第2話 魔王との出会い


 赤い花びらの浮かべられたお風呂にざぶんとかった後に、スポンジで丁寧に、つま先まで余すところなく洗う。

 すっかり温まってお風呂から上がった後は、柔らかなタオルで体に残る水滴を拭き取った。

 それが終わると肌触りの良いシルクのドレスを着せられて、髪を丁寧にくしけずり、結い上げられた。長く伸ばしていた髪は「売る」という私が想定していた目的とはうらはらに、「着飾る」という用途に見事に役だってみせた。


 次に植物から取られたオイルが顔に満遍なく塗布されると、白粉を顔にムラなくはたかれ、唇に橙と赤の中間色をした紅をひかれた。

 終いにスズランの香水を振りかけて、一連の作業は終わる。


 たち鏡の前には、どこぞの令嬢のように美しく着飾った私が立っていた。

 今まで通りの生活であればこんな豪奢な格好は一生できなかっただろう、と、そんな風に心中で自分を慰めてみる。


「……綺麗だよ、リッシュ」

「ありがとう、ベネットさん」


 普段自分ではしないお化粧を手伝ってくれたベネットさんにお礼を言った。たち鏡越しに盗み見たベネットさんは、悲痛な思いを精一杯飲み込んだのを隠すような、どこか無理をした気丈な笑顔を浮かべていた。私の今後を思ってくれているのだろう。

 彼女には一番似合わない表情だなと思った。


 ————————


 そうして身を清め着飾った私は、この港町ウェレスタの中心にある、大きな屋敷に連れて行かれた。

 屋敷はかつてこの地域を治めた領主が住んでいたもので、統治制度が変わり領主が町から出ていく際に、町に寄付されたものだった。

 <ま王>とやらは、やって来るなりこの屋敷を乗っ取ったらしい。


(——いやらしい奴だ)


 町民が大切にしていた屋敷を——かつての領主が住んでいたその場所を乗っ取る事で、<ま王>は町民を精神的に支配したのだ。

 領主が住んでいた家は、町の人にとって従うべき主人の家。だからこそそこに居を構えたものに対しては、それまでの交流がなくとも自然とへりくだってしまう。

 私は<ま王>の、そのやり口が気に入らなかった。

 私は自由と平穏を愛している。だからこそ人の気持ちを逆手に取り、気軽に抑圧する<ま王>の気持ちは到底許容できないどころか、嫌悪の対象だった。


 ———————


 屋敷の門前まで、町の人々が見送ってくれた。彼らは列になって一人一輪ずつ、私に花を渡していく。

 それは、亡くなった人の棺桶へ一輪ずつ花を入れていくというこの港町の葬列を模したものだった。


 花は綺麗なものばかりなのに、町の人々はめいめいに沈痛な面持ちでいたから、一輪一輪と渡されるたびに気が重くなる。

 自分が決めたことだと言い聞かせて納得を繰り返していくうち、私の持つ花は立派な花束になっていった。


 ———————


 花束を抱え、私は屋敷に足を踏み入れた。

 屋敷は町民が今まで管理してきたからか、家主がいなくなってから何十年経っているというのに掃除が行き届いている。


 ———ぎぃぃぃぃ……ばたん


「……っ!」


 入って二、三歩進んだところで、私の後ろで勝手に扉が閉まった。


 扉が自分ではない何者かによって閉められたことにより、まるで屋敷の中に閉じ込められたように錯覚する。


(しまった……、これもやつの作戦か)


 港町に来て真っ先にこの屋敷を支配したことにも言えるが、<ま王>とやらは人の心をよく理解している。

 今、私が入ってきた後に勝手に扉を閉めたのも、私に恐怖感を植え付け上下関係をはっきりさせ、主導権を握る狙いがあったのだろう。


 自分で扉を閉めておけばよかった——と、そう思ってももう遅い。

 <ま王>の狙いがわかっていても、私はまんまと術中にはまり、<ま王>の狙い通り不安に胸が波立っていく。


「……卑怯な真似してないで、出てきなさいよ。

 私は逃げも隠れもしないわ」


 これ以上相手に優位を取らせてはいけないと本能的に感じて、私は精一杯声を張り上げ呼びかけた。


「——逃げも隠れも、のではなくのだろう?」


 返ってきたのは私が想像していた<ま王>の声とは全く違った。

 さぞかし、人を手のひらで操り遊ぶことを至上と捉える人間特有の、卑しい、ねちっこい声だと思っていたのに、聞こえてきたその声は若く溌剌はつらつとして、静かな屋敷を鋭く斬りこむような澄んだ声だった。

 こんな状況でなければ聞き惚れていたくらいには、美しい声だった。


 そうしてコツ……、コツ……と、石造りの屋敷の床を靴で打ち鳴らし、”彼”は私の目の前に姿を表す。

 そして私にあと数歩のところで立ち止まった。


「……っ」


 ようやく”彼”と目があって、私は息を飲んだ。


 夜を思わせるような漆黒のしなやかな頭髪に、ルビーの宝石をはめ込んだみたいに赤く煌めく瞳。すっと通った鼻筋に桃色の薄い唇。陶磁器のように白く滑らかな肌は、天窓から入ってくる光を受けて、彼を一層神々しく見せた。

 彼は貴族が身につけるような気品のあるダークブルーの礼装を身につけ、その上から黒檀のように黒々としたマントを羽織っていた。

 齢は私と同じくらい……16くらいだろうか?まだ大人になり切らぬ幼さが、その顔の造形に残っていた。


 ——こんなに綺麗な人がこの世にはいるのかと、彼を目にした途端に思って、それからすぐにそう思ってしまった自分を恥じた。

 うら若き乙女を差し出せと言ってくるような相手を、私は美しいと思ってしまったのかと自己嫌悪に陥る。


「さて娘よ。貴様の夢はなんだ?」

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