灰色の雲
7月上旬、金曜日の午後4時半。強い雨が止み、雲間から夏の日差しが差し込む。
会議を終えた樹は、明るい廊下を足早に歩きながらスマホに届いたメッセージを読んで小さく微笑んだ。
『今夜は子どもたちの好物のハンバーグとポテトサラダにします。みんな頑張ってるし、今夜はちょっと美味しいスパークリングワイン飲みたくない? 時間あったら買ってきてください♡』
リモートでの仕事の後、夕食の下拵えを終えたところだろうか。エプロンを外して慌ただしく子ども達の迎えに出かけていく柊の姿が目に浮かぶ。
「そうだな。よし、ちょっと上等なやつ選んで帰ろう」
ニマニマ顔で独り言が出てしまってから、はっと周囲を見回す。こんなデレモードを社員達に目撃されては恥ずかしすぎる。幸い周囲に人目はなく胸を撫で下ろす。スマホをジャケットの内ポケットに収めつつ、樹は口元を引き締め直して副社長室へと向かった。
執務室へ戻り、会議中に届いたメールのチェックを行う。今年4月にオープンした大阪のマンションが高い評価を得ている旨の情報が届いている。いくつもの修羅場を乗り越えて反対住民を説得し、苦労の末に完成した多世代交流型マンションだ。柊のアイデアで急遽設置が決まった供用棟内の図書館は、入居者のみならず周辺の住民も利用が可能であり、年代を問わず多くの人々の交流の場になっているようだ。
いつにない達成感を噛み締めている樹の耳に、ドアのノック音が響く。
「どうぞ」
「失礼いたします」
美しい身のこなしで一礼し、秘書の菱木さくらがファイルを手にして入室した。
「先程、人事課より中途採用社員募集の最終選考対象者リストが届きました」
「うん、ありがとう」
ファイルを受け取りながら、樹は菱木に明るい笑みを向けた。
「君ももうメール読んだかと思うけど、大阪の新規マンションの評判、上々みたいだね」
「ええ。本当に素晴らしいです! 多世代の人々が交流できる住まいというコンセプトと、マンション内に図書館を組み込むという新しいアイデア。これ以上相性のいいマッチングはないと思います。そして何より、実際にそこで生活されている地域の人々から高い評価を得ていることが嬉しいですよね」
心から嬉しそうな菱木の笑みに、樹も深く頷く。
「まさにそうだね。そこで暮らしている人が心地良いと感じてくれなければ、どんなにいいと感じたアイデアも独りよがりでしかない。当初は建設反対の声を上げていた人達に、こうして受け入れられていることの価値は大きいよ」
「マンション竣工までにいろいろなご苦労がありましたもんね。誠におめでとうございます。
では、失礼いたします」
菱木は改めて深く礼をし、静かに退室した。
メールチェックを済ませ、人事課からのファイルを開く。現在募集をかけているのは、本社の総務部に配属となる経理業務経験者だ。最終選考に残っているのは3名。まずはざっと応募者リストをめくっていく。
「ん?」
3枚目の応募者情報で、樹の手がふと止まった。
「……小田桐、礼司……」
その名前に、樹の脳が強く反応する。
忘れるはずがない。つい今し方メールで読んでいたあの大阪のマンション建設で関わった、ある意味最悪の男だ。
昨年の秋、樹は神岡工務店の副社長としてマンション建設反対派の住民を説得するために大阪へ出向いた。予想以上に強硬な反対派住民の言動に悩まされていた樹の前に現れたのが、この小田桐だった。
彼は窮地に立った樹の弱みにつけ込むかのように交換条件を持ち出した。市議会議員である彼の父の力で反対派を捩じ伏せる代わりに、一晩を共に過ごしてほしい、と。
狡猾な彼の手口にずるずると嵌り、何が何でもマンション建設を前に進めるために有り得ない交換条件に引きずり込まれかけた樹だったが、すんでのところで彼を救ったのが、柊からの一本の電話だった。
あの時スマホの着信音が鳴り響かなければ、自分は完全に何かを踏み外していた。それを思うと、いまだにぞわりと寒気が走る。
柊の発案による図書館併設のアイデアで反対派の説得は成功し、東京へ戻る樹のスマホにかかってきた電話の声が蘇る。
