4-4
次の日は学校を休んだ。休んでしまえば冗談にするチャンスをさらに失い、完全に認めることになるということもちゃんと理解はしていたけれど、あの瞬間の教室が脳にちらついて、怖くて起き上がることができなかった。
このまま引きこもりになって、この部屋だけで暮らそうか。義務教育なんだから、中学なんて行かなくたって卒業できる。ネットを使った仕事に就けば、人と会わずに生きていけるかもしれない。
「俺、どうなっちゃうんだろう……」
泣きすぎたせいでズキズキと痛む頭を枕に埋めて唸る。一晩分の涙が染みて、カバーはしわしわに萎れている。
「ゆう、具合どう?」
ドア越しに母の声がする。
「うん。頭痛くて……」
「もう昼だけど、ごはん食べれそう? おかゆ作ろうか?」
昨日の夜、具合が悪い、頭痛がする、と言って学校を休むことにしたので、風邪だと思ったのだろう。その声はいつもより何倍も優しく、今日が何でもない一日ではないことを告げている。
「うん……」
「じゃあ、作るから下おいで」
タン、タン、タン、とスリッパが階段を下りていくのが聞こえる。
たぶん、このまま引きこもりになったら悲しむだろうな。近所の目を人一倍気にするから、息子が不登校の引きこもりになんてなったら、寝込んでしまうかもしれない。ましてや、ゲイだなんて知ったら、世界の終わりみたいに沈んでしまうだろう。受け入れるどころではない。うつ病にでもなってしまいそうだ。
ベッドに寝転んだまま天井を眺める。やっぱりあの日と同じ凹みがある。閉じたままのカーテンの隙間から、風に揺れる木漏れ日が差し込んで、壁をキラキラと照らした。時々部屋の角に当たっては、天井に入ったり入らなかったりして、永遠に揺れる不安定な光だ。
さっきまで触れると涙の跡がベタベタしていた目元が、それすらも乾燥して固まってくっ付いている。目元は熱いのに手はひんやりと冷えて、触れると気持ちが良い。
階下から呼ぶ声が聞こえてリビングに下りると、小さな土鍋がダイニングテーブルに置いてあった。お椀やレンゲと一緒にプラスチックのお盆に乗せられている。
「ねぎ乗せる?」
冷蔵庫から万能ネギを出しながら美優紀が声をかける。
「うん、乗せる」
「ん」
母の立てる包丁の音を聞きながら、土鍋の蓋を開ける。たっぷりの湯気とともに、あつあつのたまご粥が現れた。嗅ぎ慣れた出汁の匂いが鼻を通り抜け、精一杯それを吸い込む。肺を満たすたまご粥のにおいが、とてつもなく現実的で、日常と何ら変わりなくて、悠真はまた泣きそうになった。
あち、と声を漏らしながら少しずつ口に運ぶ。生まれてからずっと食べ続けている母の味は、絶品なんて豪勢な言葉は不似合いだけど、まるで幼い自分が母に抱き締められているように底なしに優しかった。
「はい、ねぎ」
まな板に乗せた千切りのねぎが、包丁に押されてぽろぽろと土鍋の中に落ちていく。まな板に引っかかった何粒かは悠真の左手のお椀に入れられた。
「あと、薬ね。水も」
もくもくと匙を進める悠真の前に、水と二錠の頭痛薬を置く。
きっと泣いてたの、気づいただろうな。顔が腫れぼったいのは鏡を見なくたって感覚でわかる。それを見て、息子に何かが起こったことくらい、母親が気付かないはずがない。何も聞かない優しさが今はありがたかった。
クーラーに当てられて徐々に静まっていく湯気や、息を吹かなくても食べられるようになっていく粥の熱を感じながら、頭はだんだんと冷静になっていく。
きっと明日は学校に行ったほうが良いんだろうな。もしかしたらいじめられるかもしれない。嫌がらせをしたり、冷やかしたりしてくる奴らもいるだろう。根拠の薄い噂話が、確定に変わった。きっと具体的な何かが始まる。
それでも、このまま引きこもりになったって、それを自分が、この家族が受け止められるとは思えない。きっと光なんて見えないまま、ずぶずぶと闇落ちして終わりだ。
明日学校に行くか、行かないか、この選択が一生を左右する。
