8-2
「じゃあ、そろそろ帰るか。ここから二時間近く掛かるし……」
随分話し込んでいたらしく、外の空気はうっすらとオレンジがかっている。
「もうこんな時間か。あと十五分で定期便来るからエアポートまで送るよ」
二人分の会計を済ませた一色にお礼を言うと、昔みたいに「みんなには内緒だぞ」と言って笑った。
この言葉をもらうとき、俺はいつも浮かれていた。二人だけの秘密を持てたことが、特別扱いされているようで嬉しかった。今になったら、きっと他の生徒にも同じだけの秘密を与えていたんだろうとわかるけれど、中学生の自分にとっては、この秘密がピカピカに光る宝石みたいに思えたのだ。
エアポートまでの直線の道を並んで歩く。斜め左の空に沈もうとしている太陽の端っこが、すでに箱根山の頂上に馴染み始めていて、パノラマの空はオレンジから水色へグラデーションになって頭上の白い雲を染めている。
並んで歩いてみると、昔より目線が近く感じた。そういえば、この三年で十センチも身長が伸びたんだっけ。すごく遠くにあったはずの顔が、少し近くに見える。
心地よい沈黙が続く。一色がここにいることが、なんだか夢のように思えた。
「あ、そういえば、まだうちの生徒には言ってないんだけど……」
目の前を伸びる遊歩道を見ている一色の横顔が、ふとこちらを見る。
「何?」
声を発したと同時にぽつんと鼻先に水滴が落ちた。照れるように笑う一色の顔に、背筋に冷たいものが走る。
「俺、秋の、彼女の誕生日に結婚するんだよね」
一色がその言葉を言った瞬間、空から優しく温かい糸雨が落ちてきた。
「あ、雨」
見上げると頭上の空には何もなく、宇宙まで見えそうな青空が抜けている。そこから糸のように細い罫線が悠真を閉じ込める柵のように落下していた。
悠真には雷雨にさえ思えたそれは、エアポートを発つ一色を祝福するかのように美しいお天気雨のまま終わった。
上手に笑えただろうか。ドアが閉まるまで結局おめでとうとは言えなかった。
相手は大学生時代から付き合っている彼女で、都内で働くOLらしい。聞きたくもないのに一色がペラペラと話すから、ずっと「そうなんだ」とか「へぇ、いいね」とか、そんなことばかり上の空で発していた。
相手の情報一個一個が、全部先が鋭利な矢みたいに身体中に突き刺さった。戦国武将のように四方八方から射抜かれて、それでも必死に足に力を入れて立った。今、平気そうにしていないと、もう一生一色に会えない気がして、必死になって耐えた。
定期便のドアが閉まって、その姿が見えなくなると、途端に涙が出た。頬に伝う水滴の温度が雨とは全然違ったから、きっとこれは涙だ。
部屋に戻ると濡れた髪や服もそのままにベッドに倒れこんだ。とてもそんなことを気にする余裕などなかった。この涙を、どうやって受け止めていいかわからなかった。
なんでこんなにも悲しいんだろう。イッシーが結婚することは、きっと幸せなことで、栄や凛も、他の同級生も、今受け持っている中学生たちも挙ってお祝いの言葉を伝えるだろう。なのに、俺だけはなぜこんなに悲しくて、受け止められなくて、おめでとうと言えないのか。
南向きの窓の外には、まだうっすらと青い空があるのに、次から次へと溢れ出る涙がすぐにそれをぼやけさせた。左目の目頭から落ちた涙が鼻筋と右の頬を伝って寝転んだシーツに染み込んでいく。
「俺、イッシーのこと好きだったのかなぁ……」
中学を卒業して二年半。一度しか会えなくても平気で暮らしてきたくせに、今になって思う。
心の隅っこに予感があったのか、口に出してみたら途端に納得できた。自分の中の別の自分に、あぁそうだったんだね、と投げかける。気づいてあげられなくてごめんね、と。
それは、自分がゲイだと気付いたあの日の感情になんだか似ていた。前々からずっとそこにいた自分にやっと気付くことができた、そんな気持ちだった。
俺は気付く前に失恋していたのか。それも、初恋に。
