8-1

廊下では小さく点呼の声が聞こえる。門限の八時になったから、寮長が全員揃っているか確認して回っているのだ。この部屋はすでに点呼は終えている。

机に置かれた進路希望調査票を眺める。三年前はあれほど迷い苦しんだ調査票を、もらってすぐに第三希望まで埋めた。

あの頃、こんな風に友だちと呼んでくれるふたりと出会って、ふざけあったり笑い合ったりしながら、夢を追いかける日々が来ることを想像できただろうか。

悠真は、受験前だというのに、あの日から遡って今が一番穏やかだなと思った。満ち足りた胸を手で包む。手の熱がTシャツを介してじんわりと心臓をあたためた。

イッシーは、今の俺のこと、想像できてたのかな。

そういえば、うちのクラスには天空島高校を受けるやつはいないと言っていたけれど、栄や凛が受けることは知っていたのだろうか。確かにふたりは同じクラスではなかった。入学したときは嘘つきと恨んだけれど、結果的にはこうやってふたりが俺の孤独を打ち破ってくれたのだから、感謝しないといけない。


土曜日に一色と会う約束をしている。

何かを察知したかのように一色から連絡が入り、用事があって天高に行くからお茶でもしようと言うことだった。土曜日なら、栄は部活だし、凛は家に帰っているからいない。少しの後ろめたさを秘めながら、ひとりで会うことにした。ふたりにとっても一色は体育の先生であり、栄にとっては部活の顧問、凛にとっては二年の頃の担任ということになるが、子供じみた独占欲もあったし、ふたりに遠慮して話せない気がして嫌だった。一色と会うなら二人きりがいい。

土曜の昼過ぎに、一色は天空島高校にやって来た。用事が済んだというので校門のところまで迎えに行く。見慣れた二つの影が向かい合って何か話していた。

「あれ、森川どうしたの?」

倉橋がきょとんとした顔で出迎えた。一色の訪問に備えてか、平日なら着ていない薄手の夏用ジャケットを羽織っている。中に着た白いポロシャツに比べてだいぶくたびれているから、咄嗟にロッカーから引っ張り出してきたのかもしれない。

「今、悠真たちの話したんだよ」

一色が白い歯を見せて笑う。久しぶりに見た笑顔は、相変わらず季節にマッチした太陽の色をしている。

「なんかイッシーと倉橋先生が話してんの変な感じ」

新旧担任教師が揃い踏みで、なんだか照れくさい。

「森川からしたらそうだよな」

「あれ、栄と凛は?」

ふたりが来ないことは黙っておいたせいで、一色がキョロキョロと辺りを見渡している。

「栄は部活。凛は今実家に住んでるんだよ」

「あぁ、そうだったのか。なんだ、お前言えよぉ」

言ったらまたの機会に、と言われそうで怖かった。そんなの嫌だ。

「忘れてた」

「まぁいいや。じゃあ行こうか。倉橋先生、今日はありがとうございました。これで失礼いたします。来年の件はまたご連絡しますね」

「はい、お願い致します。森川も明後日ね」

「はい。じゃ」

そっけない態度をとる悠真の頭を一色がぐっと押してお辞儀させる。まるで母親のようだ。焼けそうに熱い黒髪に、一色の大きな手が被さる。そこだけ熱が冷めるような、それでいてぬくもりだけが伝わってくるような不思議な感覚に陥る。顔を上げると、一色がまたニカッと歯を見せて笑った。

うん、イッシーだ。全然変わってない。


「悠真と会うのいつぶりだ?」

一色が目の前でアイスカフェラテをストローで啜った。隙間が変わったせいで、氷がからんと音を立てる。

「たぶん、二年ぶりくらいかな。一昨年地元に帰った時、スーパーで会ったよね」

「あぁ、あったな、そんなこと!」

「うん。一瞬だったけど」

もう他の生徒の担任になっている一色を見たくなくて、卒業以来中学に遊びに行けずにいたから、久しぶりに会えたことがものすごく嬉しかった。

「夏休みだったか?」

「そうそう」

氷ばっかりのクリームソーダを一口飲むと、甘くてしゅわしゅわと口の中で弾けた。久しぶりに飲んだ。人生がどんよりと暗くなってから、なんとなくこういう明るい飲み物は飲まなくなったせいで、少しだけ懐かしさみたいなものも混じる。

