勝負

 通話を終えた須和が振り向くと、食い入るように自分を見つめる東條と視線がぶつかり合った。

 鉄のように冷たい表情を一変させ、東條は口元に柔らかな笑みを浮かべた。

「何だって、あの美容師さんは?

 俺の話、ちゃんと理解してくれたかな? いくらチャラいったって、この状況の愚かしさに気づく能力くらいは持ち合わせていてほしいけどね」


「…………」


「俺は、君の気持ちを疑っていなかった。ほんの1ミリもね。

 君は遠からずあのいい加減な美容師に別れの言葉を言い渡し、これからはここでずっと過ごしてくれると、当然そう思っていた。——そうだろう。誰がどう考えても、そういう流れが当然と感じるはずだ。

 よく考えてくれ。男として、どっちが勝ってるか。未来が明るいのは、一体どちらの道なのか」


 東條は、自分の主張には一点の誤りもないというように須和を見据える。


 宮田の歩いて来た道のりを何一つ知らないくせに、表面的なごく一部の情報だけで宮田を敗者だと言い放つ男。

 喉まで出かかった強い怒りを、須和はぐっと抑え込む。宮田が言っていたように、今はこの男を刺激しないことが最優先だ。

 感情を鎮めるためにすっと静かに息を吸い込むと、須和の胸に不意に別の思いが起こった。


 人生の時間を、どう歩きたいか。誰と過ごしたいか。

 この人は、もしかしたらそういうことに正面から向き合えないまま来てしまったんじゃないか。

 勉強、成績、偏差値。学歴、勤務先のブランド。そんなものだけが人生だと教えられ、言われた通りにそういうものしか追いかけて来られなかった人なんじゃないか。


 うっかりすれば、自分もそうなるところだった。

 三崎や神岡に出会えなければ、厚い壁で囲われたあの家を脱出などできなかったかもしれない。きっと今も、ただ俯いて両親の言葉に従い、あの狭い部屋に閉じ込められたままだったに違いない。


「…………あなたも、迷い道にいるんですね」

 そんな言葉が、気づけば唇から漏れた。


「——迷い道?」

 東條にそう問い返され、須和ははっと顔を上げた。


 今までとは違う激しい色を目に浮かべ、東條がこちらへ歩み寄ってくる。

「この俺が、道に迷ってると言いたいのか?」

 その威圧感に耐えきれず、須和は思わずじりじりと後退する。とうとう背が壁に突き当たった。

「俺の来た道に、一点でも汚れがあるか? ここまで積み重ねてきた生き方が、誤っているとでも言うつもりか?

 俺を切り捨ててあんな男を選ぶことだけでも死ぬほど屈辱的だっていうのに、この上更に侮辱する気か!?」

「……ち、違います! そういう意味じゃありません! 怒らせてしまったなら謝りますから……!」

「ああ、君はもうとっくに俺を逆上させてる。はらわたが煮えくりかえるほどにな。

 ——許して欲しいなら、黙って俺に従え」


 東條の大きな手が、逃げ場を失った須和の両手首に凄まじい力で掴みかかった。









 地下鉄で最寄りの駅を降りた宮田は、マップのナビ機能を使って東條の部屋へと足早に向かった。

 白い息が風に流れ、夜の闇へと吸い込まれていく。

 目的のアパートは、瀟洒しょうしゃな外観の建物だった。オレンジ色の街灯に照らされた煉瓦風の壁が、闇に柔らかく浮かび上がっている。

 アパートのゲートを潜って、ふと東條の部屋番号が分からないことに気づいた。こんな時間に入居者のドアの表札を一軒一軒調べて回ったりすれば、うっかりすると通報ものだ。

 考えた末、ある案が浮かんだ。住民の郵便受けがどこかにあるはずだ。

 アパートの入り口へ足を進めてみると、やはり共用部分の一角にポストが並んでいる。さり気なさを装いつつ調べていくと、205号室のポストに「TOJO」という小さなステッカーが貼られているのを見つけた。このご時世、表札などを出さない住民も多いが、きちんと名前を表示しているところはあの男らしい。

