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ガジェットのアラームが午前五時三十分を告げると、凛はむくりと布団から抜け出した。カーテンを開けると、窓外の森で鳥や虫たちが早くも活動を開始している気配がする。

「凛、朝ご飯できたよ!」

ピピピ、ピピピと鳥のさえずりのように部屋を飛び回る目覚ましの音の隙間、一階のリビングから母・理恵子の声が聞こえてくる。凛が子どもの頃に手作りした塩ビ管の簡易型伝声管は、今や振動もしていない。理恵子の声は階段を通って、三階にある凛の部屋へと届いた。

目覚めきれない脳がそれを認識すると、ベッドサイドの目覚ましを切ってカーテンを開ける。窓から見える空はまだ白んだままだ。

平衡感覚が鈍ったままの足元をふらつかせながら起き上がると、床に転がった使い古しの絵の具を避けきれず思わずよろけた。踏んだら大変だ。固まった絵の具のチューブは、ほとんど凶器と言っていい。

凛は、立てかけたままのキャンバスの隣、寄り添うように置いた丸椅子の上にそれを放ると、端っこが少し破れた壁のポスターに向き合った。

どこまでも広がる草原に、幾千もの星が煌めく夜空が覆う。この水彩画は、凛が憧れる天才画家、天財誠の作品だ。

もちろん本物なんかじゃない。世界有数の画家である彼は、凛にとっては神様のような存在で、その作品は、凛が一生かかっても稼ぐことのできないような額で売り買いされていると聞く。水彩画でその領域に達するのは稀なことだ。

凛は、学校行事で訪れた彼の美術展でこの絵に出会い、帰り際併設されたショップでこのポスターを買った。価格は3300円プラス消費税。当時のお小遣い1ヶ月分に相当する額を、何の躊躇もなく支払った。

それ以来、この絵が凛にとっての宝物として、ここに飾られている。

二階にある洗面台で顔を洗い、自室で着替えてからカバンを背負ってリビングに降りる。熟睡できなかったせいか、どうも体が重い。ぐるぐると片腕を回しながらダイニングテーブルに着くと、食パンとサラダとウインナーを乗せたトレーを手に理恵子がやってきた。

「牛乳とお茶、どっちがいい?」

「んー、牛乳」

席に着くと、もそもそとパンを齧る。

「もう6時になるよ、早く食べな」

受け取った牛乳を飲んでいると、合わせてテレビも6時を告げ、次のコーナーへ移っていく。

サラダとウインナーを口に詰め込んで、洗面台で髪を整える。リビングから聞こえる「お弁当カバンに入れたからね」の声を聞きながら、急いで歯を磨いていると、続いて外で自転車を出してくれる音がした。毎朝繰り返される慌ただしい朝の風景だ。

凛が支度を済ませて玄関で靴を履いていると、愛犬のしなもんが自分も一緒に出かけるべくすり寄ってくる。制服のブレザーへ分身とばかりにその長い毛を撒き散らすも結局は頭を撫でられるだけで終わることを、彼女自身どこかで理解しているのかもしれない。出かける前の儀式として、一定の動作を終えるとすっと身を引くクールさがある。

「もう! おねぇちゃんこれから学校なのに、毛だらけぇ!」

その頰をぐりぐりと手で圧し潰すと、しなもんは、ふんと鼻息で返事をした。

「何やってるの! 早くしないと遅刻するよ!」

理恵子の呼びかけに改めて靴を履き直していると、階段を降りてくる音がして、雪彦が顔を出した。足音で背筋がすっと凍りつく。

「もう出かけるのか」

背後から声がしたが、目を合わせないままに「うん」とだけ応え、足早に玄関を飛び出す。凛は、息が吸えないような苦しさにぐっと胸を押さえた。

理恵子の見送りを背に、持ちうるすべての力を結集して自転車を漕ぐ。木々に囲われた林道を、スカートがひらひら舞うのも気にせずに全速力で駆け出した。

朝から雪彦に会ってしまった日は決まって逃げ出すようにこの道を走る。この森はまるで夢の中に出てくる海のようだ。気道を締め付けられるようなこの森から、精一杯もがいて這い出す。

木のトンネルを抜けると、わざとぷはぁっと声をあげた。肺に新鮮な空気が満ちて、景色も街へと移り変わる。空にはすっかり青が染みていた。

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