空っぽの完璧
『……宮田さん、すみません。
今日はそっちに戻らないかもしれません』
一月三日の夜、八時過ぎ。
須和が東條の部屋へ向かった後、テーブルに置いたスマホを睨み据えながらまんじりともせず過ごしていた宮田は、やっとスマホの奧から届いた恋人の言葉に息を呑んだ。
「——え、どういうこと?
彼との話し合いで、何かあったの?」
何から聞いたらいいのかわからないまま、宮田は上擦りそうな声を何とか抑えつけて須和に問いかける。
『済みません。とりあえず、そちらに戻れないことだけ、伝えます』
消え入りそうな声が不意に途切れ、代わって艶やかに響く低音が耳に飛び込んできた。
『初めまして、宮田さん。僕は、須和くんのサークル仲間の東條
どうやら、この男は須和のスマホを横から取り上げて話しているようだ。
知的ながら傲慢な男が須和を思い通りに従わせようとしている姿が、嫌でも宮田の目に浮かぶ。
『宮田さんのことは、須和くんからいろいろ聞いてます。
サークルではずっと須和くんと親しくさせてもらっていたんですが、ひと月ほど前に彼から相談を持ちかけられましてね……話を聞けば、何でも同居相手から随分理不尽な仕打ちを受けている様子でしたから、ならばそこを出てうちに居候でもしたらいい、って声かけさせてもらったんですよ。
僕としても、可愛い後輩が苦しんでいる姿を見ているのはたまらなく辛いし、今後彼がどうなるのか、気がかりでたまらなかったもので』
「…………」
その内容は、明らかに宮田への非難や皮肉を込めたものだ。しかし、嫌味な気配を全く感じさせない堂々と澱みない口ぶりに、宮田は返す言葉もなく唇を噛む。
『で、年明け早々に須和くんから随分改まった雰囲気で『話したいことがある』と連絡もらって、何事かと思いましてね。先ほどまで彼の話を聞かせてもらっていたのですが、その内容が、どうにも納得がいかないんですよ。
何故、誰より聡明なはずの須和くんが、よりにもよってあなたのようないい加減でチャラい男を選ぶなんていう事態になってるんでしょう? しかも、ここまで彼の苦しみを全て受け止め癒やしてきたこの僕を切り捨ててね。どう考えてもあってはいけないことだと思いませんか?』
「……あってはいけないこと……?」
『ええ。有り得ないことですよね。許し難い、と言ってもいい。
身も心も薄くて軽い、そんな生き方しかできなかった男がほんの一瞬反省の素振りを見せたからと言って、この先そいつが一生信頼に値するなどと、なぜ信用できるんです?
信頼だけじゃない。持っているものが少なすぎるでしょう、あなたは。……僕の言ってる意味、分かりますか?
僕は、少なくともあなたよりは持っているはずだ。知識も、技術も、将来的な地位も、今後稼ぐだろう金も。そうじゃありませんか?
彼を幸せにできるのが一体どちらなのか、誰が見ても明白だ。
——おい、君は黙っててくれ。まだ話は終わってない』
須和が話を中断させようと何か言いかけた気配が感じられたが、東條の乱暴な言葉に阻まれた。為す術もなく俯く須和の苦しげな表情が、強い痛みを伴って宮田の脳をよぎった。
宮田の奥歯が、低くギリっと音を立てた。
次の瞬間、宮田はここまで押し潰されそうになっていた劣等感を捨て去ったかのように、穏やかな声で東條へ言葉を返していた。
「……それで、あなたは……彼を僕の元へは帰さない、と……そういう主張をする気ですか」
『ああ、察していただけますか。それは嬉しいな』
「——あなたの主張は、わかりました。
須和くんに伝えておきたいことがあるので、彼に代わってもらえますか」
『手短にお願いします』
『……宮田さん』
火の消えそうな須和の声に、宮田は明確な口調で伝える。
「須和くん。ここからの僕の話は、ただ『はい』か『いいえ』かだけで答えてほしい。東條さんにこの会話の内容を勘付かれないように……できるよね?」
『…………はい』
須和は、宮田の意図を理解したようだ。
「じゃ、聞いて。
とりあえず、君のスマホを預かるとかパスコードを教えろとか、彼にそういう勝手な要求をされても、絶対に応じるな。彼の言いなりには絶対になるな。いいね?」
『……はい』
「それから、ひとつ案がある。
恋人同士などの間でだけ居場所の確認やメッセージのやり取りができる『ガーベラ』っていうアプリがある。それで繋がれれば、君が今いる場所も画面で確認できるようになる。
その位置情報で東條さんの部屋を探して、これからそっちに行く。夜分だろうが何だろうが、そんなこと気にしてる場合じゃない。
僕はもうアプリをダウンロードしてある。万一こういう場合があるかもと思って、さっき登録しといて良かった。今君を招待するから、君も今すぐ『ガーベラ』のアプリを入れて僕と繋がってくれ。部屋の位置情報さえ分かれば、この後もし君が自由にスマホを使えなくなったとしても君のところへ行ける」
『——……はい』
そう答える須和の声が、微かに震えた。
溢れそうな感情を必死に押し殺している様子が伝わってくる。
宮田と須和の手早い操作でアプリの接続が行われ、すぐに宮田の画面に須和の現在の居場所が表示された。その画面をスクショに収めながら、宮田は須和に話す。
「部屋の場所、分かったよ。とりあえず安心して。
僕がそっちに向かうことは、当然だが彼には伏せておいてくれ。僕が着くまで、できるだけ東條さんを刺激したりしないように、いつも通りに過ごして。君が落ち着いていれば、彼もそれ以上状況を乱すようなことはしないだろう」
『はい』
安心したのか、穏やかな須和の声が返ってきた。
今すぐに、彼の肩を抱き締めたい。
満足な言葉すらやりとりできない状況の切なさに、宮田は身悶えする。しかしあまり長く話すのも東條を刺激する原因になりかねない。宮田は早口で須和に伝える。
「じゃ、切るね。何が何でも彼と真っ向勝負させてもらうよ。東條さんが万一出かけたりしないよう、引き留めておいてくれ」
『はい。じゃこれで』
須和も、これ以上通話時間を長くしたくないのだろう。焦るかのように通話終了ボタンが押され、スマホの奥は無機質な機械音に切り替わった。
静かになった部屋で、宮田は先ほどの東條とのやりとりを思い返す。
『——身も心も薄くて軽い、そんな生き方しかできなかった男がほんの一瞬反省の素振りを見せたからと言って、この先そいつが一生信頼に値するなどと、なぜ信用できるんです?
信頼だけじゃない。持っているものが少なすぎるでしょう、あなたは。……僕の言ってる意味、分かりますか?
僕は、少なくともあなたよりは持っているはずだ。知識も、技術も、将来的な地位も、今後稼ぐだろう金も。そうじゃありませんか?
彼を幸せにできるのが一体どちらなのか、誰が見ても明白だ』
彼の言っていることは、どこをとっても1箇所も間違っていない。
まさに「完璧」だ。
しかし、これほどまでに中身を伴わない、空っぽな「完璧」もあるのか……初めて知った。
「確かに、僕は何も持ってない。
だが、あんたの持ってないものを持ってる。あんたより間違いなく優れた、最強のアイテムをな。
——とりあえず30分あれば着きそうだ」
ソファから立ち上がり、ハンガーのコートと小さなリュックを勢いよく掴むと、宮田は足早に玄関へと向かった。
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