9-2

住宅街を抜けると研究所の正門の前に出た。暗闇の中で音もなく建っている。壁面のガラスに夜空が映って黒光りしている姿は、住宅街とは一線を画す空気を放ち、圧倒された。

「夜の研究所ってなんか怖いね……」

ぴゅうと建物を避けて吹く風は、海の湿り気を得て少し冷たい。時刻は十時半を超えていた。

もう所員たちは家に帰ったのだろう。研究所の門が固く閉ざされている。定期便だってすでに終わっている時刻だ。

「この中ってことはないよね、きっと」

「閉まる前だとしても、セキュリティーあるから入れないだろうな」

「昔、お父さんが言ってたけど、研究所のセキュリティーって結構厳重らしいよ」

「じゃあ高校生がひとりで忍び込むなんて無理だろうな」

視線を感じて見上げると、門の上に備え付けられた監視カメラと目が合う。赤いランプが、わたしたちを認識していると伝えるように、小さく瞬きをした。

「もし、この奥に行って、いなかったらにしよっか」

門からそのまま続く分厚いガラスの塀は、坂の下まで長く続いている。

道の左手は中心街の店舗の裏口が続いていた。この道が天空島にとってさして重要でない場所に続いていることを知らしめるように、飾り気のない道を行く。

九時に出る定期便の最終が発つと、中心街も営業を終え、閉店の作業をする人たちが去ればあっという間にゴーストタウンのように静まり返る。

「天空島の夜って、なんか怖ぇな。建物が無機質だからかな」

「みんなつるつるの白い壁かガラスだもんね」

「デザイナーズアイランドみたいな呼び方あったけど、整ってるから逆に怖いんだろうなぁ」

地元の建物は、建てられた時期もデザインも設計もすべて違ってバラバラだから、こんなにも整然と並べられるとなんだか逆に居心地が悪い。ごちゃごちゃ感こそが人間味や生活感を醸し出すのだと気付かされた。部屋は少しくらい汚い方が落ち着くのと同じだ。人間が生きている証になる。

ましてや裏口は、着飾る必要もなければ何の店かを表す必要もないせいか、飾り気が一切なく、隙間に生えた雑草くらいにしか違いが見当たらなかった。

緩やかな下り坂は、店舗が終わり住宅街に入っても続いた。歩き疲れて足の裏が熱を持ち始める。悠真の気配がいつまでも見当たらないせいで、まるで歩くのが目的かのように、ただただ暗い一本道を下った。

「ねぇ、悠真ってさ、何か悪いことしたのかな……」

眠気も相まってぼーっとしてきた頭の芯にふと湧いた疑問がこぼれる。

「え、なに? 悪いこと?」

「いや、悠真って一体何から逃げてるのかなって」

わたしたちは、何から逃げている悠真を探して、こんな誰もいない道を歩いているのだろう。

「そりゃ、明日学校行ったら噂が広まってるからだろ」

「うん。まぁそうなんだけど。なんか突き詰めてみると、悠真って何もしてないのに、一体何を責められてるのかなって思い始めてきた」

「あぁ、うん……」

栄の言葉も歯切れが悪い。

「悠真がね、男の人のこと好きになることって、犯罪じゃないでしょ? 別にストーカーしたとかでもないから、迷惑かけたわけじゃない。もし、本当にイッシーのことを好きだとしても、それの何が悪いのか、具体的にはわからないなって」

もちろん、わたしたちが未成年だから大人と付き合ったらいけない、それは犯罪だからというのはわかる。それは大人たちがわたしたちを守るために作ってくれたルールだ。だからそれを守っていないから罰せられるというのならわかる。

だけど、悠真に対するそれはそんなことではない。

「うーん。たぶん普通じゃないってことなのかな……。普通は、その、女を好きになるわけじゃん? 普通じゃないことがが気持ち悪いって、まぁ思うやつもいるんじゃないかな」

栄がもそもそと発した言葉に、理恵子の顔が浮かぶ。

「うちのお母さんね、テレビにオネエとかゲイの人が出てくると、気持ち悪いとかおかしいって言って笑うの。えー、気持ち悪いっ! って。冗談めかして笑うの。オネエの人を見て、どんなにきれいでも男ってわかるよね、とか。それがね、昔からすごくいやだった。なんて心が狭くて、人の気持ちがわからない人なんだろうって。もしもわたしや侑がそうだったら傷つけてしまうとか考えないのかな、もしもこの場にそういう人がいても冗談でしょうって言うのかなって」

「親の世代にとっては、普通とかそういうことが、俺らより大切なのかもな。あんまり、多様性の時代じゃないっていうか」

「でも、普通だからって偉いわけじゃないでしょ? 自分の常識から外れている人を見下したり笑ったりしていいわけじゃない。なんか普通って気持ち悪い言葉……。誰が決めたんだ、そんなの!」

興奮して鼻息荒く凛が叫ぶと、栄はまぁまぁと宥めた。月明かりでうっすらと照らされた凛は、今にも湯気が沸いてきそうだ。

「うーん。普通、ねぇ。それ言ったら別に俺も普通じゃないからなぁ。うち片親だし。もし、両親が揃ってるのが普通だとしたら、もう俺って普通じゃないじゃん。でもだからなんだよって話なんだけど。それって悪いことなのかって」