頭を撫でてくれたときの大きな手のぬくもり、みんなには内緒だぞと言って笑う顔、日直の日だけ行く体育教官室、今の自分へ導いてくれたあの日。走馬灯のように蘇る記憶が、全部初恋の思い出だったのだと思い知らせる。だからこんなにもキラキラしていたのか。淡い、もう二度と経験できない、人生で一番美しい恋だから、まだこんなにも温かい涙が出るのかもしれない。
夜通し泣いたせいでズキズキと痛む頭を抱えて食堂に行った。日曜の朝はいつも人が少ない。
洋食のプレートを受け取って、窓際のカウンター席に座る。目の前の大きな窓の外には、広い海と茅ヶ崎の街が見えて、これから出掛けるらしい寮生が私服で校門を出て行った。
ぼうっと外を眺めながら、スクランブルエッグをフォークの端で刺して口に運ぶ。泣き疲れて空っぽになった頭に、たまごの味が舌越しに伝わってくる。夕飯を食べなかったせいで、お腹がぐぅと鳴った。
「あれ、森川? おはよ~」
背後から声がして振り返ると、派手な色のジャージを着た石原と金城がいた。ほとんど口を利いたこともないのに急に声をかけられて驚いた。返した声が思いの外小さくなる。
「てかさぁ、昨日街のカフェにいた?」
柱から伸びるテーブルに寄りかかって石原が言う。
「男といたっしょ?」
〈男〉という単語に違和感が残る。初恋の人とはいえ、一色との関係は元担任と元生徒以外の何物でもない。〈男〉に潜んだ意味合いは、自分たちのそれととてつもなく距離があるように思えた。
「あぁ、中学の時の担任だよ」
「うっそ~! 絶対違うって」
「え? いや、本当だけど」
「ごまかすなよ、森川」
真実で返したのに、勝手に嘘つき呼ばわりで問い詰めてくる。彼女たちの決め付けた答えが出るまで、一貫して嘘ということになるのだろう。なんだか中学時代を思い出す。こういうやつはいつもそうだ。コーヒーを持つ手がわずかに震える。
「誤魔化してないよ。本当に担任だから」
「本当のこと言えよ。彼氏だろ」
「いやいや、そんなわけないだろ?」
悠真が座る椅子の背もたれを握って、金城がぞっとするような単語を吐く。追い詰めてやるという意思が力として込められている手からは逃れられない。
「だって、頭なでなでされてこぉんな風にほっぺ赤くして、目キラキラさせて見つめてたし!」
石原が、しなを作って両手で頬を包みながらパチパチと瞬きして見せる。
「森川ってホモだったんだぁ。やだ、こわぁい」
金城が調子を合わせて言った。不必要に大きな声は、周りにいる生徒にも伝えようという魂胆が見える。
「馬鹿なこと言ってんなよ」
はぁ、と深いため息をついて見せ、席を立った。ガタガタと震えだしそうな手脚を押さえつけて歩く。まだ一口も食べていないトーストが、皿の上を滑るのを無視して、返却口に返すと、食堂を出た。背後から「無視してんじゃねぇよ!」と叫ぶ金城の声がした。
また、冗談にできなかった。三年前見た菊池の横顔が浮かぶ。
石原や金城のことだから、明日にでもこのことをクラス中に言いふらすだろう。中学の時のように噂話として広まるのではなく、邪険に扱われた腹いせに、みんなの前で発表する形を取るかもしれない。それどころか、今頃俺以外を入れたチャットグループを作ってそこで発表しているかもしれない。
また頭がズキズキと痛み出す。昨日から悪夢を見ているような気分だ。この週末は一色に会えるハッピーな週末のはずだったのに、もう厄日というしかない。
明日にはきっとふたりの耳にも入るだろう。しおれたふたりの顔が浮かぶ。優しいふたりなら気を遣って一緒にいてくれるかもしれないが、巻き込む方がもっと嫌だ。どうやって距離を置こうか思案する。
一緒にいたこの夏のこと、夢みたいに思うのかな……。ふたりの笑顔を思い出すと、目頭が熱くなった。本当に最悪だ。
一色が見つけてくれた新たな道さえも封鎖され、絶望感より先に虚無感が広がった。俺は何も手に入れられない運命なのだろうか。
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