第3話言語化

思考するとき、言葉を用いる。頭の中でも会話している。言語を他者とのコミュニケーションツールとして定義するか否かも面白い題材だけど、それはまた今度。


今こうして書いている言葉は、私の頭の中で再生されている真っ最中だ。論理を組み立てるのも、言葉遊びみたいなものだろう。


だけど、言葉によって思考するのは雑念が入って、というか、言語に制約されているようで、非常にやりにくい。


具体例を話そう。


最近、スマホのアプリでちょっとしたゲームをするのにハマっている。とりわけお気に入りは列車の運行管理で、次々とトンネルから出てくる列車を、路線切り替えによって同じ色の駅舎へ誘導する。切り替えは随所にあって、目を離したすきに切り替えを通り過ぎてしまうのだ。2分間、50台、駅舎は13、と言うと、イメージしやすいだろうか。


頭の中がごちゃごちゃしてくると、処理落ちするなぁ、と思う。そう、頭の中で声に出す。そうすると本当に、ボロボロと違う駅舎に入れてしまう。


列車の色を意識してもそうだ。分からなくなってくると、冷静になろうとして、出てくる列車の色を確認する(青色、紫と黄色(じつは密かにさつまいもちゃんと呼んでいる)、ピンク、白……)。処理速度が落ちる。結局ある程度の台数を切ることになる。


試しに歌を歌いながらやる。歌詞を暗記していて──そう、歌詞付きのやつ──言葉として認識しないやつを。割と上手く行く。頭の中から言葉が締め出される。


媒体がなくなるのだから、当たり前だった。だから私の中で言葉は記録としての性質を強くしている。


もちろん、言葉を使って考える。概念だけで考えるのは、あんまり難しくないとき。だって天才じゃないから。


でも概念、感覚?で考えるときはとても良い気持ち。粘性のない液体を泳いでいるような。


たまに情報だけ入れておいて、意識は別のことをして、後になって思い出すということをする。理解しやすくなっている。


参考書を読んでいて、わからないところを飛ばして、後になって読んでみたら「なんだ、そんなことか」と思うでしょう。ちょうどあんな感じだ。


大量消費の時代に入ったのは、物質だけじゃなくて思考もだろう。過剰なコミュニケーションが推奨されるのもそのせいか?

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