路上の長い午後
雑談を興じるほどの共通の話題が無く、手元の食器が空になり、沈黙であることは騒がしい店長がいるこの店には似つかわしくないことを知ってしまった今、打破しようもない恐ろしい沈黙が停滞していた。僕の後ろの遠くの席のカトラリーが触れ合う音すら聞こえてきた。
「あとは、スープ…二皿だっけ?」
沈黙を打ち破るには余りにも馬鹿馬鹿しい一言で思わず笑みがこぼれる。
「大丈夫大丈夫!するする飲んでいけるから!」
彼女も沈黙を打ち破ったことに安堵した様子で、肩を弛緩させつつ口を開いた。
「はいはい」
僕も気だるげな生返事をする。
「おーい出来てるから持ってってー」
大衆食堂みたいに声を張り上げる店長と、それに応じて少し腕をプルプルと緊張させながら両手にスープを携えてやってくる彼女。
「ほんとに高級料理店に合わない二人だね」
彼女がスープ皿の下にソーサ―を置きながら笑う。
「私だって上品な店でバイトしてみたかったけどさ、ホンモノの高級店じゃ従業員にバイトの高校生なんて採用しないんだよ」
「それもそうか」
「その点、うちの店は『高級料理店の店長っていう肩書き…モテそうじゃない?』ってヨコシマな考えから始まったもんだからね…しかも目立ちたがり屋だから雰囲気なんてこのザマなもんで…」
「よく潰れなかったね」
薄暗闇の中、店内の調度品を見渡す。安物か否かという目利きなんてできるわけじゃないが、掛かっている絵画も、さり気なく飾ってあるガラス細工も店内に見事に調和している。店内の雰囲気に合うものを探すために東奔西走したのだろう。残念ながら、店長の性格により見事にかすんでしまっているが。
「ガスパチョとヴィシソワーズね」
なんとなく聞いたことがあるが、この赤いスープと白いスープのどちらがガスパチョでどちらがヴィシソワーズなのか見当がつかない。
「どちらがヴィシソワーズでどちらがガスパチョなの?」
「そのオレンジっぽいのがガスパチョで、白いのがヴィシソワーズ」
「ありがと」
早速ヴィシソワーズをスプーンを向ける。
フランス料理においてスープというのはみんなこういう立ち位置なのだろうか。
「冷製スープなんて初めて食べたな」
「冷たい汁物なんてわざわざ火を一回使ってまで作ろうって気にならないもんね」
「元々料理をあまりしないってのもあるけど」
「そっちの人か」
冷製スープというのはいいな。話に花が咲いてしまいスープが冷めてしまうことを気にしなくてもいいのだから。話に花が咲いたことなんて異性との席では今まで無かったが。その苦い思いと同時にすする。
「ガスパチョはどう?」
彼女が水を向けたガスパチョは、ヴィシソワーズと違い酸味ががっていて交互に食べれば飽きることはなさそうだ。
「赤いから唐辛子とか入っているのかと思ったよ」
「まあこっちも冷製スープだからね。こういう季節にぴったりでしょ?」
「そうだね」
それっきり、僕がスープ皿と口の間をひっきりなしにスプーンを往復させていたのでまたもや、沈黙。早速会話の花が枯れた。
食器同士の鈍い衝突音が響く。
「それでね」
今度は彼女が口を開いた。
「今日君をここに呼んだのはただの職場見学じゃなくて、君にここで働いてほしいの」
とりあえず飲み込んでから彼女に応える。
「それはまた唐突な」
「これから三か月、いろんなものを一緒に体験したいの。それには色々とお金が必要でしょ?」
彼女はそこで言葉を区切り、水の入ったグラスを傾けて喉を湿らせた。そして
「三か月しか働けないことが明白なのに、雇ってくれる店なんてそうそうないでしょ?」
「たしかにね」
食器を運ぶ最中、ましてや調理の最中に寿命が尽きて惨事を迎えてしまおうものなら目もあてられない。
「それにここなら色々融通効きそうでしょ?」
厨房から「やべえガチャのイベント始まってたの忘れてた!!」という店長の声が聞こえた。
「そうだね。でもさ、こんなゆるゆるの店でも面接はするんでしょ?受かるとは限らないよ?」
「大丈夫だよ。この店は慢性的に人が足りてないから」
「ほんとにこの店はやっていけてるのか不安だよ…」
ということで、僕は急遽この店で働くことになった。
店長はスマートフォンのゲームでのイベントを走るのに必死で、面接しなくてもよくなった。本当に資本主義の国にいるのだろうかこの店は。
「まあ、あの子が連れてきたんならそこまでハズレはないでしょ」と店長。
僕の人生最後の夏は、回り出した車輪のように、僕の意思とは関係なくずんずん、がらんごらんと進んでいった。僕の"腕時計"の表示は000:081:21:37:48を示していた。
研修期間――世間で言うところの――がだいぶ終わり、夏の間に一人前としてバイト出来るようになった。その間、気だるげな店長のアドバイスや彼女の声が幾度となく飛んだ。
教室内でもへらっと級友と笑う彼女がキビキビと提供するのは正直なところ意外であったが、給料をもらう労働者としての意志が彼女をそうさせているのだろうか。体育会系らしい。もちろん彼女が明確にそうしなと言うことなど無かったが、僕もそうすべきだったであろうし、実際にそうした。
彼女が僕に指導する口調は少し厳しかった。叱られるというのはあまり好きな人はいないだろう。少なくとも僕は好きではない。
そんなある日、晴れ続きだった空は珍しく曇天であった。店長に言われ、網目に差し込んでいくタイプの傘立てを店頭に出していた時のことであった。
不意に僕の名前を呼ばれた気がした。
振り向くと、僕と同じ高校の制服を着た女子が立っていた。とっくに一学期は終わったはずなのに制服を着ているということは部活帰りだろうか。確か彼女と教室で一緒によくいる女子だ。
「あの子はいる?」
挨拶も抜きにその女子は僕を睨みつけながら言う。彼女は知り合いに会いたくないが為にわざわざここにまで来てバイトしていると言っていたが、言っていいのだろうか。僕が逡巡していると、その女子が苛立ちを殺しきれない様子でまた口を開こうとした。その時、
「みーちゃんじゃん!!どしたの!!」
いつのまにか彼女は表に出ていたらしく、その女子――あいにく本名を忘れたから僕もみーちゃんと呼ぶことにする――に手をひらひらと振っている。
「いや、呼んだのアンタでしょ」
「んー?呼びたくはなかったんだけどなーそうだったそうだった。今日だっけか」
「で、コイツが」
「そう」
ふーん。と呟きながら値踏みするような目でみーちゃんは僕を見る。
「出しな」
何を出せばいいのだろうか。金か?