もしいじめられたってそれが死ぬまで続くわけじゃない。我慢していればいつか収まる。きっといつか、なんとかなる。そう信じて我慢するしかない。
たまご粥が食べ終わる頃には、悠真は明日学校に行くことを決意していた。怖いけど、死ぬほど怖いけど、引きこもりになってから人生をやり直すことの方がよっぽど怖い。そう自分に言い聞かせて。
案の定、次の日の朝には悠真を取り巻く環境はすっかり変わっていた。
家を出て、スクールゾーンに入った辺りで、周りを歩く同級生の視線がべったりと張り付くようになった。もしかしたら他学年の生徒も混ざっていたかもしれない。周囲の会話が全部自分のことのように聞こえ、笑い声さえ悪意に満ちて聞こえる。
ストレスで胃に穴が開きそうだ。なんならもう開いているかもしれない。胸の真ん中から背中まで貫くようにキリキリと痛んだ。
教室に入ると、空気はさらに悪化した。まるで森川悠真はこの世から消えた、というように誰もこちらを見ない。挨拶なんて声を発する前から拒否されているようだ。
一番うしろの窓際の席だったおかげで、視線を浴びながら教室を横断する羽目にはならなかったのは、不幸中の幸いだった。夏なのにすっかり冷え切った両手を握りしめて、机に突っ伏した。耐えろ、俺。
夏休みまでの1ヶ月と少しは、ひたすら無視されるだけで済んだ。元々口数が少なかったから、話をするのなんて菊池、斎藤、清原くらいのものだったし、無視されるのはそのうち慣れていった。教師の方も空気を読んだのか、グループワークを授業に取り入れることはしなかった。触らぬ神に祟りなしだ。もしかしたら、親が乗り込んでくるのを恐れていたのかもしれない。
問題は、夏休み明けだった。
新学期が始まって、続々と実力テストの結果が返ってきたある日、休み時間にトイレに行って教室に戻ると悠真の机は荒らされていた。
「……え。」
学期はじめの席替えでさえ仕組まれたように動かなかった自分の席が列を乱すように斜めに置かれ、椅子は横向きに倒れている。机の中に仕舞ってあったはずの教科書やノートは床一面にばら撒かれ、教室後方を塞いだ。
「不審なものを持ってないか、手荷物検査させていただきましたぁ」
クラスのリーダー格の男子生徒がケラケラと笑って言った。教室の真ん中に立つ彼を中心に、明確なカーストが浮かび上がる。他の生徒は怯えるように、そっと視線をずらしている。その中には血の気の引いた顔で様子を伺う菊池たちもいる。
「ほら、こっちも見てやるよ」
近くにいた男子生徒が悠真のカバンを軽やかなステップで取り上げ、廊下に駆け出した。続いてバサバサバサと音を立てて、中身が窓外に落下する。
「これでよく見えるなぁ」と、嫌な笑みを浮かべた彼が言うと、一連の出来事を見ていた他クラスの生徒にまで緊張感が伝播した。階下から聞こえる二年生のお気楽な話し声以外、この廊下には何も聞こえてこない。
悠真の内心は、驚きや悔しさよりも、やっぱり来たか、という思いの方が強かった。無視される程度では、いつかきっと済まなくなる。そんな予感はどこかでしていた。現状維持をできるだけ長引かせて、どうにかなる前に卒業できればと考えていたのだ。
それでも、上の方のやつらのテスト結果が芳しくない様子を見るにつけ、もしかしたら間に合わないかもしれないという焦燥感を募らせていた。
悠真は、ふぅと一息ついてから、何でもない顔で床に放り投げられたカバンを拾い、階段を降りた。二階、一階と降りるたびに自分とは無関係な生徒の明るい声が脳に響く。外に出ると、何があったんだろうと上を覗き込む下級生たちが、怯えた目でこちらを見ていた。
なんかごめんね、と心の中でつぶやいてから、落とされた荷物を搔き集める。
「痛っ」
指先にチクリと何かが刺さって中を覗くと、粉々に割れたガジェットがカバンの底で息絶えていた。
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