本性

 一月三日、午後6時5分過ぎ。

 須和は、東條の部屋の玄関の前に立っていた。

 昼間は日差しが暖かかったが、日が落ちれば気温は一気に下がる。冷たい風に吹き付けられ、須和は思わずダウンコートの襟をかき合わせた。

 実は、約束の6時ジャストに、既にここへ着いていた。それから丸5分間、呼び鈴を押せずに立ちん坊の状態なのだ。


「……しっかりしてくれ、俺」

 これ以上躊躇していては、この部屋に入る勇気が完全に消滅しそうだ。バクバクと波打つ心臓を拳で抑え、須和は大きく一つ息を吸い込んでから、意を決してインターホンのボタンを押した。


 カチャ、と静かに玄関のドアが開き、もう見慣れた穏やかな笑顔が須和を見つめた。


「おかえり」


 何事もないかのように自分に向けられた東條のその言葉に、須和の身体が思わず強張った。


 え?

「おかえり」……? 

 改めて聞けば、呆れるほどに親密な挨拶の言葉だ。

 しばらく同居するうちに、そんなふうにして互いの帰宅を迎え入れるのが普通のことになっていた事実に、須和は今更のように青ざめる。

 これまでと変わらない自分であれば、恐らくそんな挨拶に違和感など1ミリも感じることなく、「ただいま」と答えていたのだろう。

 今やその返事をどうやっても口にできない自分自身に、須和は激しく動揺する。

 何とか気持ちを落ち着け、必死に返す言葉を探した。

「……お、お疲れ様です……」

 ようやく返ってきたぎこちない返事と須和の表情を意に介する様子もなく、東條はドアを大きく開いて須和を迎え入れた。

「寒そうな顔して。ほら、早く入れ」

「おっ、お邪魔します……」

 相変わらず穏やかに優しい東條の態度に、須和はますます肩をすぼめ、怯えるように玄関に足を踏み入れた。









「実家の正月、楽しく過ごせたか?」

 キッチンでコーヒーを入れながらいつもと変わらぬ空気で言葉をかけてくる東條の背に、須和は不自然なギクシャク感を拭えぬまま答える。

「え、ええ、まあ……とりあえず、楽しくはなかったですけど」

「ははは、君とご両親の反りの悪さは相変わらずか」

 二つのマグカップのグレーの方を自分の前に置き、ブルーのカップを須和の前に置いて、東條が須和の向かいのソファに座る。一見無機質でとっつきづらい端正な顔立ちに、ワインレッドの柔らかなタートルネックセーターとタイトなジーンズが調和して、よく似合う。

「カフェオレにしたよ。身体があったまる」

「……あ、ありがとうございます……」

 慌ててカップを手に取った須和に、東條はふっと小さく微笑んだ。

「まあ、そう簡単に改まるものじゃないよな、身内の不仲なんて。

 そう言う俺だって、実家の正月は何となく気詰まりだったし」


 カップを静かに口に運び、額にかかった前髪を軽くかき上げながら長い脚を組んだ向かい側の男を、須和は暫くぶりに会う相手のように見つめた。

 この人は、こんなふうにいつでも理性的で、自信があって、堂々としてる。

 多分、俺の取り越し苦労だ。これから自分が話そうとしていることも、この人なら大らかに受け止めてくれるはずだ。

 熱いカフェオレを口に運び、微かに緊張が解けかけた須和に、東條が問いかけた。

「——で?

 昨日くれた君のメッセージは、随分改まった感じだったけど……『お話ししたいことがあるので、会う時間を作ってもらえますか』って。

 どう考えても同居相手に送るコメントとは思えなくて、流石に笑ったんだけど?」


「……はい」

 カップを置いた須和は、一度小さく俯いて、ぐっと膝に拳を握った。

 そして、真っ直ぐに視線を東條に向けた。

「今日は、そのことを話したくて、ここへ来ました。

 あの、俺——ここを出ます。

 申し訳ないのですが、東條さんの気持ちには、応えることができません。

 済みません。

 ひと月近くも居候させてもらって、相談やら愚痴やら全部聞いてもらって……感謝も、お詫びも、いくらしても足りません。本当に。

 ここに置かせてもらっていた私物は、数日中に全部片付けます。

 ——お世話になりました」


 一気に言い切り、須和はがばりと深く頭を下げた。

 全部一度に伝える以外、方法は浮かばなかった。


 しばしの沈黙の後、伏せた須和の頭上に静かな声がかかった。


「……それ、まじで言ってるの?」


「……」

 顔を上げられないまま、須和の額にジワリと冷たい汗が滲む。

 願っていた返事とは違う抑揚のないその声音に、膝の拳が一層ギリギリと硬くなる。


「理由も何も話さないで、君の要求を俺に認めさせる気か?」

「いいえ、そんなつもりはありません」

 再び顔を上げた須和を、東條は無表情に見つめている。

 その眼差しの奥に、静かながら激しい怒りがゆらめいていることがありありと感じられ、須和は思わず息を呑んだ。


「——」

 恐ろしさに目を逸らしかけて、須和はぐっと踏み止まる。

 ここで怯んでは、二度と自分の希望を口にできなくなりそうだ。


「……今回のことを決めた経緯を、全部話します。最後まで聞いてください」

 気持ちを鎮めるために大きく息を吸ってから、須和は真っ直ぐに東條を見つめ返した。





「——……」

 須和の話を最後まで聞き終えた東條は、おもむろにテーブルのマグカップへ手を伸ばした。

 すっかり冷めているであろうカフェオレを一口啜り、ふっと息をついて口を開いた。


「……で。

 君は、堪りかねて他の男を頼らねばならないほどに君を苦しめたそのチャラい美容師のところへ、また戻るつもりなのか。……これからは、恋人として」


「——はい」

 東條の問いかけに、須和は頷く。


「それはつまり、このひと月間君をここに置き、君の辛さや苦しみを全部受け止めてきた俺の努力を粉々に踏み躙るのと同義だ……それを理解した上での決断か?」


「…………」


 返す言葉を探せないまま、須和は唇を噛む。彼の主張は紛れもなく正論だ。


 この上なく重苦しい沈黙が流れた。


「——なら、こうしないか」

 不意に静けさを破り、東條が柔らかな声音で須和に微笑みかけた。


「君が俺の申し出を拒んでここを出るなら、それでもいい。

 ただ、それには条件がある。

 ——その美容師のところへは戻るな」


 東條が静かに言い放ったその言葉に、須和の頭の中が真っ白になる。


「…………そんな」


「俺は、君の幸せを真剣に考えている。君の未来を本気で考えた上での提案だ。

 自分の身勝手な思い込みで君を振り回し、ズタズタに傷つけておきながら平気な顔でいられる男のところになど、君を行かせるわけにはいかない。絶対に。

 そんなクズ、今は誠実な約束を交わしたところで、いつチャラいクズに戻るかわかったもんじゃない——そういう性分も、容易には改まらないものだよ。

 彼の元へ戻ることは、許さない」


 東條はそこまで言うと、この上なく冷ややかな表情をガラリと改めていつになく美しい笑みを浮かべた。


「もしも君が考えを変えて、今後もここで過ごすと言ってくれるなら、もちろん大歓迎だ」



「…………」


 信頼していたはずの男が、突然見せた本性。

 奥深くに隠していたその牙を剥き出しにして、この男は自分を雁字搦めに縛り上げようとしている。


 底知れぬ恐怖感に、須和はただ全身を強張らせて俯いた。




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