心の奥

 チキンとケーキ、シャンパンが加わるとは思っておらず、須和はその日の夕食に予定していた献立を変更すべく、あわあわと冷蔵庫を開けてクリスマスに相応しいメニューを思い浮かべる。しかし、脳内がとっ散らかってまともな思考が働かない。

 今日がクリスマスイブということはもちろん知っている。しかし、ついさっきまでは「ちまたは浮かれてますね〜」的に他人事で終わらせるつもりでいたのだ。東條も、当然自分と同じ感覚でいるものと思っていた。日本人は他国のイベントで浮かれるのが好きだよなあ、と皮肉っぽく笑い合いつつビールと生姜焼きで済まそう、などと勝手に考えていた。


 東條は、大学院でも優秀と噂される明晰な頭脳と男臭く精悍な容姿を持ち、どこか無愛想な理系独特の雰囲気も相まって女子達からの遠巻きな人気を集めている。他人に興味を示さない無機質な空気を常に醸しており、その性的指向云々をあれこれ深堀りされる以前に「数式が恋人なんだよね」と曲解されるタイプだ。天文物理学の世界に意識を飛ばすことを何より好むイケメン変人の鎧を無理やり剥ごうという猛者はそういない。

 それが——脳内は宇宙だとばかり思っていたその相手から、いかにもクリスマスムードの華やかな品物や、あんな意味深な言葉をいきなり受け取るなんて。まさにひっくり返るほどの驚愕だ。

 いや、もしかしたら、彼独特のジョークなんじゃないか。テーブルに着いたら、「ずいぶんクリスマスムードな夕食だね」とかとぼけた返しをする魂胆じゃないのか。

 とにかく、落ち着け。

 ざわつく気持ちを必死に鎮めながら、須和はエプロンの紐をぎりっと締め直した。







 結局、予定していたメニューを変更する思考の柔軟性もなく、いつもと変わらぬ生姜焼きと先に作っておいたグリーンサラダを力なくリビングのテーブルに並べる。豪華なチキンと煌めく苺の乗ったケーキが眩しすぎる。大人な気配を醸すシャンパンのボトルを見つめ、須和はぐっと詰まりそうな胸に無理やり酸素を吸い込んだ。


「君に支度を全部任せちゃってすまん。片付けは俺やるからさ」

 シャワーを済ませてラフなルームウェアに着替えた東條が、食器棚からワイングラスを2つ取り出しながら須和を振り向いて微笑んだ。かっちり仕事モードの整髪料を洗い流した無造作な前髪が、切れ長の涼やかな眼差しにさらりと落ちかかる。今まで何気なく見ていたはずのそれに、須和の心拍がおかしな反応をする。

「いっ、いえ、俺は今日一日休みだったので、片付けも俺が」

「そこは素直に甘えろよ。

 ほら、シャンパン開けるから、座って」

 居心地の悪いドギマギをどうしようもないまま、エプロンを外して東條の向かいのソファに座る。グラスを一つ渡され、美しい金色の液体が静かに注がれた。

「ぼっちじゃないイブに、乾杯」

 相変わらずさらっとした笑みと乾杯の音頭にどんな顔をしたらいいのかわからず、須和はそのまま勢いよくシャンパンを呷る。少なくとも、イブをジョークで流す気は東條にはないようだ。

 上質なアルコールの熱と甘みが喉を通り、思わずふうっと一つ息が漏れる。そんな須和の様子に、東條は心なしか声を改めて問いかける。


「——俺が、こんな風に君と向かい合うわけがないと思ってた?」


「……」


 グラスを一口口に運び、東條は小さく言葉を続ける。

「まあ、そうだろうな。

 大学ではあんな風に変人呼ばわりされてる男が、突然こんなアクション起こせば、驚かれるに決まってる。

 君の気持ちは、わかってるつもりだ。同性に惹かれる者同士だとしても、数式が恋人みたいな変人ならば仮に居候を頼んでも特に発展などする恐れはないだろうし、何の問題もないはずだ、と……恐らく君も、そう思ったんだろう」

