華氏95度
「驚いたでしょ?」とつり革にぶら下がるようにして電車に揺られながら彼女が笑う。手提げを持つ左手に巻かれた彼女の"腕時計"には、先ほどと変わることなく約90日の制限時間が表示されている。
「なんで……ですか?」
すっかり渇ききった僕の口には、それを言うだけで精いっぱいだった。
「それはお互い様でしょ?君だって同じく余命90日なんだから」
定期的に来る送風機の冷風をこころもち避けながら電車に揺られる。
「残り90日で一致したのは偶然ですか?」
「人生なんてあと90日あれば構わない」
「……!」
「もっと続けようか?」
「いや、もう、大丈夫、です」
軽く眩暈がした。
「でもさ…君は全然違うじゃないか。彼とも僕とも。教室ではいつもみんなの中心にいて楽しそうじゃないか」
「そうでもないよ。人とのつながりが増えれば増えるほど、その紐が絡まっていくの。絡まった紐はまた別の紐を絡めていこうとするから、私自身が絡まらないように解かなければいけないの」
「ミイラ取りがミイラにならないように」
「そういうこと」
彼女は不出来な生徒が正答を出した時の教師のような顔で微笑した。
「じゃあさ、君はどうなの?」
「僕?」
「そういう君は楽しくない苦しくてたまらない日々を過ごしているの?」
「……辛いことを受けているわけじゃないから苦しいわけじゃないけどさ。なんかこういう風に同じようにして毎日が何度も何度も過ぎていくんだなってふと思っちゃって」
「そんなもんじゃないの?」
彼女の襟足が車内の空調でふよふよと揺れる。
「そんなもんなんだろうとは思いますけど……そんな毎日があと70年も続くのかと思ったら気が遠くなって」
「えっと…うんまあ…そうか…」
彼女は彼女なりに言いたいことがまだあったのだろうが、賢明な彼女は愚かな僕の説得をあきらめたようだ。バカらしいと思っただろう。その代わりに宣言するようにこう呟いた。
「それじゃ、君の残り90日しかない人生を後悔させてやる。もっと長生きすればよかった、なんであんな短い人生を選択したんだと首をかきむしって泣き叫ぶくらいに後悔させてやる」
いきなり僕に向けた過激な言葉に反して、彼女はきれいな笑顔を僕に向けた。
翌日、人気者の彼女が余命90日を選択したことに誰かが気づき、少なからず教室を騒然とさせた。
彼女は昨日僕の前では威勢の良い言葉を並べていたが、皆の前ではそのあまりにも短い余命の理由の説明をしなかったので、失恋で自暴自棄になったのかと疑る者、彼女はなんか後ろめたいものを抱えていたんだと囁く者と実に様々だった。
そのことが彼女の顔の広さを如実に示していた。
幸いにして、僕の寿命を気にする人などいなかったので、僕と彼女の奇妙な共通点に気づく者は皆無だった。
彼女と帰り道一緒になった時――というか待ち伏せされて強制的についてきただけなのだか――に、彼女に訊いたことがある。
「そんな短い余命の説明を家族にどう説明したの?」
「まあ失恋のショックってことにしといたよ」
「手垢がつくほどありきたりですね」
「髪の毛が長かったら、思いっきり切って印象づけることもできたけどね」
「短い方が似合ってますよ」
「余命幾ばくの人に言われてもね」
「お互い様でしょ」
「まあ死にたがる理由なんて人それぞれだから家族もそこまでは追及はしてこなかったよ」
「寛容なんだか薄情なんだかね」
「とてもいい家族だったよ」
わざとかもしれないが、その過去形が少し心に刺さった。
「どうやって僕を後悔させるんです?」
訪れる沈黙が怖くて思わず訊いた。
その沈黙はあまりにも僕を凌駕するだろうから。
「君の見る世界と私の見ている世界はたぶん全く違くて、色彩も全然違うんだと思う。だから手始めに私の見ている世界を体験してほしいな。他人の人生を体験するのも悪くないでしょ?」
「拒否権は与えられてなさそうですね」
「ものは試しだから。どうせ時間はあるんでしょ?」
彼女の皮肉めいた問いかけに口元を綻ばせた。
「そうだね。僕らに時間はたっぷりありますから」