 足音を潜めるように外階段を上がり、205号室のドアの前に立つ。大きく息を一つ吸い込んで、宮田は呼び鈴を押した。


 息を殺してドアが開くのを待つが、誰も出て来ない。玄関の横の窓の明かりはついているから、中には誰かいるはずだ。

 二度目を押したが、やはりドアは開かない。急激な不安が宮田を襲う。


 その時、静かだったドアの奧で、不意にガタリと物音がした。


 ————まずい。

 直感的にそう感じた次の瞬間、宮田はドアに向けて声を放った。

「宮田です。

 今すぐ開けないと、通報します」


 しばしの静寂の後、ガチャリとドアノブが音を立て、玄関が静かに開いた。

「——初めまして、宮田さん」

 張り付いたような笑みを口元に浮かべ、すらりとした男前がギラついた目でこちらを見据える。

「ここの住人の、東條です。

 しかし、こんな時間に押しかけておいて最初の挨拶が通報とは随分失礼ですね」

「——彼に、おかしなことをしていないだろうな?」

 宮田は一つ深く息を吸い、東條を真っ直ぐに見返しながら声を低めて問いただした。

「はは、おかしなことって。初対面の相手をケモノ扱いですか?」

「誤魔化すな。

 この空気の臭いを、僕はよく知ってる。——あんたからは、以前の僕と同じ臭いがする」


「…………は?

 ふざけるのはやめてくれるか? 君のようなのと同類扱いとか、立派な侮辱罪だぞ」

 ギリギリと唸るような東條の呟きに、宮田は浅く笑んで答える。

「やましいことが何もないなら、中に入れろ。

 無理矢理妨害するような卑怯な真似はやめて、正面から勝負しろ。でなければ、この勝負はあんたの負けだ」


 宮田の放った「負け」の一言に、東條の目の奥が一層不穏にゆらめいた。


「——いいだろう」


 にっと口元を引き上げた東條はドアを大きく開け、宮田を中へと導いた。









「彼はどこだ」

「ああ、須和くん?」

 宮田の低い問いかけに、東條は廊下を先に立って歩きながら思い切り白々しい声で答える。

「彼は部屋だよ。これまで彼に貸していた一室にいる。僕がいいと言うまで出てこないでほしい、と伝えた。

 そこのソファにどうぞ。コーヒーでいい?」

「そういうのは不要だ」

「そっちが要らなくても俺が要るんだよ」

 一層険悪な口調でふんと嗤うようにキッチンへ向かう東條の背に、宮田は言葉を続ける。

「……あんたは、本当に須和くんが好きなのか」

 カップを手にした東條が、鋭い視線を宮田に向けた。

「それはむしろ俺の台詞だが?

 須和くんを随分と残酷な方法で苦しめて部屋から追い出したのは、そっちじゃないのか」

「……僕は——

 彼を、自由にしたかった。

 やり方が間違っていたことは認める。死ぬ程反省している。

 だが、彼を自分のような人間に縛りつけたままでは、絶対にいけないと思った。それは本当だ」

「へえ。

 ならばとことん身を引くべきじゃないのか。自分の元へは二度と戻って来るな、とね」

 ドリップコーヒーに湯を注ぎながらそう返す東條の背を見つめ、宮田はおもむろに口を開いた。

「僕は、彼を必要としている。心から。

 大晦日に彼が僕の部屋へ来て、僕を選ぶと言ってくれた瞬間は、実際その幸せを容易には信じられなかったよ。

 彼が僕を選んでくれたその想いを切り捨てて身を引くほど、僕は強くない。あんたの言うとおり、僕は薄っぺらいクズだからな」

 湯気の上がるカップ二つを忌々しげにテーブルに置き、どさりとソファに座って東條は口元を歪に引き上げる。

「ああ、本当にな。彼のように純粋で誠実なタイプは往々にしてクズに引っかかりやすいから可哀想なものだ」


 目の前のカップから立ち上る湯気を静かに見つめてから、宮田は小さく呟いた。

「——須和くんが、あんたを選ばなかった最大の理由を、知ってるか」


「——……」


 自分のカップを口に運びかけた東條の肩が、その言葉に突かれたかのように小さく揺れた。


「理由を、知りたくないか?」


 眼差しを上げ、宮田は東條の引き攣った顔を真っ直ぐに見据えた。




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