12-2
コンコンコン、とノックの音が聞こえて、理恵子の返事でドアが開くと、いつもの担当とは違う女性看護師が、替えの点滴を持って入ってきた。年の頃は五十手前といった風で、私たち夫婦と同年代のように見える。
「こんにちはぁ。そろそろ点滴交換の時間なので、失礼しますね」
雪彦が立ち上がって丸椅子をずらすと、彼女は小さく会釈をしてから、手を伸ばしてわずかに液体の残る点滴の袋を取り外した。半袖のナース服からはみ出た二の腕の肉がふらふらと揺れる。
あの日以来、凛は点滴だけで栄養と水分を摂っている。眠っているのだから食べることはできない。だからこれが凛の命綱だと思うと、見舞いに来るたびにまずはこの点滴の残りを確認するのだと理恵子が以前言っていた。朝昼晩と、凛の食生活を一手に引き受けていた理恵子にとって、この確認作業がごはんを作って食べさせることの代わりになっているのかもしれない。
経験から来る手際の良さで、物の数秒で点滴を取り替えると、銀色のカートを押して戻っていく。
「そうそう。今日から三日間、担当看護師が不在なので、凛ちゃんのお世話はわたしが担当させていただきますね。師長の田井と申します」
ドアの前で立ち止まり、看護師が改まって名乗った。聞き覚えのあるその名に思わず振り返ると、彼女の名札はいつもの看護師とは色が違った。
「……実は、息子が凛ちゃんと同じ高校なんですが、結構仲良くさせていただいてるみたいで。今回のことを聞いて、わたしびっくりして……。わたしにできることは、何でもやらせていただきますので、何でもおっしゃってくださいね」
深々と頭を下げると、理恵子が「ありがとうございます」と涙声で答え、同じくらい深く頭を下げた。母親同士、感じるものがあるのかもしれない。師長の目にも、うっすらと涙がにじんでいた。
「あのさ、ずっと言おうか迷ってたんだけど、俺、田井先輩からお見舞いに来ていいか、何度も聞かれてるんだよね……」
師長が去って、いくらかの雑談のあと、侑がぽつりと言った。理恵子が剥いたりんごを齧りながら、どこか言いづらそうに背中を丸めている。
「先輩ってさっきの師長さんの? それならすぐに言ってくれたら良かったのに」
あの花畑でのことの詳細を知らない理恵子が、なんてことないように返す。もしかしたら侑は彼らから何か聞いたのかもしれない。あぁとか、うぅんとか、鈍い唸り声をあげた。
「今日も学校で会ったときに聞かれて、俺、わかんないって答えちゃったんだけど。……もしいいなら明日にでも連れてくるよ」
パパが、と付け加えるような視線を寄越して、侑が言う。
確かに、会いたいかと聞かれたら会いたくはない。彼らが凛をあんな場所に連れて行かなければ今回のようなことにはならなかったのだから。
ただ、そんな中にも、なぜあんな場所にいたのかを問いただしたい気持ちはあった。なぜ娘をたぶらかし、あんな場所でひそひそと夜を明かしたのか。
思い出すだけで今にも気が狂いそうになる。怒りで震え出した脳を納めて、侑に言った。
「わかった。明日……」
言葉が載ったのは、思いがけず芯のない声だった。
翌日、病院に顔を出すと、病室には師長が凛の様子を見に来ていた。
「あっ、松上さん。おはようございます」
夜勤明けなのか、肌のツヤがなくどこか影のある顔をしている。
「師長さん、お疲れでしょう。今日はこれでお仕事終わりですか? ゆっくり休んでくださいね」
理恵子が労いの言葉をかけると、師長はありがとうございます、と微笑みを返した。
「今日、息子がお見舞いに来るみたいで……。お邪魔だとは思うんですが」
「いえいえ、ありがたいです。こんな風になって以来、娘はもうずっと家族以外に会ってないですから」
「凛ちゃんの顔を見たらすぐお暇するように言ってますので」
恐縮した様子で言うと、師長はすぐに部屋を出て行った。
事情を聞かされていないのだろう。まさか息子が戦犯だなんて想像していない様子だ。
顔を見ただけで帰られては困る。あの日についての事情聴取をしてやらなければならない。
