第2話意味消失

生きる意味って何だろうと思うことが多いのです。それは生きたいというよりは死にたくないことに押されて今日まで存在してきたことによるのでしょう。


端的に言うと、生きることそれ自体に意味はないと思います。「生きる」という能動的動詞によってでなく、「生きている」という受動的状態によって語られるべき。


花が美しいとき、美しいことに意味は無い。受粉するため、とか答えるかもしれない。でも受粉するための機構を作ったら、それが偶々「美しい」として観測されたに過ぎない。


私達は生きているのか


上記のような仮定をしましょう。生きることは受動だと。何らかの流れの中で、人間が形成され、行動した。このことは観測される。観測された結果、「生きている」として定義される。生きていることを特別視するのは自然じゃないのかも。


「生きたい! 」と願いますか?

それは「死にたくない! 」と願うときの裏返しではないのですか?


私は死ぬのは未知だし、痛いのが大半なので死にたくない。だから生きたい。なんだか怖い話をしている。


生きる目的があるのなら、法則は不要です。なぜなら法則は自由を制限するから。目的、というか、意味、というか。正当な意味があるなら、当然、それを最優先にさせなければならなくなって、法則は邪魔なんじゃないか。


ちょっと話はそれるけど、神様はいるけれど、法則を保つために介入できない(発見してしまったからなのか)のならば、救いのないときにちょっと頷いてしまいそうになる。


閑話休題。私達は生きる意味を考えると、冒頭で言いました。それって意味が存在しないことをもう知ってしまっているんじゃないか。


考えるという行為は、創造するもの。意味が存在するならば、探せばいい。検証すればいい。考えるのは、無い意味を、創造して、あったと言いたい、安心したい、みんな行動に目的を求めているから。


目的がないって駄目なのかしら


それでも、私は生きたい

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