それから数日と経たないうちにまた彼女にこっそりと、級友にばれないように連れ立された。と言ってももう夏休みに入ってしまったのでバレる危険はほとんど無かった。
また電車に揺られること1時間。車窓から覗いた景色は、近景のマンションが占めていきどんどん狭まっていった。僕らが降り立ったのは、普段僕が利用している駅とは7個ほど離れている駅だった。遠出するときに通過したことはあるが、その駅の景色は車窓からしか見たことがない。
「私のバイト先に連れてくね」と彼女が言った。
この駅は彼女の自宅の最寄駅からも遠いらしく、バイト中知り合いに会うのは嫌だからわざわざ遠いところを選んだそうだ。
駅舎は最近改築されたらしく、白と灰色を基調とした内装は広々としていて綺麗だった。
学校がある最寄りの駅より商店街のビルが高く、1階のテナントがガラス張りで洗練された印象を受ける。
大きなガラスは採光の役割を果たしていて、お洒落な内装と余所行きの格好の客を照らし出していた。道路を彩る街路樹はきちんと手入れが行き届いていて、青々と茂っていた。不動産屋のチラシに掲載されているマンションのイメージ図のような街並みだった。
「ここだよ」
指し示した店の看板は、何の言語かわからないローマ字のような文字で書かれていて、彼女が発音してくれたが長ったらしいそれは、僕には覚えることすらできなかった。
外壁はレンガで出来ていて、落ち着いた緑色をしている
「高級なとこだね」
「時給も高給なの」と彼女は笑った。
自動ドアを開いて中へ入る。
ちょうど良い程度に空調が効いている。汗がゆっくりと冷えていくのを肌で感じる。上品な感じで照明は抑えめに各テーブルを照らしているだけなので、辺りをぐるりと見ても、客席から見える設計の厨房しか確認できなかった。流石に調理する上で薄暗いのは危険だからだろう。
「ここで待ってて。ちょっと着替えてくる」
「えっ―――」
僕の返事も聞かず、スタッフルームに入っていく。
身分不相応なレストランの入り口で独りで待たされる。他の従業員さんが「何人ですか?」と問うてきたので1人と答えて、案内された先に着く。お冷やとして渡されたグラスは丁寧に磨かれていて、水面も綺麗だ。
独りの静寂と手持ち無沙汰感に耐えかね、早速グラスに手をつける。わずかに柑橘系を絞って入れているのだろう、後味が爽やかだ。
喉も潤い、一息着いたところでメニューを開く。飲み物欄やサイドメニューはまだしも、メインディッシュの名前は食材名以外、聞き覚えのない片仮名が並んでいて全くわからない。調理法なのか原材料なのか。
早く彼女に来てもらわないと、グラスの水が尽きてしまう。メニューの横目でチラチラとスタッフルームのドアを垣間見る。
心配の必要もなく、数分で他の従業員さんと同じ制服に着替えた彼女が、自分用のお冷を持って出て来た。
「頼む物はお決まりで?」
「メニューから内容が皆目見当がつかないんだけど」
「そういうもんだよ。私もそうだし」
あははと笑う彼女。ウェイトレスとして大丈夫なのだろうか。そしてそんな彼女を雇うこの店は大丈夫なのだろうか。
とりあえず分からないなりに安いやつを頼んだ。ポワレがなんだか分からないが、鶏肉らしいしそこまで予想を超えるものは出てこないだろう。
一品じゃ物足りないね。と呟いた彼女は、「適当に付け加えて頼んどく」と言って厨房へ消えた。最初からそうしてくれればよかったのにと嘆息する。
学生が帰り道に寄るような今の時間帯では客の入りがまだ少ないらしく、彼女はホールとして仕事に戻るわけではなく僕の前の席に着いた。
「厨房に適当にオーダー言ったら『スープ二品も頼んでどうするの?毒物でも混入させるの?』って言われちゃったよ」
座りながら席を前に詰める彼女は、はははと笑って、思い出したように付け足した。
「あっ大丈夫!キチンと『まだ殺さないです』って言ったよ?」
「予定にあるんだ…3ヶ月くらい辛抱してよ。というかスープ二品もいらないよ…」
「流し込めばイケるよ」
目の前に座る彼女は頬杖をつきながら身体を前に乗り出していた。
