11-2
「見て、これ」
また成長して高学年になった自分が、袖をまくって腕の青あざを見せた。
「痛そうだね。どうしたの?」
「これ、この前パパにテスト見せて殴られたときに、転んで打ってできたの。ソファーの手を置くところ、木だから」
「まだ痛い?」
「触ったら痛いけど、もう大丈夫だよ」
幼い人差し指が青あざの上を何度か行き来する。その爪には絵の具が付いていた。
「もう絵、描くよね?」
「うん、工作クラブだよ。毎週木曜日!」
パッと上げた顔は先ほどまでとはまるで別人のように明るい。やっと陽が照ったような色をしている。
「これ、この前クラブで描いたの」
五年生の凛が筒状に丸められた絵を広げ、自慢げに見せた。
森の中にある遊園地で、子供たちが遊んでいる絵だ。細かいところまで丁寧に描かれていて、我ながら小学生にしてはうまいと思う。
「夢の国の絵!」
そこには大人の姿はない。
「だって大人がいると勉強しろってうるさいからさ」
このネバーランドの絵は、当時小学生の絵画コンクールで金賞を受賞した絵だ。小学校の思い出の中でも一、二を争うほどうれしかった出来事だったから、よく覚えている。
全校朝礼で校長先生から表彰されたとき、自分が他の人とは違う特別な才能を持つ人間なんだと思った。
体育館のステージの上から、整列している生徒たちを見下ろすと、端から端まで、みんなが一斉に拍手をした。並んだ瞳はどれもキラキラと輝いている。自分の列に戻ると、背の順に並んだクラスメイトたちが「りんちゃんすごーい!」「表彰状見せて!」と声をかけた。お調子者の男子が「俺は松上は天才だと思ってたんだよ」なんて周囲を笑わせたりもした。
絵を手に取ると、みるみるうちに記憶が蘇ってくる。
そうだ。この絵を持ち帰って父親に見せると、褒めるより先に「パパが絵の具を買ってあげたおかげだね」と言ったのだ。凛は意味がわからなかった。絵の具がなければ、水彩画であるこの絵が完成しないのは確かだが、絵の具があったから金賞を取れたわけではない。日々の練習や、この絵に対する想い、かけた時間、そして凛の才能がもたらした結果である。あまりにも論理的に破綻している。
そんなことを言われ、ショックが大きく自分がなんて応えたか思い出せない。凛は、はぁとため息をついた。
ただ、これに似た発言はこのあと幾度もあった。凛や侑が良い成績を残すと、その度に雪彦は感謝を求めるように「パパのおかげだ」と言った。
侑の天空島中学に合格したとき、それは勉強を見ていた自分のおかげだという雪彦の言葉に、凛は気が狂いそうになった。侑は、小学生にも関わらず夜中の一時まで勉強していたせいで、授業中に居眠りをすると学校の先生に怒られていたのだ。凛は、それを侑と同じクラスに妹がいる友人に聞いて知り、すぐに理恵子に伝えた。侑はもともと算数が得意だから、雪彦が帰宅後に算数を教える必要などない。そんなことよりも、睡眠を取ってしっかり授業を聞いたり、苦手な国語の勉強をした方が余程有意義なはず。だから、あの勉強会を止めさせるようお願いしたのだ。
しかし、理恵子が行動に出る事はなかった。少しくらいは雪彦に何か伝えたかもしれないが、雪彦の自己満足レッスンは、受験当日の三日前まで続いた。ここまで来てやっと、試験中に寝たら困ると言って、理恵子が止めるように伝えたのだ。
「せっかくあなたが勉強を見てくれたのに、試験中に寝てしまったら意味がなくなってしまうから……」
と理恵子は雪彦に言った。そのなんとも言えない気持ち悪さを言うと、「そう言って持ち上げておけば良いのよ」と宥められた。
「ねぇ、なんで勉強ってしないといけないのかな? 自分のため? なんかパパのためにやってるようにしか思えないんだけど」
振り返るとそこには、中学の制服を着た凛がいた。背丈は今と十センチほどしか変わらない。長い髪を二つ結びにして、成長を見越して買ったオーバーサイズのセーラー服を着ている。背中には教科書がぎっしりと詰まったリュックを重たそうに担いでいた。きっと入学したての頃だ。
「中学入ってからますます成績にうるさくなって、なんかもう疲れた。せっかく受験終わったのに……」
中学生の凛が、リュックを地面に置いて前を歩き出す。
「その制服ってさ、天空島高校?」
振り返った中学生の自分が、こちらを指差して言う。見下ろすと、いつの間にか高校の制服を着ていた。
「あぁ、これね。そうだよ」
「やっぱわたし、天空島行くんだ」
ますます疲れを背負いこんだように、ぐったりと肩を落として、後ろ向きのまま歩き出す。足元に揺れるスカートが、膝より上で揺れていた。
「そういう〈運命〉なんだよ」
「運命?」
「うん。あの家に生まれちゃったから、もうどうしようもない」
「明日、進路希望出すのに、天空島しか書けないの? 美術系の高校は書いちゃダメ?」
そういえば、中三の春に出した調査票は、第二希望に家から通える隣町の公立高校の美術科を書いた。それを見せた時の、雪彦の「画家なんて夢はいつか変わるんだから、部活だけで十分だ」と言ったのを思い出す。理恵子も「絵なんて遊びでしょ?」と、続けた。
「書いたって意味ないよ。パパが許すと思う?」
「ママは? 応援してくれないの?」
「まさか! パパと同じ。直接否定するわけじゃないけど、わたしが画家になれるなんて全く思ってないし、次の調査票で普通科を書かされるよ」
あの両親は全く子どもを信用していないんだなぁ、と今更ながら思った。
どこまでも続いている花と草の匂いで、頭がぼーっとしてくる。
「何、そのつまんない〈運命〉。そんな人生、いらないよね?」
「え?」
「だから、死んじゃえばいいんだよ。死んでリセットして、別の人間になって新しい人生歩もうよ!」
中学生のわたしがまるで別人にでもなったかのような顔でぐいっと一歩歩み寄る。威圧感に負けそうだ。
「いやいや、だめでしょ」
反射的に後ずさると、ますます近づいてくる。もう鼻先が触れそうだ。
「なんでだめなの? この人生で幸せになれると思ってる?」
「いや、わかんないけど……」
根拠なんて、ない。
「じゃあさ、パパなんて殺しちゃおうよ! パパがいたら一生幸せになれないでしょう。ほら、わたしたち、今まで何回もパパを殺す計画を立ててきたじゃない」
彼女が開いた手のひらに、見覚えのあるノートが次々に浮かび上がる。学習帳から、カラフルなキャラクターノート、分厚い本もある。
「死ね、死ね、死ねって。殺してやるって、何度だってわたしに言ってきたよね」
「……え?」
「わたしのこと、ビリビリに破ったこともあった。痛かったけど、それで凛の気が済むならって、わたし我慢したんだよ?」
「……あなた、誰?」
「わかんないの? わたしはね、日記の中の凛だよ」
同じ顔で、同じ背丈で、同じ制服を着た彼女が言った。
頬に触れた彼女の左手は、思ったよりもずっと冷たくて、それは彩度の低い、知らない人の手だった。
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