5-4
「凛、は広報の研修受けるのかと思ってた」
カゴの溝に嵌ったモップの柄を上下に動かしながら栄が言った。二日目の帰りに「下の名前で呼び合おう」と提案したのは栄だ。張本人のくせに、なんだかんだ辿々しい。
「あっ、でも三週目は広報に行くつもりだよ」
「絵うまいもんなぁ」
「一応、元美術部だからねぇ」
栄と同じようにモップの柄を上下する。精製水が浸みたモップは、想像よりずっと重い。体重をかけて動かしているのに、栄や悠真に比べて可動範囲が極端に狭くなってしまう。大柄な栄なんて全然辛そうじゃない。
「悠真、は次どこ行くの?」
ほとんど話したことがないせいで、凛もやっぱり辿々しくなってしまう。
凛は男子を下の名前で呼ぶことも、ましてや呼び捨てにすることもしたことがない。仲良くなってもないのに呼び捨てなんてめっそうもない、そう思ってしまう。けれどきっとそれは、栄にとって仲良くなるためにする儀式みたいなものなのだろう。仲良くなったから呼び捨てにするのではなく、仲良くなるために呼び捨てにする。呼び方は距離感を定める尺度だ。親しみを込めた呼び方をしていれば、距離は自然に近づく。だから、お互い呼び捨てにしようと言うのは、栄にとっては「あなたと仲良くしたいと思っていますよ」と宣言することと同じなのだろう。だから凛はちゃんと呼び捨てで呼ぶことにした。
「あぁ……俺は来週がそこ」
「あ、俺も来週広報!」
満面の笑みで言う栄に、悠真が「へぇ」と気のない返事で応える。モップの可動域も合わせて狭くなった。きっとこれは、興味のないふり。
「栄はどの部署に入りたいの?」
「う~ん。俺は、営業か広報かなぁ。勉強イマイチだから、理系の部署は無理だし」
精製水のタンクから水を引き上げながら言う。出す量が多すぎてモップの先からだらだらと水を滴って、その水が遥か先の海面へ落ちる。時間差で叩きつけられる音が聞こえた。
「悠真は?」
「俺は理系に行くつもりだよ。できれば開発。給料もいいしね」
やっぱりこっちを見ずに気だるそうにモップを動かしている。そのくせちゃんと答える悠真に、凛はふむと思った。
「金かよ~」
「金、大事だろ」
「そりゃそうだけどさ。ロマンなくね?」
ロマンなんて単語、悠真からはかけ離れ過ぎている。悠真ならお金を理由に職を選ぶ方がきっと彼らしい。
「悠真は、結構金の亡者なわけ?」
「いや、そこまでじゃないけど。手に職つけて、早く自立したいから」
「え? なんでまた」
栄が、平和を象徴するような曇りのない瞳で問う。
「なんでって……俺のこと知らないの?」
つまりは、いじめられていたから、ということだろうか。
凛は、学ラン姿の悠真を思い出す。
いつの間にか標的にされていた夏の日。
下駄箱の近くのゴミ箱に落ちていた上履きに書いてあった森川の字や、ひそひそと彼の噂話をするクラスメイト、廊下の窓から落とされた学校指定のカバン、それを笑う男子、無表情で階段を下りていく姿、違う窓から見下ろしたカバンを拾い上げる彼、土と落書きで汚れた教科書、それを叩く手、無表情で教室に戻る横顔。全部やけに鮮明に覚えている。いじめを目の当たりにしたのはあれが初めてだった。
友達が「かわいそう」とつぶやくのを聞きながら、泣かないなんてすごいなぁとぼんやり考えていた。助けには行けなかった。足が床に張り付いて動かなかった。
「どうせ知ってるだろ、俺がやられた理由。同じ中学なんだから」
悠真がいじめられていた理由は、翌日知った。お昼ご飯の時に、友達がおしゃべりのネタの一つとして取り上げた。
「隣のクラスの森川くんがいじめられてるのって、ホモだからなんだって!」
そう言った。他の子が「今はホモって言っちゃダメなんだよ。ゲイって言うの」と続ける。道徳の授業で習った。
学ラン姿の悠真の顔が頭に浮かぶ。女の子になりたいわけじゃないのかな。人よりちょっとだけ長い前髪が、本当に真っ黒で、絵の具の黒よりずっと黒い。背だって伸びきってないから自分とあんまり変わらない。だけど昨日見た彼からは女々しさなんて感じなかった。ちゃんと男の子だった。凛は、あんなに男の子なのに、男の子が好きなんだ、と思った。
別に大したことでもないという風に、モップを上下しながら高校生の悠真が言う。
「俺みたいなやつは、世間から爪弾きにされる運命なんだよ。だったら、特別な能力を得て居場所を毟り取るしかないの。研究とか、あわよくば開発なら給料とか待遇もいいし、実力の世界だろうし、そこまで他の人たちと絡む必要もないから都合がいいわけ」
唇の端に少しだけ不機嫌さを残した横顔が、もういいだろ、と告げている。
「栄はスーツ似合いそうだし、悠真の白衣姿もすごい想像できるなぁ!」
場の空気に耐えられなくて、明るく言う。ちょっと無理やりだっただろうか。
頭の中で、白衣を着て難しい機械をいじる悠真と、スーツを着て太陽みたいに笑う栄を想像してみると、なんだか本当にしっくり来た。様になっている。ふたりが選んだ道は、どちらもすごくお似合いだ。
「凛も広報もすごい想像できるよ。祭の時の絵もいい感じだったし!」
いつもなら切り返しの得意な栄も、慌てたように乗ってくる。