「ここでサボってていいの?バイト中ですよね?」
「テラスはともかく、内装はディナー向けに薄暗いからさ。この時間帯じゃ中々人が来ないんだよ」
「聞こえてるぞー!」
厨房から低い声が飛んでくる。
「どうかしましたかぁ?」
素知らぬふりをしておよそ高級飲食店とは思えない音量で彼女が応酬する。
「今のが店長。30代だけど渋いイケメンだよ」
とひそひそ声で僕に伝える。
「今のは聞こえましたぁ?」
「聞こえるわけないだろ!!フロアに盗聴器仕掛けてるわけじゃないんだぞ!!」
ほのぼのとした職場に僕は肩をすくめる。他のホールの人も忍び笑いしている。
そうこうしてると「客が来ないと暇で敵わんなぁ」と店長が、僕のと思われる料理の皿を片手に歩いてきた。
「あっ!キッチンから抜け出して…!さぼるのは良くないですよ店長」と彼女が嗜める。
「他の従業員には内緒な」と、怒るでもなく下手なウィンクをしながら空いてる僕らのテーブルの椅子に座る。
「この人は?お友達?」
たった数日前に知り合い、たった3ヶ月の寿命を設定しあってしまったこの奇妙な関係性をうまく説明できる気がしなくて言葉に詰まる。
「ねぇ腕を出して」
僕は彼女の意味を汲み取り、"腕時計"の付いている右手を出した。
そして彼女が自分の"腕時計"と僕の"腕時計"と合うように揃えてテーブルに乗せた。
「こういうこと」
それを見せられた店長は、その表示されている数字の小ささと、僕と彼女の数字が一致していることに驚いた様子で、顎をさすりながらその表示をじっと睨んでいた。無言で空いてる席に着いた。
「事態は上手く飲み込めないが、お互い大事にしあってるということだろう?」
やはり、上手く理解できていなかった。ため息を付き、訂正をしようと言葉を発しようとする前に彼女の声が飛んできた。
「メンドウですからそれで結構です」
僕の意思が全く尊重されない結末にひたすら面食らう。
「ほら彼氏彼氏、それ冷めないうちに食っちゃいな」
と店長が頬杖をした手で示した皿に目を向ける。白身魚を蒸し焼きにしたものだろうか、僕の偏った高級洋風料理のイメージ通り皿の余白に茶色のソースで何か文字のようなものが書かれている。
「鱈のポワレ…まあ簡単に言っちまえばワインの蒸し焼きだよ。アルコールは飛ばしてるから安心しな」
コース料理用に並べられたカトラリーの中から、外側のナイフとフォークを取る。
「およっ、よく知ってるね」
「うろ覚えの知識ですけどね」
「バイト始めたてのコイツよりマトモだよ」
「店長、ソレ言えてますね」
鱈は中までホロホロに蒸されていて、ナイフを必要としないほど柔らかかった。
むしろナイフで切ってしまうと塊が小さくなってしまい、フォークで刺しただけでも身がぼろぼろと崩れてしまう。焦れば焦るほど塊がフォークから逃げてしまい小さくなっていく。
教えることが出来る喜びを表情満面に出しつつ店長が言った。
「惜しいねー彼氏。コース料理で出さなかったことにも原因はあるんだけど、魚介類のナイフは普通のナイフを使わないでそれを使うんだよ」
指さした先にあるのは、ナイフではなくスプーンだった。しかも、一部が欠けたもの。
「これを使うんですか?」
「そ。これなら柔らかい魚も切り崩すことが出来るし、その塊もスプーンのように掬って食べることが出来るでしょ?」
なるほど。たしかにこれなら苦戦することなく楽々食べることが出来る。
「これを知ってれば恋人にも一目置かれるよ…ってか彼女ここにいるじゃーん!!」
手をおでこにぺしっと当てておよそ高級料理店とは思えない音量で豪快に笑う。
それを横目に僕は黙々と鱈を解体して口に運んでいく。
「その対応正しいよ」
と彼女がぼそりと言う。
彼女にも僕にも他のホールの従業員にも相手にされなかった店長が笑うのを止め、「俺店長なんだけどな…」と寂し気につぶやく。
「そんじゃあとは若い二人でどうぞ」
お見合いの仲人みたいなセリフとともにそそくさと立ち去って行った。
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