3-1

トイレから戻ると、頭上で予鈴が鳴った。気付いていないように話を続けるクラスメイトの隙間を縫って席に着く。

教室の真ん中でわっと歓声が上がり、輪の中心で田井栄が他の男子の頭をぺちんと叩いた。周りがそれを見てケラケラ笑う。叩かれた本人も楽しそうだ。

背が高く、体格のいい彼は、どんな時でも存在感があって目立っている。反応の良い栄に話を聞かせたいがために周りに集まってくるクラスメイトたちに、順番に話を振っては適度な相槌とツッコミでその場を回す姿は、まるで名司会者だ。底抜けに人の良い彼は、いつだって笑顔に満ちて幸せそうで、凛は時々、栄が画面の向こう側の人のように思えた。

話の切りが良いところで、栄が呼びかけ、取り囲んでいた生徒たちがそれぞれの席に着く。明るくて、人気者で、それでいて真面目でもある。彼を中心に回る世界はいつも健全で澄んでいる。


本鈴と同時に、先ほど教室を去ったばかりの倉橋が戻ってくる。前方のドアから入ってきた倉橋を見て、全員の鼓動が一拍飛んだ。

「え、先生どうしたの?」

「やばっ! なになに?」

「これ、気になるよね。まぁ後で説明するから。とりあえず号令!」

凛が号令を鳴らす。合図に従って礼をするが、全員の視線は倉橋に集まったままだ。

「みんな興味深々だなぁ。いつもこれくらいでいてくれたらいいんだけど」

つい十分ほど前まで普通に半袖のシャツにベージュのストレートパンツという出で立ちだった倉橋は、胸元にエンブレムの入った半袖のカッターシャツに膝の破れた黒いスラックス、乾いた泥がついたスニーカーを履き、合皮でできた黒のカバンを肩から下げている。フレームがひしゃげたメガネをケースから取り出し、掛けて見せた。他にも教卓に置いた紙袋から旧型のゲーム機やガジェットなんかを取り出していく。

「これ、俺の高校の制服。この前実家に帰った時に持ってきたんだ。コスプレじゃないぞ? 皆に見せようと思って持ってきたんだ」

髪型も再現しているのか、いつも上げている前髪が無造作に額に散っている。

「汚れてるだろ。なんでこんなにボロボロだと思う?」

その場で一回転して見せると、教卓前の席に座る瀬乃に向かって聞く。瀬乃は遠慮がちに「……貧乏だったから?」と答えた。

「お前、失礼なやつだな。うち、それなりのお家柄よ? これは東京大震災の日に着てたの。昼休み終わって、五時間目の授業始まって少ししたくらいだったかな、地震あったの。だから制服」

胸元を持ち上げて見せるカッターシャツは、本来白であるはずの生地が、砂埃や泥が付いてところどころ汚れていて、地面に座ったのかズボンのお尻も白い。

「そういえば、まだちゃんと震災のこと話してなかったなって、これを見て思い出したんだよね。というわけで教科書には外れるけど、今日は震災の日のことを話したいと思います」


倉橋は電子黒板に「俺も久しぶりに見るから何が映ってるかわからないけど」と前置きして、映像を流した。それは、十三年前の震災翌日から始まった。目の前に立つ三十歳の倉橋と同じ学生服を着た少年が、被災した東京の街をレポートしていく。

『どうも、ノボルです。昨日のお昼に、東京で大きな地震があったんだけど、記録用に周りの様子を撮影しておきたいと思います』

「この時ちょうど高三だったから、今のみんなと同い年だなぁ」

インカメラで撮影しているのか、目一杯に映し出された顔は、確かにこのクラスにいてもおかしくないような幼さを宿している。声もなんだか少し高いみたいだ。

始まりは、彼の家の前だった。向かって右側が瓦礫と化した一戸建ての住宅が縦長の画面いっぱい映っている。

『はい、僕の家です。家族にも会えたので、とりあえず荷物でも取りに行こうと思って来てみました。やばいです。昨日の今頃は、普通にここで暮らしていたのに、うちじゃないみたいにぐちゃぐちゃです』

半壊している玄関の前で、母親らしき女性が玄関のドアが開くかと試している。当時はもう玄関も電子化していたので、こうなっては動かないだろう。どうしたものかと唸っている。

