制限時間
ばんだな
たったひとつの愚かなやり方
今の僕の感情を正確に書き綴るだけの十分な時間はもう僕にはあまり残されていなかった。彼女の目に留まらないよう文章を書きとめるには、僕の技術力や度胸はあまりにも不十分であった。誰の目に留まるかは分からないが、届いてほしい人に届くことのない文章であることは確実だ。
朝家族がつけっぱなしにしていたニュース番組で、僕の住む地域がもうすぐ梅雨が明けそうだと女性キャスターが言っていた。そのキャスタ―が映るテレビ越しの空は、今日も今日とて曇り空だ。
蒸発し損ねた昨日の雨が、アスファルトの窪みに溜まってところどころ黒く染め上げていた。足元をぱしゃりと鳴らしながら僕の目の前を男の子がずんずんと歩いていく。あの子の靴下はどうせもうびしょびしょだろう。
露の重みに耐えかねたように垂れていた紫陽花の葉が、跳ね戻る。
辟易して制服に突っ込んだワイシャツをつまんで外気を取り込むが、いかんせん湿度が高い空気じゃまったく快適にならない。
やれやれ、とすっかり足に馴染んだローファーで水たまりを越えさっさと歩いていく。早く乾いた冷房の効いたとこへ行きたい。
まったくもってありきたりな梅雨の風景だった。何年、いや、十何年も繰り返した風景。
それでも、これから起こる出来事たちと同じくずっと忘れられない日々になってしまうなんて、この時の僕は思いもしなかった。
「それでは記入用紙を配布します。人生に深く影響することだからきちんと考えて下さい」
担任の若い女性はいつも以上に真剣な声色でそう言って、教室の最前列の人に紙束を渡した。紙が擦れる音がだんだんと最後列の自分の元まで迫ってくる。
僕のもとに来た紙は、厚めで発色が綺麗な、思ったより高級な紙だった。人生がかかっている紙なのだからそうだよな、と独りで納得する。
現住所、マイナンバー、携帯電話の番号と自宅の電話番号、本名、記入しなければいけない項目が所狭しと並んでいる。
そして一番下に書いてある最後の項目、
自分の希望寿命だ。
寿命を左右するテロメアというのをご存じだろうか?細胞分裂の度に細胞にあるテロメアは縮小していき、それが無くなると細胞分裂が不可能になる。
数十年前、ある医学者がテロメアの縮小を食い止め、あまつさえテロメアの延長すら可能にする技術を生み出してしまった。その技術は既存の生命倫理に全く触れることがなく、必要な物質はありふれた安価な素材だけであったので、その技術の活用自体には異議を唱えられる者などおらず、貴賤にかかわらず全ての人類が理論上不死になってしまった。
だが、それではこの星が人口爆発してしまう。しかし、永遠の寿命に制限をかけるのは倫理的に大丈夫なのか?それは寿命が無限となったことによる皮肉めいた問題で、この星の人々は侃々諤々の議論を巻き起こした。
そこでこの星にある首相達が急遽、雁首揃えて話し合った挙句、一つの案が提唱された。
「出産されてから太陽暦において満15歳となって初めて迎える夏、本人の自由意志によってのみ寿命を設定して、その設定した寿命により誰かが亡くなるごとにその人の本籍地の国で1人出産を認めることとする」
議論はまだあったが、人口爆発と本人の希望する寿命のバランスが取れたこれ以上の案は提唱されなかったのでこのルールが全世界的に採択された。
技術の発表からこの間、わずか1週間であった。
また、寿命を設定した人には黒い腕時計型の機械、"腕時計"を着用することが義務付けられた。寿命が近づくとその機械は青く発光する。寿命が近づいた人が悲観的になり大事件を起こしてしまったり、車両を運転する際に死亡して大事故を起こしてしまうのを防ぐために、青く発光した"腕時計"を持つ人は公共交通機関の使用の禁止など制限がなされている。そのタイミングと見た目から、その光は密かに蒼い蛍の光と人々に揶揄されていた。