 そんな言葉に、須和は思わず顔を上げる。

「そういう穿うがった考えで居候をお願いしたわけじゃありません。

 先輩になら、今の悩みを全部聞いてもらえて、きっと受け入れてもらえると……単純に、そんな気持ちしかありませんでした」


「じゃあ……今、こうして君に向かい合ってる俺を、君はどう感じてる?」


 これまで見たことのない熱の籠もった視線を向けられ、須和は小さく息を呑む。


「……」


 こうして逃げ場なく追い詰められて初めて、目の前の男のことがやっとはっきりと須和の中で像を結ぶ。

 優秀で、一見変わり者で、他人には無関心に見えながら、いつも自分を気遣ってくれた眼差しと静かな笑顔が、不意に幾つも思い出された。


 自分が、そのことにこれっぽっちも気づかなかっただけで——

 もしかしたら……この人は、ずっと以前から。


 なぜ、こんな大切なことに、今まで気づけなかったのか?

 それは——


「——それとも、これまでルームシェアしていたその相手に、気持ちが向いてるとか?」


 ここに来て意識の奥底から浮上しかけている何かを見抜いたように、東條が低くそう問いかけた。


「…………」


「もしかして、図星?

 君が部屋にいられなくなるような無神経な言動をする男だろう。よりによってそんな奴に——」

 東條の言葉を遮るように、須和は固い声で答えた。

「——先輩。

 少し、時間をもらっても、いいでしょうか。

 俺、自分の気持ち、全然見えてないみたいで……」


 俯いてじっと何かを考えるような須和の表情に、東條はふっと浅く微笑んで空気を緩めた。


「——そうだな。

 俺も、こうして真っ直ぐ君と向き合うまで、気づかなかった。君への感情は、思った以上に切羽詰まってる。

 余裕ない言い方して、みっともなかったな。許してくれ」


「……いえ。そんなこと……

 こういうとこがダメなとこですよね。ちゃんと自分自身の気持ちを把握できていないとこ」


「誰だってそうなんだよ、多分。

 特に大事なことからは、目を逸らして逃げ回って、土壇場にくるまで気づかないふりをしてしまう」

 東條は、シャンパンのグラスを傾けてそう呟く。


「とりあえず、この話は今日はここまでにしようか。このシャンパンやチキンも、単なる先輩の差し入れだと思ってくれ。君から返事を聞くまでは、俺からこれ以上強引に迫ったりはしないから、事が落ち着くまで安心して居候してけよ。

 さて。じゃ普段モードに切り替えて、数式変人の宇宙話に付き合ってもらおうかな?」

 悪戯っぽい東條の微笑に釣られて、須和もクスっと笑う。

「……そうですね。先輩の話、聞けば聞くほど面白いです」

「へえ、そんなこと言ってくれるヤツ滅多にいないぞー。

 お、須和の生姜焼きだ! 生姜多めでめっちゃ美味いんだよなー」

 少し冷めた生姜焼きに箸を伸ばしながら、東條は穏やかな笑みで話す。

「とりあえず、就活頑張ってよかったよ。内定先は押しも押されもせぬ大企業だし、給与にも十分余裕ができそうだから、来春にはもっと大きな部屋に移ろうと思ってるんだ」


 箸がふと止まり、強いほどの眼差しが須和を捉えた。


「だからさ——

 もう、そいつの部屋、出ろよ」


「…………」


 返す言葉を見つけられないまま、その視線から逃れるように須和も手元のフォークを取る。



 ——彼は今頃、三崎さんたちのクリスマスパーティだろうか。

 気持ちよく酔って部屋へ戻ったら、新しく連れてきたあの後輩と——


 ……知るか。


 無意識にチキンにフォークを突き刺すと、これでもかと口一杯に頬張った。




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