等感を抱いていた頃のこと。
白とピンクのツツジが咲き乱れる庭で、
「和尚さーん、今日が期限でしたよね。
スミレが
「ああ、今日がそうだったかい? ほんじゃ返してもらうよ、ちょっと待ってて、
元気な枝葉に着物のあちこちを引っ張られながら、なんとか脱出した和尚さんが、ゼェハァしながらスミレのもとにやってきた。
「わざわざ来てもらって、すまないね。この子がうちの
「ありがとうございます。でも、この子ももとのおうちに帰りたいでしょうし、やっぱりお返ししますね」
本音を言うと、スミレは彼女が、まるで姉のような妹のような、家族に近い存在に感じて、それ
でも、歴史ある大きなお寺の由緒正しいお宝だ。欲しいという気持ちだけで、手元に置いてしまうのは、よくない気がした。
(来月が来たら、また彼女を貸してもらいましょ。それまで、さびしいけどお別れね)
スミレは両手に抱えていた彼女を、名残惜しそうに見下ろした。江戸時代に製作されてヒビ割れだらけだった顔は、腕の立つ職人の手により、貝の粉を溶いた塗料で修復されて、色白の愛らしい小顔に戻された。手毬模様の赤い着物は、近所の手芸屋さんが着物の
顔の修復は和尚さんの、そして着物の新調はスミレの案だった。二人で、蔵の中に封印されていたボロボロの人形を、直してみようと決意したのが、5年ほど前。
修復に修復を重ねた美少女の人形には、もはや骨董品としての価値はないのだろう。しかし、蔵の中で封印されているよりも、可愛く着飾って客間に飾られているほうが、よっぽど喜ぶのではないかとスミレは思っている。
黒く艶やかな人工モノの長い髪を撫でて、スミレは椿を、和尚さんへ差し出した。
そのとたん、古い手足の間接が心配になるほどバタバタ動きだして、和尚さんがびっくりして両手を引っこめた。
スミレも驚いて、落とすまいと小さな体を抱き寄せる。
がくり、と手足を揺らして、停止した
突然動き出した、ように見えただけなのだろうかと、二人はシーンとして人形を凝視した。
(まさかね~……)
と気持ちを上書きして、二人はさっきの光景を忘れることにした。
「菫ちゃんはこの春、中学に上がるんだってね」
「あ、はい」
「いやはや、おめでと~。いや~、おっきくなったね~」
スミレが赤ちゃんの頃からお世話になっているお寺の住職は、当時からずっとこの人だった。スミレは家よりも広いお寺が大好きで、お坊さんの横に正座して読経のマネごとをしたり、お花を飾る手伝いをしたり、長い廊下を走り回ったりしていた。
今にして思えば、なんて迷惑な子供だっただろうと恥ずかしくなるが、それでも
スミレの両腕にしっかりと抱えられて、白黒チェックのワンピースの胸に頭を預けているこのお人形こそ、スミレと瓜二つの顔をもつ、可愛らしい友人、椿だった。
「菫ちゃん、べっぴんさんだから、早くも彼氏ができちゃうかな、へへへ~」
「彼氏ですかぁ」
小学校六年間、特に気になる男子がいないスミレには、ちょっと想像できなかった。
「小学校でカップルになった男女はいましたね。会って速攻でビビッときたんだ~とか自慢されちゃって。本当にあるんですかね、ビビッとって」
「
ハッハッハ、とお腹を抱えて爆笑している和尚さんに、スミレは空気を読んで微笑んでいた。
一陣の春風が、
ツツジに、
和尚さんの趣味の写真の、毎年の被写体になっていて、プリンターで印刷されて手作りカレンダーになって、ご近所や
スミレは花の香りを胸いっぱいに深呼吸した。体の隅々まで、花の鋭気が満ちてゆく気がした。
そんなスミレの
「おや?」
和尚さんが声をあげた。その視線の先は、スミレの背後である。
自分の他に、山門への石階段を上ってきた人がいるのかと、スミレは慌てて山門の隅っこに移動した。
十段以上ある階段のてっぺんだと、お寺の駐車場からこちらへ歩いてくる参拝者がよく見える。
それが見慣れない服装をしている相手なら、なおさらよく目立つ。
白い
その何者かが、
「和尚様~、こんにちは」
その声を聞くまで、スミレは彼の性別すらよくわからなかった。となりに並ぶようにして階段をあがってきたのは、輪郭の境界線すら白く見える不思議な少年だった。
たとえるなら、塗り絵の、色を置いてゆく前の景色。
この少年には、不自然なほど色が無かった。
頬も、唇も。今はよく見えないが口の中まで、きっと真っ白なのかもしれない。
それでもこの場に立っていることに不気味な不自然さはなく、むしろどこにいたって溶け入ってしまいそうな、穏やかな雰囲気をまとっていた。
「……」
スミレはしばし少年のいでたちに目を奪われていた。圧倒され、頭の中の退屈な何かが、書き換えられてゆくような、何かが再構築されてゆくような、そんな感覚に、体が硬直していた。
「あなたは……」
スミレの声に、少年が目を丸くして振り向いた。薄い灰色に近かった両目が、一瞬にして青空色に染まった。
見間違えかと驚くスミレに、空から色をもらったばかりの少年が、大まじめに体を向ける。
「これは失礼した。お初にお目にかかる。私は宴という」
「うたげくん?」
「名前は一文字で、宴会という字の、最初の文字だ」
「ああ、あの文字ね」
騒がしい宴会場、幼いときにオレンジジュースの入ったコップを手に持って、大人がお酒を交わしながら真っ赤な顔して談笑し合う中を、意味もなくそばに寄ったり、テーブルの下をくぐったり、それが楽しかった。
今思えば、大勢の大人の中にまざれて、おもしろかったんだろう。そんな記憶が蘇って、宴という名前にも、親しみを覚えた。
「わたしは、
「すみれかー。良い名だな」
へにゃ~っとした笑顔で、八重歯をのぞかせる宴の、その姿に、スミレは、ビビッときた。それはもう、直感とか、脊髄反射のように、気づけば彼の冷たい左手を、ガシッと右手でつかんでいた。
「あの、宴くんっ!」
「はい」
「わたしのっ彼氏になってくださいっ!」
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