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教室に入ると、クラスメイトとそれなりに挨拶を交わして席につく。凛の席は、一番前の窓際だ。三年になると億劫になったのか席替えも行われず、席順は五十音順のまま、春からずっとこの席に座っている。一番前とはいえ、窓際で目立たないこの席はまずまずの居心地だ。
カバンからタブレットや筆記用具なんかを取り出していると、開いたままのドアから森川悠真が入ってきた。毎日きっかり予鈴と同じタイミングでやってくる彼は、凛の後ろの席に座っている男子生徒だ。同じ中学出身だが、ほとんど話をしたことはない。
誰とも挨拶をせず、それどころか透明人間のように気配を消して教室に入ると、するすると足音も立てずに席までやってくる。そして席に着くとすぐに机に突っ伏してしまうのだ。
「えっと、今日の日直はぁ……」
本鈴とともに教室に現れた担任の倉橋が、名簿をなぞりながら言った。
凛が小さく手を挙げるのとほぼ同時に、倉橋も「松上と森川だね」と正解を導き出す。
席替えがなくなったせいで、日直の時はいつだって彼とペアになる。他の人に言わせれば、それは不運でしかないそうだが、凛は特段いやな思いをしたことはない。号令こそ、暗黙の了解で凛の担当になるが、面倒な日誌や授業の準備なんかは、知らないうちに済ませてくれていて、なんだかんだ楽をさせてもらっている。おそらく今日もそうなるだろう。
「ではこれで朝のホームルームを終わります。進学組は学習室、就職組は教室な。就職組は、次は歴史だぞ」
倉橋がタブレットのスイッチを切りながら声をかけると、隣の席の根元偉春など頭脳派数名が教室を出る。
「凛ちゃん、トイレいこぉ」
斜め後ろの席の野本さくらが声を掛け、鷺口結夏と連れ立って教室を出る。この二人とは、入学以来なんとなく連んでいる。さくらに言わせれば親友ということらしいが、凛はそこまで深い仲だとは思っていない。冷めているといえばそれまでだが、完全に心を開く相手というよりは、とりあえず行動を共にしている相手という方がしっくり来る。特にこの二人でないとだめだと思う点がないからだ。他の女子とだって、たぶん同じくらいには仲良くなれる。
二人の好きなアーティストが出たというネット配信の話を聞きながら廊下を歩いていると、学習室の前で偉春が二年生の女子たちに捕まっていた。目立つ顔立ちではないものの、ちょこちょこ主席を取る上に、サッカー部でもそれなりに活躍しているせいで、女子からの人気は高い。恋い焦がれる憧れの存在というより、優良物件なのだ。
「あのさ、俺勉強したいからもういい?」
言葉の隅に苛立ちをチラつかせながら偉春が言う。そんな風にモテるくせに、偉春はそれをちっとも喜ばない。マネージャーと浮気をした水野くんならどれだけ上手いこと対応するだろう。ハーレムを作って、両手に抱く花を周りに見せつけていることだろう。
「あ~ぁ、偉春くん冷たぁい」
天空島出身で付き合いも長いうえ、サッカー部でマネージャーをしているさくらが、彼との距離を自慢するように、通りすがりに割って入った。凛の脳裏にマウンティングの文字が浮かび、しばし女同士の睨み合いが続く。
「そんな風に言ったら、二年生が可哀想だよぉ」
この妙にねっとりとした喋り方は、さくらが男子の前、特に人気のある男子を話す時の癖だ。
前後の席に並ぶ二人は確かに教室でもよく話をしているが、それはいつだってさくらからの一方通行だ。さくらがぶりっ子を発動させて偉春に向かうも、彼の態度は二年生に向けるものとさして変わらない。彼らの相関図は、偉春にばかり矢印が向いている。二年生にしたって、さくらにしたって、彼の眼中にないのだろう。
さくらの登場を助け舟に学習室に逃げ込んだ偉春は、凛たちがトイレから戻ると、すでに真剣な眼差しで教科書と向き合っていた。ドアの小窓から中を覗き込むと、他の生徒も同じで、話したり遊んだりしている人はいない。やはり進学組は格が違う、と凛は感心した。
天空島高校は県立でありながら、その独特の成り立ちのせいでまるで私立のような学習プログラムを行っている。高校三年間で習う授業を二年間で終わらせ、残りの一年間は大学受験の勉強、または天空島研究所の所員採用試験に備えた受験勉強を行う。どちらも同じく翌年二月にある試験目掛けて全力で向かっていく、というちょっと特殊な進学校というわけだ。