そういうわけで僕らは昨年15歳になったから、こうして教室に寿命設定の紙が配布されているというわけだ。ちなみに書かないと、技術開発前の平均寿命である80歳に設定されるそうだ。
先生が号令をかけ、僕らはその記入用紙を持って別の教室に移動し始めた。全校集会への移動とは違い、談笑する者もほとんどおらず、湿気を含んだ上履きがリノリウムを擦る軽やかな音と階段を叩く音が踊り場を反響する。
ある教室の前の廊下で止められ、待たされることになった。
担任の説明によると、その教室には不透明なプラスチックの壁で仕切られたブースが何個も置いてあるらしい。誰からも影響を受けない、本人による自由意志で用紙を記入してもらうためだ。
名簿の名前順に数人ずつ教室に案内される。教室の前で待たされる間、学校指定の上履きのつま先の青いゴムをじっと見つめていた。
五分ぐらいだっただろうか。腕時計を普段から巻かないため時間感覚が無くなった僕にはよく分からなかったが、名簿順が遅い僕が呼ばれるのは早かった。意外と他の人達は記入が早かったらしい。
教室に入ると、説明通り他者が覗き込めないようなブースが間隔を空けて5つ並んでいた。記入ブースの後ろの教室の角には、学校側が用意したのであろう安っぽい青地の布のパイプ椅子にスーツ姿の男性が座っていた。万が一の監視員といったところだろう。
ブースの記入台の上には、ナイフで鋭く削られた素朴な鉛筆が予備のため3本、カバーが外された白い消しゴムが転がっていた。
配られた用紙をもう一度見る。デジタルの8の字が細く縁どられた用紙は持っていた部分が汗で歪んでいた。桁が3つ作られた横に「ヵ年」と書かれている。同様に「月」「日」「時間」「分」の欄。とりあえず999年は理論上生きられるらしい。もう途方もつかない長さだ。
教室の角に座っているスーツ姿の男性に手を挙げた。男はゆったりとした足取りで僕の元まで来た。要件を伝えると、彼は僕が予想していたより驚いた様子もなく、僕の希望を叶えてくれるため教室から出ていった。クラスメイトがその様子をあまり興味も無さそうに目線だけこちらを伺いながら教室を出入りしていった。
記入した用紙を持って誰もいない廊下を通り、また別の空き教室に入る。廊下の暑さのせいだろうか、部屋は冬のように寒かった。大型の機械がつながれたパソコンが3つ並んでいて、それを素早いブラインドタッチで担当の職員がカタカタと叩いていく。この寒いのに放熱し足りないのだろう、ファンが低く唸り声をあげている。
手が空いたタイミングを見計らい、女性職員に紙を渡す。
「これお願いします」
「本当にこれでいいの?」視線を紙に向けたまま女性が僕に訊く。僕の表情を素早く察知したのだろう、女性職員は僕の顔から目線を外し、また液晶画面に目を向けタイピングを再開しながら言葉を続けた。
「申し訳ない。君だからってわけじゃなく一応みんなに聞いてることだから。形式的なものよ」
と弁明しながら笑った。
「構いません」
「それじゃ正式に受理したわ。それでは良い人生を」
希望寿命のデータを打ち込まれたのであろう"腕時計"を手渡してきた。"腕時計"は、ありきたりの黒い、デジタル表示のものだった。残り時間の目盛りがひっきりなしに減っている。早速右腕に巻き付けるが、しっとりとした感触で良く腕に馴染んだ。手続きをしている職員さん達に向けて軽くお辞儀をして教室を後にした。
教室に帰ると、クラスメイトがわいわいとにぎわっていた。
机に腰かけながら、腕に付けた"腕時計"を見せ合いながら「お前は何歳に設定した?」「お前そんな長生きしてどうする気だよ」と笑いあっている。
今日は授業が無い日なので、さっさと帰ろう。半袖のワイシャツでは"腕時計"を隠せない。机の横に掛けたエナメルを手に取って帰路に就く。
