空の孤島《完結》
雨飴えも
1-1
「殺される夢って、そんな悪い意味じゃないみたいだよ」
ガジェットの画面をこちらに向けながら、さくらが言った。指差す爪は名前の通り薄っすらと桜色のマニキュアが塗られている。校則違反もお構いなしだ。彼女は度々そういうことをする。
「えぇ、でも気味悪くない?」
結夏が鏡に映る顔を歪めると、さくらがウェブサイトの文章を読み上げていく。結夏の視線が鏡に戻ったことに気付いたのか、改めてこちらに向き直す。
「生まれ変わるとか、そういう意味だって」
人に殺されるというのは、これまでの自分が消え新しい自分に生まれ変わるという吉夢らしい。なんだかポジティブが過ぎる。
「だから大丈夫だよ、凛ちゃん」
凛は今朝のことを思い出す。このところ毎日のように悪夢、それも殺される夢ばかりを見ている。
今朝も午前三時を少しすぎた頃に、息が吸えなくなって飛び起きた。焦って無理に息を大きく吸うのを繰り返すも、しばらくは和らがない。
右腕で前髪を押し上げて拭うと、ふぅと一息ついて、またベッドに倒れ込んだ。乗り移った汗が、つぅーと肌の上を滑り落ちる。
こんなのが毎日だ。いわゆる睡眠時無呼吸症候群かと疑い、寝ているところを撮影してみたが、いびきはかいていなかった。
だってすべては悪夢のせいだから。しょっちゅう同じような夢を見ては、夜中に飛び起きるのだ。こんなことが続いては、いくら寝ても眠った気がしない。
今日の夢はこうだ。誰かに追いかけられて暗闇を逃げ惑ううちに、真っ赤な花が咲き乱れる花畑まで追い詰められる。火事のように燃える花々が足元を包み、強風に翻弄されている。花畑の先は崖。その下には黒い海が轟々と大きな渦を巻いていて、見下ろすと強い風に髪を巻き上げられた。灰色と白で描かれた彩度のない空には、一滴ほどのシアンが滲むばかり。まるで世紀末のような景色の中を逃げ惑う。
もうそうするしかないと、背後で何かを叫ぶその人の腕を掴んで、海に向かって全力で突き飛ばした。どんと突いた時の感触が手のひらにやけにリアルに残る。崖から落ちていく時の叫び声がぼやけた空気を切り裂いて、耳に鮮明に届いた。台風の強い畝りのようでいて、尖った刃のような金切り声にも聞こえる。凛は必死に耳を塞いだ。
わたしは悪くない、わたしは悪くない、わたしは悪くない!
そう唱えてから目を開けるとそこは真っ黒な海の中。口の中に入った水と息が吸えないことにパニックを起こして、我を忘れてもがく。バタバタと四肢で水を掻くも全く這い上がれない。高いところから落とされたせいで、その分深く潜ったのだろう。手を伸ばしても海面には触れもしない。
薄く開いた目に映る視界は、空気の泡で充満してキラキラと輝いているのに、奥に見える暗闇に身が凍りつく。そこには何もない。宇宙にも似た、生命を感じられない死の世界だ。
嫌だ! 死にたくない! そう思うのに、いくら腕や足を動かしても事態は好転しない。ただ着ている制服が絡みついて、這い上がるのを邪魔した。
肺にあった酸素を使い果たしていよいよ苦しくなると、決まってそこで目を覚ます。精一杯息を吸い込んで、夢だったことに安堵する。夢の中では、いつだってそれが夢であることに気づけないから、生きていることに本気で安心するのだ。
追ってきた人物は、二階で眠っている父・雪彦だった。いつも顔は見えないが、夢の中ではそう認識している。日によって形は違えど、雪彦はいつも凛を追い詰め、苦しめた。
まだ息苦しさが続いている気がして、改めて大きく空気を吸い込んだ。ギリギリ滑り込んだ電車の車内でするみたいに、空気が肺を無理やりこじ開けるせいで、喉から食道から全てが軋む。
窓の外の森の影から部屋に差し込む月明かりが、そっと部屋の隅を照らし、凛はもう一度目を閉じた。
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