4-1
「あれ、悠真まだ残ってたのか?」
西日に染められた教室に、引き戸がレールを通る音がして、担任の一色が現れた。
「イッシー」
「こらぁ。一色先生と呼べぇ」
誰がつけたか、二十五歳の若い教師は、あだ名で呼ぶたびにこの定型文を繰り返す。
「何やってんの?」
「あ、うん……」
着古したジャージのポケットに手を突っ込んで近づいてくる。授業で汚したのか、肩にうっすらと土を擦った跡があった。
机の間をすり抜けながら「こんなところに置いてあったのか」と、机の上に置き去りにされたままの日誌を拾い上げる。
「調査票かぁ……行きたい高校とかないの?」
友人と話すときのように一つ前の席に横座りすると、机の上に白紙のまま置いてある進路希望調査票を覗き込んだ。中学も三年になると、自分で未来を決めなくてはならなくなる。
「うん、迷ってる……」
「悠真はそんなに成績も悪くないし、東高とかでいいんじゃないか? なんか特別にやりたいことでもあるなら工業とか商業とかもあるけど」
「う~ん。わかんない。ただ……」
東高に行けば、アイツらがいるかもしれない。
「……知ってる人が誰もいないところに行きたいなぁって」
高校進学が、今の人間関係をリセットするためのまたとないチャンスであることはわかっていた。家から通える範囲内にある高校には、きっと少なからずこの中学から進学する人間がいて、その人間から口移しで噂が広まり、伝染病のように変わっていく周囲の態度に、三年間晒されるのは目に見えている。
「じゃあ、学区外に行くとか? 寮生活とかになるだろうけど、そういうところなら知ってる人なんていないんじゃない?」
「え?」
「あるだろ、ほら。茅ヶ崎の方に。天空島高校って。あそこなら公立だし、そんなに授業料も高くない。天空島研究所の職員になるための高校だから、もし興味なかったら大変かもしれないけど。とりあえず調べてみな。少なくともうちのクラスのやつらは行こうと思ってるやついないと思うし」
意外な提案だった。遠い街での一人暮らしは十五歳の自分にとって無謀な選択肢で、きっとどんなに迷っていても結局はここから離れられないと頭のどこかで悟っていたから、寮というのは思いつかなかった。確かに公立で寮生活なら、親に迷惑をかけずにこの地域にこびり付いた人間関係から逃れられるかもしれない。
「……うん。そっか。そうだね」
「職員室にパンフレットあるから持ってく? 親御さんとちゃんと話し合って決めろよ」
「うん……」
ずしりと重量感のある手が頭を包んで、わしわしと撫でた。あたたかくて、力のある大人の手だ。
教室から出て行く一色の背中を眺めながら、撫でられた髪に熱が残っているのに気がついた。指で髪に触れると、その熱がそっと指先を包む。しばらくその熱は残っていた。
この閉鎖的な町から離れたくないという思いもどこかにあった。中学に上がった頃にはあった平凡で、しかしあたたかい人間関係が、今この手に一切なくなっているとしても、この土地を離れてしまえば一色には会えなくなる。それは、砂漠をどれだけ歩いていても一向にオアシスにたどり着けないような辛さがある。あとこれだけ歩けば、オアシスに届く。それさえわかっていれば、人間は頑張れる。
一色は、悠真が中学に進学するのと同時に赴任してきた新任の体育教師だった。溌剌としていて、新一年生の自分たちと似た輝きを持っていたから、生徒たちにはすぐに気に入られた。それほど運動が得意でない悠真ですら、体育の授業が楽しみになったほどだ。
小学校の延長である男子生徒は、休み時間ごとに彼を遊びに誘い、ませた女子たちは恋人の有無なんかを聞いてははぐらかされていた。
その頃はまだ悠真にとっても「結構いい先生」程度であった一色が、特別な存在になったきっかけがあった。それは三年に上がって、一色が担任を受け持つクラスに配属されてからのことだ。人気者の彼が担任のこのクラスは、他のクラスには羨ましがられ、生徒たちとしても自慢のクラスとなった。彼のおかげでクラスメイトの仲も自然と良くなった。それがある日を境にすっかり変わってしまったのだ。
幼少期から、なんだか変だな、と感じていたことがあった。もしかして、自分は人と違うのかな、と。どこにでもいる普通の中学生だったのに、一体どこでボタンを掛け違えたのか、キラキラと輝いて見えるものが他人とは違っていた。
例えば、もっと話をしたい、もっと仲良くなりたい、もっと一緒にいたい、もっと自分を好きになってほしいと願う相手が、普通ならクラスや部活の女子だったり、近所に住んでいる幼馴染の女の子だったりするはずなのに、なぜか彼女たちに全く魅力を感じなかったのだ。
幸か不幸か、目立つタイプでもなく、顔が特別整っていたわけでも、背が高いとか頭がいいとか運動ができるとか面白いとか、そういった突出した特徴があるわけでもなかったから、周囲に恋愛が及ぶことはなく、まだ自分には早いのだと思って生きていた。
今はまだ彼女たちに感じない魅力も、大人になれば自然と芽生え、いつかはたった一人の選び選ばれた女性と人生を共にするのだろうと、漠然と考えていた。
しかしそうでないんだということに、ある日気づかされることになる。
それは別に大きな事件がきっかけになったわけではない。友だちと雑誌を囲んで「どの子がタイプ?」なんて聞き合っているときに、ふと彼女役としてモデルに寄り添う女の子より、スマートに服を着こなすモデルの方がよっぽどタイプだ、と思った瞬間に、「そういうことなんだなぁ」と悟った。自分は男の人を好きになる人種なのかもしれないなと思ったら、胸の中にしっくりと収まって、今までの違和感に納得がいった。
頭を突き合わせるように雑誌を覗き込む仲間たちを改めて見てみると、教室の反対側に座っている女の子たちなんかより、ずっと恋愛対象として馴染みがいい感じがする。
「悠真はどの子がいい?」
「え?」
「だからどれがタイプかって」
「……あぁ、う~ん。じゃあこれかな」
適当にさっきのモデルの隣に座る大学生風の女の子を指差す。目がくりっとした童顔で、誰にでも好かれそうなタイプだ。ポージングが熟れていないから、本業は学生の読者モデルなのかもしれない。
「悠真はかわいい系が好きなんだな」
「なんかこの子、松上に似てね?」
「わかる! 5年後の松上、垢抜けたバージョン!」
松上凛は隣のクラスの女子生徒だ。ほとんど話したことはないが、見た目もそれなりに良く、いつも笑っていて好印象だから、特にモテるわけではないが、男子からの評価も悪くはない。
「悠真の好みは松上かぁ。あいつ彼氏とかいないと思うよ。悠真狙っちゃえば?」
「いや、話したことないし、ないって」
「え~! 関係ないって。悠真ならいけるよ!」
好きでもないのに、何がいけるのかわからないが、それ以来グループ内では松上凛が好みのタイプということになった。
松上には悪いが、それは便利な隠れ蓑になった。どうせ本当の好みなんて言えないのだから、松上だろうが誰だろうが別に構わないのである。その上で、松上は特筆するような個性もない一般的な女子だったので、悪くない相手だった。
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