「あ、そういえば、最近栄や凛と仲良いらしいなぁ」

倉橋から聞いたのか、一色が嬉しそうに言った。

「うん、まぁね」

もう栄や凛の話になるのか、と心の隅が陰る。

「イッシーは、あの時からふたりが天高受けるって知ってたの? 進路調査の紙見ながら放課後に話したとき」

今日会ったら聞きたかったことだ。

「あぁ、あれね。実は俺、凛が受けるって聞いて天高の存在知ったんだよね。職員会議で話題になって。でも、凛がいるって聞いたら、誰もいないところ行きたいっていう悠真の願いは叶えられないし……。でも、凛なら良かったろ?」

些細な落胆を感じつつも、意外な言葉に驚く。

「凛と俺は仲良くなれると思ったってこと?」

「そうそう。全然別だけど、悩みの重さが同じ感じがしたし、なんとなく考え方も似てる気がしたから、仲良くなれるかもなって。変に達観してるというか、諦めてるというか……お前らそういうところそっくりだからな」

一色がしたり顔でこちらを見る。

そんなこと考えたこともなかった。俺たちは似ていたのか。

「でも、そこに栄が入ったのは意外だったけどなぁ。まぁでも、あいつも母子家庭で苦労してるし、いつも人のことばっかりだから、たまにはわがまま聞いてやってくれよ」

一色が、頼んだぞ、と頭を撫でた。今日二度目のはずなのに、髪に触れる手の熱が脳にじぃんと響く。やっぱりイッシーはすごい、と思った。俺たち三人のことを本当によくわかっているんだなぁと。もし三人の恩師を挙げるとしたら、間違いなく一色のことを言うだろう。

「先生って何でもわかるんだね」

「いやいや、わかんねーよ。今のやつらなんて、お前らよりジェネレーションギャップあるからな。おじさんしんどいよ」

急に老人のような顔をしておどけて見せる。

「でも、俺中学の時凛や栄と仲良くなるなんて夢にも思わなかったし、高校入ってからも中学の奴らがいて最悪だって思ってた。凛も栄も何も悩みがない呑気なやつらって思ってたから」

「あいつらは隠すのがうまいからなぁ。悠真もだけどさ。辛い時に辛いってことを大っぴらに言えない三人組だよ」

一色が頼んだケーキの先をフォークで刺して一切れ口に放り込む。豪快でありながら清潔感のある咀嚼は昔と全然変わっていない。

「俺、今三人でいれてうれしいよ。凛のことは守ってやりたいと思うし、栄にはいろいろと感謝してる。俺たちこの夏の研修まで全然話してなかったんだ。同じクラスにいただけで、深い話をして来なかった。俺なんて挨拶さえしてなかったよ。誰も俺の苦しみなんてわからないし、いろいろバレたら高校生活も終わるって思ってたから……。でも、ふたりはバラすことも、俺をいじめることもしなくて。研修のとき、三日間一緒に清掃をやったんだけど、そのときいろいろ話して、そこから仲良くなって……。だから天空島に来て本当に良かったって思ってるよ」

自分で言いながら、凛や栄も一色に対して同じように思っていたかもしれないと思った。同じように感謝を伝えたかったかもしれない。今になってふたりに知らせなかったことを悔いた。知らせても来れなかったかもしれないが、それでも言わないよりマシだ。仲良くなった三人を一色にも見せたかった、とも思った。

「悠真、昔に戻ったなぁ。いや、昔とも違うか。変わったわ。中三の時と全然違う。誰もいないところに行きたいとか言ってたと思えないよ」

一気に話した俺を見て、一色の目が少しだけ潤いを増した。少し茶色い瞳がつるんと光る。

「新天地で生まれ変わってくれたらって思ってここを勧めたけど、ほんと良かったわ。全然顔つき違うもんな」

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