8-3

悠真は、そのまま部屋には戻らず島を歩き出した。学校や寮にはいたくない。

出かけるつもりがなかったせいで、財布もガジェットも持っていなかった。気づいた頃にはもう中心街まで来ていて、億劫なのでそのままアーケードをくぐる。なんだかもうどうでもいい気がした。

「天空街」の文字の下を抜けるとすぐに一色と入ったカフェが見えた。しばらくあの店には入れないかもしれない。ますます胸の奥が重くなる。

ふらふらと歩を進めると、肉屋の前でカップルが商品を選んでいた。男の腕には隣の店で買ったらしい野菜が袋から溢れるほど入っている。寄り添っている女が、ショーケースに並ぶ肉を指差して「ヒレ三百グラムとぉ、ベーコン二百グラムとぉ……カレーのお肉何にする?」と甘えた声で言う。よく見ろ少年、これが世の中の普通なのだ! と言いたげな二人だ。彼らの注文に、つるりと白いボディの店員ロボットが、目の部分がチカチカと点滅させて返事をする。注文通りの肉をパックに詰めていくその姿は、やたらと人間味があって慣れるまで怖かったのを思い出す。

映画館も、洋服屋も、レストランも、銀行も、コンビニも、ほとんどの店に島民がいて、当たり前に生活をしている。冗談を言い合って笑ったり、ガジェットの向こうにいる誰かと話したり、美味しいものを食べて感想を言い合ったり……。まるで孤独なのは自分だけだと言われているような喧騒に、気づけば逃げるように足早になっていた。

中心街とクロスする大通りの先、丘の上に高く高く、空へと伸びる研究所の塔が現れる。吸い寄せられるように門の前に立つと、研修ぶりに見たその景色に栄や凛の顔が浮かぶ。楽しかったあの日、俺は変われるかもしれないと心が躍ったんだ。

じー、じーと気温を上げるような虫の鳴き声とともに、こめかみから汗が垂れる。そのまま道を左に曲がった。

この先、島の南半分は工業地帯や農業の実験施設があるから、高校生が軽々しく入ることはできない。詳しいことはわからないが、正門から続くガラスか何かの透明な塀の中にあるから、きっとこの中も研究所の施設なのだろう。

そういえば島の東側には行ったことないかもなぁ。考えることを拒否した空っぽの脳がふと思う。

「行ってみるか」

島の北西部だけで生活できるから、東には行ったことがない。立ち入り禁止なわけではないし、こうやって道は続いているのだから、行けることは行けるけれど、未開発で行っても何もないということだったから、機会がなかった。

緩やかな下り坂に沿って続く塀は随分長いこと続いた。中は相変わらず何かの施設やビニールハウス、ソーラーパネルがずらりと並ぶばかりだ。時々ちらちらと所員らしき人影が見え隠れする。日曜日にまで働いているなんてご苦労なことだ。来年、自分もあんな風にここで働いているのだろうか。

左手に続いていた中心街の店舗の裏口から徐々に住宅が並び始め、それも途切れてしまうと、突然目の前一面の花畑が現れた。海のように波打ちながら、見渡す限り赤い花が咲いている。自生したのだろうか。区切りのないそれは、無秩序に並び、合間合間に他の雑草も生えているようだ。

「うわ、すげぇ」

思わず声が漏れ、いつの間にか喉が渇いていたことに気がつく。意識してみると喉の奥がぺったりと張り付いて声が出しづらい。屋根のない道を歩いていたせいで知らないうちに体の水分が随分奪われていたらしい。手の甲でうっすらと浮き出た汗を拭った。

赤く、放射状に伸びる細い線のような花びらを踏まないように気を遣いながら歩を進める。海からの風が垂直の茎を押し、花がさわさわと不規則に揺れた。

ぽつぽつと現れる空き地にそっと腰を下ろす。

あぁこの景色、なんか見たことあるなと思ったら、ソラフェスのときの凛の絵だ。

東の海には陸はなく、水平線が緩やかな弧を描いている。凛は、まだ寮で暮らしていた頃、ここで朝日を見てあの絵を描いたのかもしれない。

凛が二年の夏前まで寮に住んでいたことは、一緒にいるようになってから知った。同郷の俺たちが寮に住んでいるように、凛も寮に住めばいいのにという話をしたとき、二年の前期の試験で親の思い通りの成績を取れなかったせいで退寮させられたのだと教えられた。通学にかかる往復四時間の間に勉強ができるのに、全然合理的じゃない。それを言うと「放っておいたら勉強しないと思われてるから」と、人一倍真面目に課題に取り組む凛にまるで不似合いなことを言った。


夏の研修で初めて凛の父親に会った。

第三週目、研究部の研修に参加した時、そこに雪彦が現れた。

ノックもなく扉が開くと、我が者顔で入ってくる雪彦に、場の空気が固まる。小柄でメガネ、一見大人しそうに見える外見からは想像できないが、日々相当怒鳴り散らしているのだろう。ピリピリとした緊張感はガラスの壁越しにも伝わってきた。