『母さん、玄関開きそう?』

『ダメかも。こんな状態じゃ鍵屋さんも来れないだろうし、どうしよう……』

反応のない玄関のドアノブをガチャガチャと押し引きする。もちろんそんなことで開いてしまえば、その方が問題である。

『おかあさ~ん! こっち開いたよ~!』

遠くからこちらを呼ぶ少女の声がした。

「あ、これ妹の声だ」

倉橋が懐かしむように画面を見る。

映像の中では、カメラマンの倉橋少年と母親が声の方へ駆けだしていく。細い木が倒れたり、鉢植えが崩れて土が漏れて散乱している庭に入ると、大きな窓の前で制服姿の女の子がこちらに手招きしていた。小脇に茶色い豆柴を抱えている。センサーが効いたらしく、窓のひとつが半分ほど開いていて、隙間から中が見えた。

『何回やってもここまでしか開かないけど、とりあえず入れるよ』

『でかした、薫!』

倉橋少年が頭をぐしゃぐちゃにして撫でると、妹は本当に嫌そうに手を払いのける。この非常事態で、その仕草からはどこにでもある思春期の妹とうざったい兄の関係が見え、日常の地続きなのだと感じさせられた。

『いつ崩れるかわかんないから、あんたたちここにいなさい。お母さん中入って必要なもの持って来るから』

窓の隙間から土足のままリビングに上がる。母はこんな時こそ逞しい。床に落ちているエコバッグを開いて、食器棚の下の引き出しから食料品を目一杯詰め込んで寄越した。入りきらないカップラーメンは、戸棚に詰めてあった紙袋と一緒に倉橋に押し付けた。

『あんた、これ入れといて』

近くにあったティッシュケースも咄嗟に追加する。

『じゃあ、お母さん二階行って貴重品取ってくるから。中入っちゃだめだからね!』

焦っているせいもあるのだろう。わかったね! と語尾を荒げた。

『あ、そしたら父さんのカメラ持ってきて! テーブルの横の引き出しにあるから!』

『はいはい、わかったから! そこにいてよ!』

『お母さん、まめちゃんのドッグフードも持ってきて!』

聞こえたのか聞こえていないのか、返事もなく母親は二階へ消えていく。

『そうか、まめ太のリードも持ってこないとまずいな。しばらくは避難所生活だろうし、お前がずっと抱っこしてるわけにもいかないし』

『わたし、大丈夫だよ! わたしまめのこと離さないもん。ね、まめ~』

抱きしめたまめ太に頬ずりをする。犬の方も心細いのか薫にすり寄った。

『あほか、これから何日もこのままなんだぞ、腕死ぬぞ』

むすっとする妹を征して『お前、ここにいろ。俺、ここから入って玄関行ってくるわ。ついでにフードも持って来るから、母さん帰ってきたら言っておいて』と、まめ太の頭をぐりぐりと撫でてから土足のまま家に入っていく。

部屋の中は家具が倒れて物が散乱している。タブレットやテレビ、畳み途中の洗濯物、買い置きしていたらしいスナック菓子やパンなど、日常を感じさせるものばかりだ。ほんの数時間前までここに暮らしがあったということがよくわかる。倉橋は、落ちていた食パンを薫の方へ投げた。見事キャッチして、紙袋へ押し込む。

映像は、傘立てが倒れ、靴棚から落ちた花瓶と消臭剤が散乱した玄関に移動した。

『やべ、ここもぐちゃぐちゃだなぁ』

倉橋の手が伸びてきて、犬の首輪とリードを拾い上げる。散歩用らしい手提げも腕にかけた。

『スニーカーに履き替えた方がいいかもな。ローファー置いていこ』

そのままローファーを脱ぎ捨てたところまで映して映像は途切れた。おそらく履き替えるのに邪魔で切ったのだろう。

「お、ここで切れたな。いつか被災した時のために教えとくと、こういう時は絶対にスニーカーな! この後歩きっぱなしになることもあるし、とにかく動きやすい格好の方がいいから。俺はこの時とりあえず家族四人分のスニーカーを持って出たんだよ。親父と合流してからスニーカー渡したんだけど、そのことを今でも思い出しては話してる。そのくらいスニーカーが大事だったんだよな」

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