「うん。だよね。うちだってあんな父親の教育方針で育って、普通とは言えない」

「それと同性が好きっていう意味での普通じゃないって、どこが違うんだろうな」

栄が空を見上げてため息をついた。そんなものに、答えなんてない。

「もしうちが片親だからってなんか言ってくるやつがいたら、じゃあタイムスリップして父ちゃんが瓦礫の下敷きにならないようにして来てくれよって、そう言うしかないだろ。好きでこうなったわけじゃない。でもさ、たぶん悠真だって好きでゲイになったわけじゃないし、なんというか、そういう運命だったんだよって」

〈運命〉。それは、とてつもなく曖昧で現実味がない言葉なはずなのに、それでいて、とてつもなくしっくりくる言葉でもあった。

きっとみんなそうだ。凛が雪彦の娘として生まれたのも、自分で選んで決めた道ではなく、神様が勝手に、凛に断りもなくそうしただけの〈運命〉だ。少なくとも凛には選んだ記憶は一切ない。

栄だって、悠真だって、自分で選んでこうなったわけでも、誰かにそうしろと言われて従ったわけでもなく、目に見えない、どこにいるかもわからない神様が、勝手に決めて、知らないうちに体の向きをこちらに向けて突き飛ばすみたいに背中を押したに過ぎない。もしも選べるなら、お父さんが生きている道を、女性を好きになる道を選んで歩いて来ただろう。きっとその方が広くて安全で、傷つくことのない平坦な道だ。だから、責めるなら、この世のどこかでコントローラーを握る神様に言って欲しい。

悠真はよく「こんな個性、俺にはいらなかった」と言う。「俺は、普通が良かったんだ」と。それを聞くたび、凛は少し寂しくなった。もしも、悠真が女性を好きになる男の子だったら、こんな風に友達になれなかったかもしれない。今の悠真とは全然ちがう人格で、友だちになることも、こんな風に心配して真夜中に探し回るなんてこともなかったはずだ。ただのクラスメイトの一人、中学の同級生の一人として、十年後にはお互い記憶に残らない仲で終わっていたかもしれない。

全然違う場所についた傷だけど、同じぐらい深い傷だから、痛みを理解できた。この三人は、この胸の深い傷のおかげでこうしていられる。きっとこれも〈運命〉なんだ。凛はそう思った。


それが現れたのは、突然のことだった。街灯が少ないせいで、数メートル先がぼんやりとしか見えなかったから、暗闇の先に何があるかわからなかった。

海の上に浮かぶ広い広い草原。黒い草花は、風に吹かれて、ざぁざぁと左右に揺れた。

「あ、花だな、これ」

人工の灯りを失った草原に注ぐ淡い月明かりが、その花が赤いことを表している。

「わたし、ここ来たことあるかも」

「え、マジ?」

「あの、ソラフェスで描いた絵、覚えてる?」

「あぁ、あの飾られたやつ?」

「そう、あれここに描きに来た。反対側から歩いてきたから、全然気付かなかったや……」

校門前の海沿いの道を、画材を抱えて歩いた日を思い出す。もっと北の方で描いていたので、この花畑がこんなにも広いことに気づいていなかったのだ。

「そういえば、確かにこんな風景の絵だったかもな。赤い花、下の方に描いてあった気がする」

「この花、彼岸花だよ。土の中にたまねぎみたいな球根が入ってて、その毒で人を殺せるんだって」

彼岸花の鱗茎にはアルカロイドが多く含まれていて、口から摂取すると、ひどい場合中枢神経が麻痺を起こして死に至る。

「こわ。なんでそんな物騒な花がこんなところに咲いてんだよ」

「知らないよ」

「てか、あの絵そんな怖い絵だったのか」

栄が、ソラフェスの絵を思い浮かべて、ぞっとした顔を見せる。

「でも、『情熱』とか『独立』とか『転生』とか、いい花言葉もあるんだよ」

風景の美しさだけでなく、花言葉を調べて描くことを決意した。「情熱」は天空島のお祭りとしても、高校生の文化祭としても悪くない花言葉だと思ったし、「独立」や「転生」は自分の心情に合っていると思った。

「ここに悠真いるのかな」

見渡す限り人影はない。

「悠真ぁ! いるのかぁ!」

栄が大声で叫ぶ。ぶつかるものがない声は、遠く海まで一気に走り去っていく。

「ゆぅうぅまぁあああ、どこにいるのぉぉおおお」

凛も体全体で声を張り上げる。栄も追って繰り返した。ふたりで四方八方向いて、花畑中に届くように叫ぶ。

「ゆーーーまーーーー!」

「いたら返事してぇぇええええ」

呼応するふたりの声が虚しく響く度、ふたりはどんどんと不安になっていった。あれ、ここにもいなかったらどうしよう。言いようのない不安が背中の方からひたひたと近づいてくる。かき消すように叫んでも、返事は一向に返ってこなかった。

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