第1話 生贄の娘

 寝る時の簡素な衣服から着替えて、肩から乱雑に落ちていた長い髪をまとめて赤い麻の紐で結い上げる。

 そうして簡単にみなりを整えてから、自分の部屋を出て鍵をかけた。

 鍵は簡素なもので、泥棒がその気になれば簡単に針金でこじ開けられそうな旧式のものだったけれど、そもそも盗むもの自体がないこの部屋にはそれくらいで十分だった。


 ——要はなのだ。

 鍵があることでこの部屋は他の空間から隔たれ、<リッシュの部屋>という一つの閉じた空間となる。

 私にとって、機能の問題ではなく、その認識を形作り自分の居場所を確保することがこの鍵の役割だった。


 廊下を突き進み階段を降りる。

 階段を降りるときはつとめて右側を踏むようにした。木製の階段の左側は朽ち始めていて降りる時にひどくきしむから。


 踏み抜くほどガタが来ているわけでもないから、使用する分には別に端を通らなくても良いのだが、階下に住む一人暮らしの老人……ソウテツさんが神経質な上に非常に音に敏感で、階段を軋ませるとベネットさん伝手で文句を言ってくる。


 対して会話をしたこともないソウテツさんの苦情の一つや二つ——しかもに近いものだ——など、立て板に水で受け流せば良いのだが、ベネットさんとの関係を考えるとそういうわけにもいかなかった。家主と余計な波風は立てたくない。


 ——ぎしり


「あ……」


 降りきる二段手前で音を立ててしまった。

 今に1階右端のドアが勢いよく開いて、アッシュの杖を片手に口中でモゴモゴと悪態をつきながら、背中の曲がった老人がやってくる……


 そう思って身をすくめたが、一向にドアが開く気配はない。


(……もしかしてソウテツさん、まだ寝てるのかな?)


 いつもは私よりずっと早い時間に起きているのに珍しいこともあるものだ、と、そう思いながら階段を降り、ベネットさんの部屋の戸を叩いた。

 ベネットさんの部屋は1階の左端3部屋すべてだ。


 ここで簡単な朝ごはんを食べてから仕事に行くのはリッシュに限った話ではなく、ベネットさんに雇われている労働者みんなの権利だ。

 朝食分が給料から天引きされているというのもあるが、ベネットさんの作る野菜のスープが美味しいから、朝にあのスープを食べなければその日一日中なんとなくお腹の居心地が悪い。


「おはようございま……す?」


 ドアを開けてダイニングに進むが、いつもは労働者6〜8人が朝食をとっている大きめのテーブルには誰も座っていなかった。


 何か現場で火急の仕事があって、全員出払ってしまったのだろうか?

 と、思考を巡らせていると、裏口の方からベネットさんと、向かい側の家に住む漁師のロベルトさんが言い争う声が聞こえてきた。


「ロベルト、何もあの娘じゃなくたっていいじゃないか!」


「だったらどうしろって言うんだ、俺の娘を差し出すか?

 それとも、ヒューバートの娘か?」


「……なにもそんなことは言ってないだろう」


「いいや、ベネット。お前が言っているのはだ。

 リッシュを差し出さないなら他の娘を差し出すしかないだろう」


(……?)


 物々しい雰囲気の中、自分の名が呼ばれているのが聞こえた。

 聞いてはいけない会話だと、言い争う張り詰めた様子から察したが、自分の名が話題に登っている以上興味を持つなと言う方が酷な話だ。


 私はそうっと足音を立てずに裏口の戸のそばに這い寄り聞き耳を立てた。


「だけど、幾ら何でも——

 あの娘はまだ若い。魔王に差し出すだなんて、そんなことできない」


(まおう……?)


 ベネットさんが口に出した存在の名を、私は頭で反芻した。

 <まおう>とは何だろう、<おう>は<王>と当てはめるとして、どこかの王様のことだろうか。


「ベネット、だったらどうするって言うんだ?

 魔王が命じたのは、だ。

 おまえじゃとてもじゃないが身代わりにはなれないぞ」


「バカ言ってんじゃないよ、そんなことは百も承知さ。

 例えば、接待するなりして時間を引き伸ばして……騎士団の到着を待つとか」


「……帝都に連絡はおこなったが、援軍は絶望的だろう。

 主要な都市群に被害が確認されない限り、騎士団は動かない。

 こんな西方の田舎の港町に連中は来やしない。待つだけ無駄さ。

 それに魔王はそんなに悠長に待ってはくれない」


「……っ」


 重たい沈黙が横たわって、私まで息苦しい。

 何となく状況が読めてきた。


 今、この港町に<ま王>がやってきていて、それは港町の屈強な男たちをもってしても追い返せない相手である。

 王都の騎士団は助けには来ない。

 <ま王>の要求は、うら若き乙女を一人差し出すこと。……そういう要求をしてくる時点で、ま王がロクでもないやつだと言うのは私でもわかった。


 そしてこの港町にいるうら若き乙女——つまり年頃の少女は、私を含めて3人だ。

 私以外の2人は、どちらも家族と一緒に暮らす明るくて穏やかで気立てのいい娘である。対して私は、奴隷船からやってきた身寄りのないその日暮らしの貧乏人。


 <ま王>に誰を差し出せば良いのかなんて、火を見るより明らかだった。


「わかったのなら、そこをどいてもらおうか。

 リッシュには悪いが……仕方のないことなんだ」


「……っ、やめておくれよ!

 あの子は最近ようやく仕事も身について……、本当に、これからまともに生きていけるのに……」


 ベネットさんが必死に相手を止めてくれている。

 そのまっすぐで暖かい気持ちが嬉しかった。


 私がここにくる前に乗っていた奴隷船は王都の保有する巡視船の検閲に引っかかり、奴隷たちは解放された。

 私はこの港町で降ろされたが、文字も読めず、頼るものもなく、これからどうして生きていけば良いのか何もわからず途方に暮れていた。

 そこに手を差し伸べてくれたのがベネットさんだった。


 彼女は私に寝床と食べ物を与え、その代わりに私に港の仕事をさせた。

 ベネットさんは何かを与える時にいつも何らかの対価を取って行った。


 時にはツケにすることもあったが、その一人前としての平等な扱いがとても嬉しかった。

 ベネットさんの中に私に対する同情が無いとは言い切れないが、それでも彼女はいつも私を、1人の人として扱ってくれていた。

 彼女は<当たり前の、普通の暮らし>をくれたのだ。


(ベネットさん1人が拒否したところで、状況は何も変わらない……)


 私は意を決してすっくと立ち上がり、裏口の戸を開けた。

 驚き、言葉を失った様子のロベルトさん、ベネットさんと目が合う。


「……聞きました。私が行きます」


「リッシュ……!

 あんた、そんな投げやりなこと……」


「投げやりなんかじゃないです。

 他の子が犠牲になるより、私の方がずっといい」


「……すまない、すまない」


 ロベルトさんがしきりに謝りながら、厳つく日に焼けた顔から一粒涙を流した。

 私のために流れた涙ではなく、自分の娘が被害から免れたことによる安心の涙であろうことは容易に想像できた。

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