11-1

息ができなくて目を開けると、そこにはぼんやりと白い空を囲むように真っ赤な花が一面に咲いていた。目の前にあるのは、いつもの部屋の天井なんかじゃない。

服についた土を払おうと起き上がって手を伸ばすと、ちっとも汚れていなくて驚いた。目の前に広がる花畑も、さっきまでいた場所とは何かが違うことはわかるのに、どう違うのかわからない。

ぎゅうと締め付ける頭をひねって思い出す。確か悠真を探しにここに来て、話してるうちに寝ちゃったと思ったら、パパに見つかって逃げて……。足元が吊り橋みたいにぐらりと揺れて、転んだと思ったら海に落ちたんだ。

凛の背中に冷たいものが走った。

わたし、一体何メートル上から落ちたんだ……。いつも見る悪夢の感触が蘇る。あんなの夢だから良かっただけで、現実では生きていられるわけがない。

改めて周囲を見渡す。ソラフェスの絵にそっくりなはずの風景なのに、遠くに広がる海はない。潮風も、海の音も聞こえない。ただ、耳鳴りがしそうなほどの静寂がそこにあった。

「うそでしょ……」

凛は、永遠に続いていそうな花畑をひたすら歩いた。じっとしてなんていられない。こんなところで突っ立っていても何も変わらない。どっちに進めばいいかなんて見当もつかないけど、もしかしたら地獄に迎えって歩いているかもしれないけど、たぶんここにいても仕方がない。

まだ、死ねない。

「ねぇねぇ」

何分歩いたのか、何時間歩いたのか、一切変わらない景色の中ただ宛もなく歩みを進めていると、いつの間にか目の前に小さな女の子が駆け寄ってきていた。どこから来たんだろう。見渡す限り隠れる場所などない。

「え、だれ……あ、あれ。わたし?」

よくよく見ると、それは幼稚園の制服を着た自分だった。通っていた幼稚園の、紺色のブレザーを着て、胸元には薄ピンク色のリボンタイをつけている。胸にはチューリップの形をしたプラスチックの名札がついていて、〈まつがみ りん〉と理恵子の独特の丸文字で書かれていた。

「りんちゃん。4さい!」

写真でしか見たことのない自分が無理やりこじ開けるように右手で4を示す。その手は、ぽてっとした小さな子どもの手だ。

「えっと……ここで何してるの?」

自分で自分に話しかけるのに違和感を覚えながら、少し屈んで目線を合わせる。

「りんちゃんね、ままとぱぱさがしてるの!」

元気よくそう答えると、女の子は凛の手を引いて歩き出した。意外にも強い力に思わずつんのめる。その手のぬくもりは、よく両親と手を繋いで歩いたことを思い出させた。

「りんちゃん」は幼稚園での出来事や、好きなアニメ、友だちの話なんかを矢継ぎ早に話した。どれも実際自分に起きたことだから、新しく知るというよりは、何年も前の記憶の引き出しが、彼女の無邪気で強引な手によって次々に開けられていくような感覚だ。

途絶えることなく溢れてくる話の端々に、両親や侑の話を聞きながら、自分にもそんな時代があったのだと思い出す。

いつから父親のことをこんなにも嫌いになったのだろう。いつから父親はあんな風になってしまったのだろう。

少なくとも、このぐらいの頃はちゃんと好きだった気がする。物心がついて、父親が言うことが理解できるようになった頃にはもう好きと言えなかったけれど、まだ無垢なこの頃は好きだった。それはたぶん無条件に、何かここという好きな点があったわけじゃなくて、単に親だから好きだったのだ。

でもいくら思い出そうとしても、頭がしびれて思い出せなかった。たった十年ちょっと前のことが歴史上のできごとのように遠く感じる。

「りんちゃん、パパのこと好き?」

手に感じるぬくもりを頼りに問いかける。

「りん、最近パパのことあんまり好きじゃない……」

そう答えた彼女は、もう凛の胸ほどまでの身長があった。

「あれ……」

その横顔は、うっすらと曇り、背中にはランドセルを背負い、肩からはトートバッグを掛けている。そのトートバッグは学校帰りに行っていた学習塾の道具を入れていたバッグだ。当時好きだったキャラクターのキーホルダーが歩くたびに揺れている。

「そうなんだ。なんで?」

「三年生になってからね。塾、週三回になったからみんなとぜんぜん遊べないし、テストの結果見せるとパパいつも怒るもん……」

そういえば、小学校三年生といったら、ちょうど塾に通い始めた頃だ。学校の友だちに「学校のあと遊ぼう」と誘われ、「塾だから遊べない」と答えると、「えー、また?」と嫌な顔をされたことを思い出す。好きで通っているわけじゃないのに、と唇を噛んだ。

「ゆきちゃんも、あみちゃんも、みんな塾行ってないよ。おねえちゃんも、子どものとき塾行ってた?」

握っている手に力が篭る。

「行ってたよ。すごく、いやだった」

「だよね! りんもいや! りん、塾行かなくても学校のテスト百点取れるよ!」

ほらね、とどこからか取り出したテストを見せる。点数のところには、色素の薄い赤のサインペンで百点と書かれたいた。テスト用紙の中心には、大きな花丸とともに、笑顔のマークと〈いつもがんばってるね!〉の文字も書かれている。

ずっと忘れていた小学校の担任の先生の顔が浮かぶ。一人一人のことをしっかり見てくれるいい先生で、笑ったときの垂れた目尻が大好きだった。

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