喧騒を背にして昇降口に急ぐ。人の声より蝉の声が大きくなってきた。いつの間にか太陽が出ていたようだ。
さっさと下駄箱まで滑り込むと昇降口横で、記入部屋にいた男性がネクタイを緩めて煙草を吸っていた。
「匂いついちゃいますよ」
「喫煙してるってことは許してくれるんだな」
と男性は笑った。
「どうせ今日はまだ誰も来ませんでしょう」振り返って見た下駄箱は僕が来た時同様、相も変わらず閑古鳥が鳴いていた。
「確かに君が一番だったな。他の奴らみたいに見せ合いっこはしないのか?」
「見ればわかるでしょう?」
おどけて手提げをかけた肩をすくめる。
「なんのことだろうな?」
男性もおどけて肩をすくめる。
「まあ君は独りじゃないぞ。そんな悲観的になるな」
男性は煙草を靴でもみ消し、少し思考してから思い出したかのように拾い上げた吸殻を携帯灰皿に入れた。
この時の男性の言葉に別の意味が含まれていたことなんて、その時の僕にはもちろん気づきようも無かった。
「露骨な気休めも嫌いじゃないですよ」
「正直者はこういう時辛いんだよな」
と男性はスーツ姿でおどけた。
「気を付けて帰りな」
「今日はありがとうございました」
振り向いたとき、男性は僕が振ったよりも大きく手を振っていた。
僕が電車をホームで待っていた時だった。本を取り出すには短く、ただぼうっと待つには長い微妙な時間だった。もっとも、その時間感覚も夏の暑さと蝉時雨ですっかり溶けきっていたが。
壁に貼られていた広告に目を滑らせていたら、僕の名前を呼ばれた。
振り返ると確か同じクラスで確かバスケ部の女子がいた。彼女は、バスケ部にありがちで僕より少しばかり背が高く、黒髪は肩につかない長さで短く切り揃えられていた。彼女が僕に何の用事だろうか?
「間に合ってよかった」
彼女は肩で息をしていた。エナメルの紐が肩から落ちそうになっている。短くない学校から駅までの距離を走ってきたのだろう。
「約束なんてしていましたっけ」
「してないしてない。あー同い年だから堅苦しいし敬語はいいよー」
話し出す話題も無く黙っていると、彼女は本題を思い出したようだった。
「えっとね、私が話したいことがあったんだけど、教室に入った頃にはもういなくてさ。帰るの早いよ…」
「授業も無いから帰って本でも読もうかなって」
「今日はあんなイベントがあったのに?」
「自分で決めた自分の寿命を自慢したってどうにもならないですし」
そういうと彼女は黙った。横顔を照らされている彼女は疎ましそうな視線を太陽に一瞬向けて強く目を結んだ。
電車が駅に近づいてきたらしい。電車の到来を告げるアナウンスがプラットホームに鳴り響いた。
一緒の電車でも共通点が見つからないから会話が続かなそうだ、この人と別れる上手い言い草はないだろうかと思案していると、彼女が意を決したように口を開いた。
「ねえ、寿命はいつにした?」
ベルにかき消されないように大きな声。
バラしてしまうのも面倒だと感じたが、別れる口実にうってつけだと考え直す。
彼女に声が届くように大きな声を出すのも億劫で、右腕の"腕時計"を彼女に見せつける。
電車が近づいてきて走行音が大きくなっていく。
「わたしの勝ちだね」
彼女は勝ち誇ったように同じようにして僕に左腕の"腕時計"を見せつける。陽光が液晶に反射してうまく見えず、僕は少し体を傾ける。
そしてそのまま体が止まった。
警笛を鳴らした電車が僕の横を通りすがる。
電車が連れてきた風が僕らを引っ張る。
僕らの前で電車のドアが開いた。
彼女の"腕時計"の液晶、そこには000:089:10:39:38の表示。つまりはあと90日の寿命。
なぜだ。なぜ、
僕と同じ寿命なんだ?
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