「ね、あれって凛ちゃんのお父さんじゃない?」

天空島出身で、両親が研究所勤務の衿上七海が言った。壁の向こうまで聞こえやしないのに小声でぽそぽそ話すせいで少し途切れ気味だったが、確かにそう言った。隣の席に座っている椚佑太郎は興味がないのか、もくもくと作業をこなしている。

「マジか。あいつの父親めちゃくちゃ嫌われてんじゃん」

湯川蓮が茶化すように言った。今週の研修ではリーダー気取りの、いつものことだが感じの悪い男だ。

「そういうこと言わない方がいいよぉ」

誓芽衣が出来合いの困り顔で言うと、湯川はますます笑った。どんくさいがグラマラスな体が好みらしく、この研修中湯川はいつも誓を側に座らせ、からかっては面白がっている。誓も、カースト上位の湯川のお気に入りになったことで気が大きくなっているのか、すっかり愛人気取りだ。白衣の下に着た制服のスカートは徐々に短くなり、明日最終日を迎える本日は、太ももの半分以上が見えている。これまで同じグループにいた衿上はそんな彼女が面白くないのか、誓とは距離を取っている。今では目も合わさない。

「まだこんなことをやってるのか!」

遠くから怒号が聞こえる。盗み見ると、雪彦が誰かを怒鳴っていた。自分より十歳は年上だろう所員に向かって、言い訳すらできないほどに間髪入れず言葉を連ねている。部内がさらに凍りついた。

「凛ちゃんのお父さん、向こうではあんまりらしいよ」

衿上が冷たい視線を飛ばしながら言う。

「あんまりって?」

「開発部では、一応部長らしいけど、そんなすごいとは思われてないみたい。うちのお父さんが言ってた」

衿上の父親も開発部に所属しているから何かと聞かされるのだろう。

「まぁあれじゃあ慕われないわな」

ぽそりと椚が言う。もしかしたら能力的な問題ではなく、椚の言う通り人望の問題なのかもしれない。研究部で威張り散らしていることは開発部でも知れ渡っているのだろう。

その不機嫌な顔は、凛とは全く似ていないように見えた。いつも笑顔を絶やさない凛の顔が浮かぶ。本当に親子なのか。名字が同じだけではないのか。

ある程度吠えて気が済んだのか、その小さな体を翻して歩き出すと、出入り口横の小部屋で向き合うこちらに気が付いた。壁越しに目が合ってしまう。しまったと思った頃には時すでに遅し。自動ドアを開いて雪彦が入ってくる。壁越しに所員たちの顔が苦く縒れるのが見えた。

「君たちは、天高の生徒?」

「あ、はぁ。そうですけど……」

最後に目が合った湯川が答える。

「松上凛というのがいるだろう。あれは私の娘だから」

もう知っているし、だからなんだよ、と言いたくなるような台詞に、全員で言葉が詰まる。娘にとっては完全にネガティブキャンペーンにも関わらず、本人は至って嬉しそうだ。

「そうみたいっすね。お世話になってます」

湯川がやり過ごそうとぺこりと小さく会釈する。わかったから出てけよ、と心の中でつぶやいていそうだ。

「凛と仲の良い子はいるの?」

上っ面だけ優しく見える笑顔で女子二人に投げかける。みんな押し付けるようにお互いに目を合わせた。衿上も誓も目を泳がせるばかりだ。実際ふたりは凛とは特別な仲じゃない。

「俺は、最近仲良くさせてもらってます」

堪り兼ねて小さく手を挙げた。

「そう、それはありがとう。君は、開発部には行けそうなの?」

意外だとばかりに二、三瞬きをして、値踏みするように悠真を見る。つまりはそれが聞きたくてこの部屋に来たのだろう。娘の友人は、開発部に入れるだけの頭脳を持った者なのか、凛が言っていたように、それだけが雪彦のものさしなのだと痛感させられる。

「わかりません。でも、そもそも開発志望ではないので」

開発に行きたいとずっと思っていたのに、この場所でそう思われるのが癪で、思わずそう答えてしまった。そもそも今ここにいる時点で選抜に漏れているのだ。開発部の研修は今週しかない。それなのにわざわざ聞いてくる辺りに、性格の悪さが滲み出ている。

とはいえ、雪彦の言い回しにはカチンと来た。天高生がみな開発部を目指していてるわけではない。みなそれぞれ夢を持って希望の部署を選択している。

雪彦が「……そう」とだけ言ってこちらを見た。目の奥の角度が改めて一段下がる。明らかに馬鹿にしたような笑みを浮かべながら立ち去るのを見て、腸が煮えくり返りそうになったが、ここで何かすれば雪彦は凛に当たり散らすだろう。握った手に爪が食い込む。開発部に行ける友人じゃないとわかった時点で、今日家で友達をやめろと言ってもおかしくはない。

他の部署は、開発部に行けなかった人の集団、それがあの態度の原因だったのだ。

悠真は、凛に心底同情した。これでは夢を語れるはずがない。自分の人生なんだから好きなことをやればいいと諭した自分を悔いた。それができるなら、凛はとっくにそうしていたはずだ。

はぁ、と重いため息をつくと、湯川がぽんと肩を叩いてくれた。全員の顔に、お疲れ様と書いてある。研修中、初めて団結した瞬間だった。

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