毎年秋になると、天空島高校を中心に島全体で行われるソラフェスのことを言っているのだろう。
「いやいや、全然だよ、あんなの」
褒められ慣れていないせいで、つい否定してしまう。悪い癖だと思うが、やっぱりありがとうだなんて瞬時には返せない。知ってか知らずか、栄がへろへろと落ちていくボールをぽーんと空までレシーブしてくれた。
「あんなのじゃないよ。ほんとよかったって! うまく言えないけど、惹かれるものがあった!」
「俺も、あのデザイン結構いいと思ったよ」
まだ残る不機嫌さを緩めて、悠真が高く上がったボールを優しいレシーブで腕の中へ落としてくれる。
「あ、ありがとう」
今度は上手く返すことができただろうか。
去年描いた、水彩の空に雨粒の水滴を散りばめた絵を思い出す。自分の中の暗い暗い天空島のイメージを払拭したくて、泣けるくらい美しい青空を、と描いた思い入れのある絵だ。朝日を描きたくて、まだ誰も出歩いていない早朝の島を散策した。歩き回って見つけた場所は、茅ヶ崎の街が見えない、空と海と、そして一面に咲く赤い花が美しい草原で、その絵を校門の前に飾ると、来場者がこぞって写真を撮ってくれた。
「でもわたしは、開発に入らないといけないから意味ないよ」
今の時点で学年でも下から数えた方が早い凛が、開発だなんて身の程知らずも甚だしい。
「いけない、ってなんで?」
「うち、父親が開発部に勤めてて、開発部に入るのが当然って考え方だから。優秀な自分の子どもが開発以外に入るなんてありえないって思っててさ」
脳裏に、開発の研修に入れなかったことを報告したときの雪彦の顔が過って、つい隠していた棘がむき出しになる。
「研修の選抜結果報告したときも、暴れちゃってひどかったよ」
夕飯のあと、リビングに呼び出されたので報告すると、噴火した火山みたいに顔を赤くして怒鳴り散らし、テーブルにあったものを全て床に叩き落とした。「何のために天空島高校に行かせたと思っているんだ!」と叫ぶと、テーブルに残したままだったガラスのコップが床に落ちて割れた。成績を見せるといつもこうだ。自分の思い通りにならないと、キレて当たり散らす。
凛が正解なんてないこの状況に、「だって……」と届くかわからないほどの声で応えると、次は凛の髪を引っ張って床に叩きつけた。
これがDVでなくて、何がDVだろう。引っ張られた髪の根元や打ったひざの痛みのせいなのか、この状況が嫌すぎてなのかわからないが、とにかく涙が溢れた。
キッチンで片付けをしていた理恵子が風呂掃除をするために部屋を出て行く音が聞こえる。こういうとき、彼女はけして助けてはくれない。自分が今日選抜結果が出たことを夫に告げたくせに、すぐ逃げる。
そのあと一時間以上、雪彦は怒号を飛ばしていた。ネチネチ、ネチネチ。段落の最後に必ず「お前のためを思って言っているんだ」と付け加えながら、終いには「誰の金で今の生活があると思ってるんだ」など論点はあらぬ方向へ飛んでいく。
結局のところ、娘が本質的に成長することよりも、自分のものさしでどうか、という点しか見えていないのだ。娘の将来が光に満ちたものになるかどうかよりも、自分のプライドが満たされるかどうかが最重要項目。彼にとって、子どもはそれを満たす道具でしかないのだろう。そうでなかったら、理系科目が一切ダメで、絵が得意な娘に対して開発部に行けと言うはずがない。それはあまりにも脈絡のない唐突な要求だ。
「でも、凛が開発に行くとか、ある意味宝の持ち腐れじゃね? せっかく絵うまいし、絶対広報の方がいいよ!」
「てか、凛って頭いい印象ないけど、親は知らないの?」
「え、悠真ひどくね?」
「でも実際下から数えた方が早いよ」
悠真のあまりに率直な物言いに、思わず笑みがこぼれる。栄も、「悠真、超冷徹人間だわ、マジで」と茶化した。
「親がなんて言おうが、凛は広報に行けばいいよ」
「そうだよ。俺も応援するよ!」
「うん、ありがとう」
凛は、「あ、もう水ないや~」と言って、カゴの中に潜った。本当はまだ追加する必要なんてないのに、視界が涙で埋まってしまったから、「あ、やばい」と思って咄嗟に隠れた。精製水のボタンを押すと頭上で支えていたモップの柄がぐんと重くなる。目をぎゅっとつぶって涙を床に落としてしまってから、作業着の裾で拭って顔を上げた。
「うわ、これカモメの糞? マジ取れねぇ! まさに、しつこい汚れ!」
カゴから顔を出すと、栄はもう全く別の話で騒いでいた。ふたりともこっちを見ていない。
「もう固まってんじゃん。これ水じゃ取れないんじゃない?」
悠真も装置にこびりついた白い塊をモップで擦ってみる。
「え、じゃあ放置?」
「戻ったら洗剤ないか聞いて、明日やればいいだろ」
「あ、そっか。うん、そうしよう」
凛はモップを上下しながら、このふたりともっと仲良くなりたいと思った。
今までの友達とは違う。もっと深い所で繋がれる気がした。この関係が、教室に戻っても続きますようにと願いながら、ふたりのやりとりに笑っていた。
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