ただ、一学年二十名のうち大学に進学する生徒は片手で足りるほどしかいない。「天空島、延いては日本の将来を担う若者を育成する」を目的に創設された高校らしく、ほとんどが研究所を目指している。そのため、一流大学への進学を目指す者は一年間ほぼ自習に費やすというのが現状だったが、優秀な彼らが怠けるなんてことは一切ない。果ては、政治家、弁護士、医者と言われ、就職組にとっては自分たちを超えていった存在として、一目置かれている。
「進学組って本当勉強好きだよねぇ」
大学否定派の結夏がつまらないものを見るような視線を送る。
「大学なんて行って何の意味があるの? 飲んで遊んでるだけじゃん」
とてつもない偏見を浴びせる結夏に、「真剣に勉強してる人、たくさんいると思うよ」と反論すると、「わたしは絶対大学なんて行きたくない」と言って、持論を並べた。
そもそもあんたじゃ無理だろ、と心の中で毒づきながら、凛は、真剣に机に向かう彼らに限ってそんなことはないだろうと思った。彼らは間違いなく意味のある四年間を経て、わたしたち就職組には見ることのできない世界へ飛び立っていく。凛にはそれが、大きな翼で自由に空を飛ぶ鳥のように思えた。
凛は、天空島研究所に務めるためにこの高校に入った。それどころか、そのために高校生になった、と言っても過言ではない。
凛の父・雪彦は有名大学を卒業後、天空島研究所の前身である物理学研究所に入所、研究者として働いていた。その後実績を評価され、天空島誕生の礎となる「天空島プロジェクト」のスタッフに抜擢。プロジェクトに関わるうちにその素晴らしさに魅了され、すぐにワーカホリックになった。
ほとんど洗脳されていると言っても過言ではない雪彦が、子供たちに天空島で働く将来を求めるのに時間は掛からなかった。それまで地元の学校に通わせていた凛や弟の侑をことごとく天空島の学校に入れた。侑に至っては、本来なら島内の子どもしか通えない天空島中学に無理やり通わせたほどだ。
そういうわけで、雪彦のプレッシャーの下、凛は寝ずの猛勉強の末、受験に合格、天空島高校に入学した。
「はぁ、勉強したくない。テストなんてなかったらいいのに」
凛は、頭に過る雪彦の顔をかき消すように重い溜息をついた。霊でも憑いているのかというほどに、肩がずしりと重くなる。本来勉強は嫌いではないが、順位をつける制度だけは恨めしい。それがなかったら、きっと学ぶこと自体は楽しめたはずだ。
「でも、この前のテストいい感じだったんじゃないの?」
ぽつぽつとランクアップした成績表に、そっと胸をなでおろしていたことを覚えていたらしいさくらが言った。
「うん、まぁね。お父さんは気づいてもなかったけど。たぶん、学年五位以内にでも入らない限り変わらないだろうね」
天空島研究所を目指して入学する強者揃いの学校では、サラブレットは凛だけではない。研究所員を親に持つ生徒がクラスの半分以上を占めているうえに、彼らは並々ならぬ憧れを研究所に抱いてこの学校に入学した。
つまりモチベーションが違う。要領の悪さも手伝ってか、地元の中学で中の上ほどの成績を残していた凛も、高校に上がって底辺へ墜落した。それはエンジントラブルを起こした小型機が徐々に墜落していくというより、ジェットコースターに近い。なだらかに落ちたのではない。垂直に落ちた。
もちろん自堕落になったわけではない。凛自身は何も変わっていないにも関わらず、それまで整数部だけの表示だった順位が、限られた視界の中で少数部だけの表示に切り替わったのだ。1・1から測って2・2の距離と1・9の距離では後者の方が近いはずなのに、整数部分が隠れていればそれは逆転する。目の前に表示されている数字は、いる世界が違えばその価値は変わってしまうのだ。
ただ、このような状況そのものが、雪彦にとって耐え難いことなのだろう。幼い頃から勉強がすべてだった自分の遺伝子を受け継いでいるはずの我が子が、優秀でないなんて認めることができない。あっという間にモンスターと化した雪彦は、凛の成績表を見る度に暴れ狂った。
凛はそんな状況下に何年も置かれたせいで、天空島に憧れなど一片も持っていない。世界に類を見ない先進的な技術や、デザイナーズアイランドと呼ばれる都市開発の美しさ、それでいて自然溢れる環境など魅力ばかりの天空島を、凛だけはこれから何十年も続いていく地獄の舞台と認識していた。
自分には、大空を飛ぶ翼なんてない。実の親に毟り取られた羽を、凛は心の奥の引き出しにそっと仕舞って生きていた。
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