苛立った彼女は言葉を連ねる。
「"腕時計"だよ!」
言葉が足りないのは、僕への嫌悪感や苛立ちから来ているのだろうか。
奪い取るかのように僕の右腕を掴み取り、"腕時計"の液晶を見た。000:065:02:42:39だった。
軽く舌打ちをして僕を睨みつけ、彼女をも強い視線で睨むが彼女は手を上げて肩をすくめるばかりだ。
「こいつと寿命一緒ってどういうこと?」
「言う必要ある?」
彼女にしては冷たい声色で、みーちゃんは威勢が削がれたようで言葉を詰まらせた。
「私は将来ずっとアンタと一緒に、いや、そりゃ年がら年中とまではいかなくても、月イチくらいで一緒に酒なんて呑んでいくもんだと思った!」
みーちゃんがその言葉が終わる間もなく振り向いた。その表情は憤怒というより行き場の無い激情に翻弄されているようかのようだった。
「なのに……3か月、3か月だっ!!」
彼女はひたすら無表情のまま、僕に迫りよるみーちゃんを傍観していた。
「もうあの子と桜の花びらが降り注ぐ中の並木道を歩くことも!かじかんだ手の痛さをかばいながら雪合戦をすることも!誕生日祝いで行ったバイキングでバカみたいにデザートばっかよそることも!卒業を一緒に迎えることも無い!!もう出来ないんだ!!」
胸ぐらを掴まれた僕には術が無かった。親友を奪って、結果的に奪ってしまう僕からの弁明なんて聞きたくも無いだろう。
「なんか言えよ!」
「やめな」
彼女が止めるが、みーちゃんはうわごとのように僕に「言ってくれよ」と何度も何度も繰り返していた。顔が揺れ、つうっと涙が滑り落ちた。
不意に乾いた音がした。僕の頬からその音がしたと気が付くまでには時間がかかった。そんなみーちゃんの顔を両手で向き直させ、すっと左手を振りあげた
まるで無機物のようにみーちゃんが右に傾いだ。
どさりと砂が舞った。
まるで台本があったかのように自然に彼女が、みーちゃんを膝に立てかけるように抱き起こした。みーちゃんは何も声を発さず、表情も彼女の陰になり見えなかった。
「別に脅されたわけでも洗脳されたわけでもない。自分の意思でやってるの」
「でも……」
「ね?そうだよね?」
彼女は僕に振り向く。え。
「僕が本当のこと言ってるとは限らないよ」
とっさのことで、自分でもなんでこんなことを言ってるかよくわからない。
「言葉にすればわかってくれるよ」
そんな僕にも彼女は真摯に応えた。僕はみーちゃんに向き直る。
「僕は彼女を脅迫してなんかいない」
み-ちゃんは多少不満が残ったような顔をしながらも、僕の表情を見て口を閉じた。
「でも僕が意図せず巻き込んでしまった。彼女をこんなにして申し訳ないと思ってるんだ」
こんなに、という表現は僕が言うのもどうなんだろうか。
そんな僕の言葉であったが、不承不承ながらみーちゃんは理解してくれたようだ。
「でも……こいつはなんでこんな寿命を設定したの」
「あーやめたれやめたれ。言いたくないことの一つや二つはあろうに」
「だって…!」
「お願い聞き分けて」
「…………アンタが寿命を決めたのはコイツにうつつを抜かしたりしてたわけじゃないってのはわかった。でも、あたしはさ…」
みーちゃんの声に、涙が滲みだした。
「あたしはアンタの親友だとおもってたのにさ…こんな重要な決断について何も言ってくれないのがさ…」
僕はそっとみーちゃんから目を逸らした。
涙を流す女性に成す術なんて無い。少なくとも僕のような生き方をしてきた人間にはわからない。どんな生き方をしてきたら、彼女のような人間にかける言葉が見つかるのだろうか。
また涙があふれ出したみーちゃんは、小さな嗚咽とともに手のひらでこするようにして涙を拭った。
彼女はみーちゃんに声をかけずにひたすら背中を撫でていた。話していたのかもしれないが、聞こえるような音量ではなく、そもそも僕が聞く必要もない内容だっただろう。
その後、みーちゃんの呼吸が安定してきた頃、みーちゃんは唐突に僕らに「またね」と言って駅のある方向へ去っていった。
「とんでもない客だったね」
と、彼女は笑ったが、いつもより声に覇気が無かった。僕が彼女やみーちゃんに謝るのは楽だが、謝ることで全てをチャラにしたような傲慢さに耐えられず、今回も謝らなかった。謝れなかった。
結局この日は、傘立てが活躍するほどの雨は降らなかった。
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