『本当に、貴方の会社を目指しても、いいですか』
樹は、小田桐が有力な市議である父へ強い劣等感や反発心の絡み合った複雑な感情を抱き、歪んだ感情に呑まれかけていることに勘付いていた。
『やり直す気があるなら、東京へ出て、神岡工務店への再就職を目指してみろ。実家の支援を一切断ち切って、自分の力で』
崩れかけた小田桐に向けて、樹はそう告げた。
そんな働きかけを最初は鼻で嗤っていたはずの小田桐だったが、最後の電話のやりとりで、彼は自分自身の再スタートに微かな意欲を見せたのだ。
『——ああ、もちろんだ。
ただし、おかしな真似したら即日クビだからな』
彼にそう答えたことも、はっきりと覚えている。
『絶対に、入ります。貴方の会社』
小田桐はそう言って、電話を切った。
彼は、その言葉を現実にしようとしているのだ。
「——本当に、来たんだな」
ファイルの写真を見つめ、樹は呟く。
面立ちは以前より痩せたようだ。鬱陶しく顔に垂れ下がっていた前髪も、すっきり整えられている。清潔感が増した分、端麗な容姿が一層際立つ。
改めて、彼の履歴書・職務経歴書を確認する。関西の有名大学卒業後は大手商社で経理部門に二年間在籍しており、文句無しの経歴だ。
ふうっと息をひとつ吐き、ファイルを閉じた。
最終面接には、副社長である自分も面接官として立ち会う。応募者の評価に関しては、私情は一切挟まず、あくまで公平にジャッジせねばならない。
自分が彼に提案したことだ。
だが——
窓に歩み寄ると、思った以上に強い日差しが額に降り注ぐ。
太陽を取り巻く灰色の雲を見上げ、樹は小さく眉間を歪めた。
*
「今日もありがとうございましたー」
「「とーしゃんっ!」」
保育園の一階、「りす組」という愛らしい札の下がった二歳児クラスのドアを開けると、俺に気づいた晴と湊が全力で駆け寄ってきた。
「おー、今日も楽しかったか?」
「うんっ! きょうはねー、いっぱいおうたうたったよ! あとね、ぴあのもひいた!」
「はるはね、ねんどつくった! ぞうさんとね、らいおん!」
「三崎さん、お迎えありがとうございます。本当に、二人ともすごいんですよー!」
2歳クラスの担任である平田先生が、二人を見つめて目を輝かせた。
「今日の連絡ノートにもお書きしましたが、二人それぞれに何か才能を感じさせる、というか……私たち保育士も、これからが楽しみだねって盛り上がっちゃってます!」
平田先生はまだ若い女性保育士だが、子どもたちへ向ける愛情や情熱は本物だ。小柄でふわりと可愛らしいが、怒る時はぶっちゃけかなり怖い。いい先生にはかならずいいメリハリがある。
「え、そうなんですか?……才能、ですか。
——いや、これは親として最高に嬉しいお言葉です。ありがとうございます!」
嬉しさに、俺もつい子どものようにびょこりと弾むような会釈になった。
「はるくん、みーくん、また来週ね!」
「「せんせー、さよなら!」」
平田先生の笑みに、二人とも元気に頭を下げて挨拶を返す。こういう大切なことをしっかりと教えてくれる園の方針に改めて感じ入る。
「はるくん、みーくん、ばいばいー!」
「ばいばーい!」
たくさんの友達からそんな言葉をかけられながら、クラスを後にした。
着替えた服やお昼寝用シーツなど、週末に洗濯すべきものが詰まった大きなトートバッグを肩にかけ、三人でわっせわっせと車に乗り込む。発車する前にスマホを確認した。
『了解。ちょっといいスパークリングワイン買って帰るよ。少し帰り遅くなるかもだけど』
いかついゴリラが敬礼しているスタンプに、思わず小さな笑いが出る。
『やったー♪ じゃ楽しみに待ってます!
保育園で平田先生から嬉しいこと聞きました。帰ってきたら話しますね』
「とーしゃん、はやくー」
「しゅっぱーつ!」
「よし、じゃ出発!」
晴と湊が持つ可能性。
二人には、これからどんな未来が待っているんだろう。
その輝くものに思いを巡らせながら、俺は勢いよく車のエンジンをかけた。
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