7

悠真に起きた異変に、俺たちはすぐに気づくことができなかった。

週末を目前になんだかいつもと違って少しだけ陽気な悠真は、それを指摘すると、思わず緩む頰をかき消すみたいに、オーバーにツンとして見せた。「デートかぁ?」なんて突いてみても、「は? 何言ってんの」なんて取り付く島もない。

きっと週末に何かあって、それに浮かれてるに違いないから、週明けに凛と一緒に問い詰めてやろうなんて思っていたのに、いつの間にか連絡が付かなくなっていた。

確かにくだらない話で回っていただけのチャットだったが、いつもなら何かしら返してくれるはずだ。

「悠真、今日休み?」

朝のホームルームが終わって、凛が後ろの席を指さして言った。眉が八の字に傾いている。

「わからん。朝も食堂で会わなくてさ」

朝練があるから朝食を一緒に摂ることなんてほとんどないせいで、気に留めていなかった。

「チャットもずっと反応なかったしね。連絡してみよっか」

凛がグループチャットにメッセージを打ち込む。

『悠真、今日休み?』

相変わらず反応はない。

「どうしたんだろう……。寝込んでるとか?」

土曜日に部屋に行ったときのことを思い出す。

夕飯の時間になったから、いつものように悠真の部屋に迎えに行った。放っておくと夕飯までカップラーメンや菓子パンで済ませようとするから、なるべく一緒に食べるようにしている。ただでさえ貧弱なのに、残暑が厳しい今にまでそんな生活をしていたら、そのうち倒れそうだ。

「悠真、夕飯食いに行かねぇ?」

しばらくの沈黙のあと、もう一度ノックをすると、ギシギシとベッドが軋む。

「栄? 俺、今日飯いいや……」

寝起きのような間の抜けた声がドア越しに聞こえてくる。

「食わねぇの?」

「うん、食欲ない……」

「具合悪い?」

「んー、ちょっと頭痛くて」

「そっか。薬飲んでゆっくり休めよ」

「うん、ありがと」

いつも必ず開けてくれるドアが、その時は開くことはなかった。



俺たちは、返事のないグループチャットを眺めながら、休み時間ごとに話し合った。心配しすぎな気もするし、でも何かが起こってからでは遅いんじゃないかとも思う。得体の知れない不安が押し寄せて、どうもじっとしていられなかった。

あれほど頑なに拒んでいた昼食もふたりで一緒にとると言って教室を出る。悠真がいるかもしれないと、校舎と寮を繋ぐ位置にある食堂にも行ってみたが、姿は見えない。数人でランチを取っているグループや、ランチミーティングで集まっている部活なんかがパラパラといるだけで、寮生が集結する夕飯時ほどの賑わいもない。

向かいで凛が、左手にガジェットを握ったまま、小さな弁当箱からおかずを摘んでは口に運んでいる。鮮やかな配色と凛の顔色が不似合いで堪らない。凛が握るプラスティックの箸が、ピラフに入ったグリンピースを器用に弁当のふたに移動させている。

「それ、食わないの?」

「グリンピース嫌いだもん」

「んじゃここに入れな。俺が食う」

食堂のおばちゃんが作った大盛りのかつ丼を凛の前に差し出す。

「うん、じゃあ……」

黄色しかなかった牛丼に彩りが加わった。

「えー、なんかラブラブじゃ~ん」

突然頭上から降ってきた意外なワードに思わず眉間にしわが寄る。見上げるとカルボナーラの乗ったトレイを持った石原愛佳と金城瑠亜が立っていた。三年のカーストトップを自称するふたりだ。石原が偉春を狙っているせいで、何かと接触は多いが、実は少し苦手だったりする。濃い化粧が張り付いた二人の顔が、ニヤニヤと笑う。

「もしかして、ふたりってそういう感じ?」

わざとらしく目を見合わせて言う。

「は? そういう感じってなんだよ」

「だーかーらー、付き合ってるんでしょ?」

制服に不似合いなボルドーの口紅がギラギラといやらしく光る。

「え、違うよ! 本当に違うの! そういうんじゃなくて!」

凛が必死に両手を振る。確かに違うが、あまりに強烈に否定するものだから、逆にわざとらしい。きっと凛の頭の中でカースト不可侵のアラートが鳴っているのだろう。

「だから最近仲良かったんだぁ。え、松上から告ったの?」

彼女たちの中でカースト上位の俺が下位の凛を好きになるという構図が見えないのか、端から決めつけている。視認性がほとんどない疑問符が現れた途端にすっと消える。凛も凛で、「本当に付き合ってないって!」と、その偏見をすんなりと受け入れて、ただ首を振った。

「あぁ、だから森川はあっち行ったわけ?」

石原が、ぽんと閃いたように言う。

「まじかー。つらー!」

何某かを知っているらしい金城も乗っかる。

「あっちってなんだよ」

自分でも信じられないほど冷たい声になった。

「だから、あっち?」

金城が右手を左の法令線に添えた。

「いや、やり方ふっる!」

石原が金城にツッコミを入れて、無邪気に笑う声が周囲に響いていたが、それに反して、俺と凛の顔色は真っ青になっていた。

「一昨日さ、街で見たんだよね、うちら。大人の男と二人でお茶してんの。雰囲気いい感じで、森川なんて顔赤くして、好き好きぃみたいな顔して見てるし、あれ絶対彼氏だって!」

「あんたら知ってんじゃないの? 森川と仲良さ気じゃん」

「は? なんのことだよ」

声の端っこが少し震えた。でも実際何のことかわからない。土曜はいつも通り部活に行ったから、悠真が誰と何をしていたのか知らない。

「だから、彼氏のことだってぇ。二十代半ばくらいで、ガタイ良くて、短髪で、けっこうイケメン?」

「うちら気になったから、森川に聞いたわけ。あれって彼氏なん? って。そしたら、無視するから、うぜぇって思って、森川ってホモだったんだぁって言ったら、急にここ飛び出して行って」

「まじキモかったよねぇ」

俺たちは寮の悠真の部屋に向かった。荷物も、弁当も、石原と金城も全部その場に置き去りにして駆け出した。

昼休みはあと二十分ある。悠真の部屋に十分はいられるだろう。なんなら授業くらいサボってもいい。

気持ちが逸って足がもつれそうなくらい早歩きになった。背が小さいせいか、後ろを追う凛はほとんど走っているような状態だ。階段を駆け上がると息が上がっていた。

「悠真、大丈夫かな」

凛が肩で息をしながら震えた声で言う。

石原と金城の話を聞いた瞬間、中学の頃の悠真が過ぎった。その頃はクラスも違ったし、特別な間柄ではなかったから、ついつい見て見ぬふりをしてしまったけれど、悠真にどんな噂が流れて、どんな扱いを受けていたかくらいは知っている。

悠真の部屋の前に着くと、コンコンコンと三度ノックした。ドアの向こうに学ランを着てうずくまっている悠真の影が浮かぶ。あの頃に引き戻したくない。

もう一度、コンコンコンとドアを打つ。骨が響いて、さっきよりも鮮明なノック音になった。

「悠真ぁ。いないの?」

凛もドアをノックしてみる。返事はない。

「いないのかな……」

「おい、悠真! いねぇのか? いるなら返事しろ!」

今度は拳を打ち付けてドンドンと叩いた。

「待って」

凛が悠真のガジェットに電話をかける。

ドアに耳を当てると、中で着信を知らせる電子音が鳴っていた。

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