雪彦は、昨晩たっぷりと練った尋問内容を頭の中で反芻し、これから来る被告人ふたりが証人台の前に立つところを想像すると、まるで裁判前の検事のように事実を明らかにしてやると意気込んだ。
少年たちが病室にやってきたのは、面会時間が始まって二時間ほど経った、一時過ぎだった。食事を終えた頃に行くよう親からの指導が入ったのかもしれない。見舞いの茶菓子と花を持参していた。
「初めまして。凛さんと仲良くさせていただいている、田井栄です」
「森川悠真です」
理恵子や侑が笑顔で迎え入れたせいか、一切の罪悪感もない、それどころかむしろ潔ささえ感じさせる表情で、少年ふたりは我々の前に立った。挨拶やお辞儀がどこか堂々としている。
雪彦は一瞬虚をつかれたあと、一層苛立った。反省しているのなら尋問の刃も多少緩めようと考えていたというのに、悪びれもしない態度に、今にも頭が沸騰しそうだ。
「お前たちは、謝罪をしに来たというのに、どういうつもりだ!」
昼下がりの穏やかな院内に響き渡るほどの声で叫ぶと、理恵子が走り寄って病室のドアを閉めた。パーンと発砲音にも似た音を響かせて、病室の引き戸が勢い良く閉まる。
病室に、静寂が降った。
「僕たちは、別に謝りに来たわけではありません。ただ、大切な友だちを心配して会いに来ただけです。それと……」
悠真が雪彦に向かって言った。視線は一直線にその目を見据え、動揺のない凪の色をしていた。
悠真が後ろを振り返ると、ドアの外から布に包まれた大きな板を、栄が引きずり入れた。狭い個室に不似合いなサイズは、百八十センチを優に超えているだろう少年の手にも余るほどだ。
「これを持ってくるために来ました」
栄が巻いてあった布を剥がすと、大きな水彩画が姿を現した。
「あれ、これ去年のソラフェスの絵ですか?」
侑が近寄って覗き込む。
広い空と海、そしてその下に広がる赤い花畑。それはあの日の風景に違いなかった。
「すげぇ、こんな近くで見たの初めて。こんなでかかったんだ。去年めちゃくちゃ話題になりましたよね。俺も写真撮りました」
「これ、凛が描いた絵だったんだ」
写真を見せようとガジェットを取り出した侑に向かって、栄が静かに言った。
「え、ねぇちゃんが?」
驚いたのは侑だけはなかった。雪彦はもちろん、娘のことは何でも知っているはずだった理恵子すら、驚いた顔を見せた。
「え、うちの子が? この絵を?」
「はい。しかも、これは日本の高校生の中で一位になりました。お父さんがずっと求めていた、一位です」
悠真が、雪彦の耳にしっかりと、一言一句漏らさないように、はっきりと届けるように言った。放たれた弓矢が一直線に雪彦の胸に突き刺さる。
「高校生の絵のコンクールで、金賞を獲ったんですよ。たった一人の金賞です。見ますか? 表彰状」
栄がカバンから取り出した筒には、ゆるく丸められた表彰状が入っていた。うすクリーム色に金の箔押しで美しく飾られたそれには、達筆な文字で「松上 凛殿」と書かれている。
「あと、これ、審査員だった画家の天財誠さんからのお手紙です。知ってますか? 世界的に有名な方ですよ。凛さんの憧れの人です」
天財誠という名前は、メディアを介して何度か聞いたことがあった。そちらの方面には疎い私が何度も聞いたことがあるというだけで、その権威は想像にたやすい。おそらく、美術界を背負って立つ人なのだろう。
「天財誠って、ねぇちゃんの部屋に飾ってある絵の人じゃない?」
「あ、そうだね。壁に貼ってあるポスターだよね。ほら、パパ。中学の芸術鑑賞会で、凛がこんな大きなポスター買ってきたじゃない」
理恵子が両手を広げてサイズを示す。その大きさに、凛の部屋にある夜空の絵を思い出した。怒りに感けて破り捨てようとしたときに、背後から突き飛ばされて振り返ると、凛がこちらにハサミを向けていたことを思い出す。その手は殺意に震えていた。
雪彦は受け取った手紙を開いた。封筒の蓋は元々止まっておらず、何かに同封されていたのだと計り知る。隅には、「凛さんのご両親か、先生か、ご友人の方、ぜひこの手紙を読んで、凛さんに渡してください」と書かれていた。
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