何気ない幸せ
「あ……っ、ああ……」
いつになく熱を持った強烈な感覚に貫かれ、俺は抑えようもなく湧き出る喘ぎを撒き散らした。
こんなふうに、体の奥底から強烈に求め合うような時間は、思えば随分久しぶりだ。自分自身でも、自分の中の箍が外れる空恐ろしさを感じるほどだ。
熱、快楽、体液。苦悶、恍惚。
目の前の存在から、あらゆるものを吸い取り、貪り、食い尽くしたい。
激しく互いを求める身体の交わりには能動も受動もなく、そこにあるのは互いの獰猛な欲求のみだ。
「……っ、樹さん、避妊……」
呑みこまれてしまいそうな意識を引き戻し、激しい息の下から何とかそれだけ囁く。
「——……っ……」
ベッドサイドの小さな引き出しに乱暴に手を伸ばし、彼もまた必死に理性を維持しつつビニールの小さな袋を歯で食い破る。
一秒も堪え切れないかのように、再び大きな熱量が激しい勢いで身体の奥を押し開く。
「あ———……!」
一際高い叫びが自分の喉から放たれる。もはや声というより啼き声だ。まるで野生の動物が上げるそれのような。
俺の体内の粘膜が強烈に絡むのか、彼もまた底無しの快楽に我を忘れたような苦悶の表情を見せる。
「……柊——……」
囁きの混じる熱い息遣いに、腹の奥が一層熱を持って波打ち、彼を深く引き込む。
俺の、愛する男。
髪の一本まで愛おしいその男の首筋を、力を込めて抱き寄せた。
心から愛する存在が、傍にいる。
肌を重ねるだけでなく、肌よりもずっと奥にあるものの熱を感じ合い、一つに混じり合う。
それは、これほどに不可欠なものなのだ。
彼のいなかった時間を経て、そう思い知らされる。
そして、こういう喜びを、俺たちは何度でも味わうのだろう。これからも。
「煙草、喫えたらな」
身体の熱が少しずつ冷め、うとうとしかけている俺の耳に、そんな呟きが聞こえた。
「……え?」
「あ……いや。起こすつもりはなかったんだけど、ごめん」
神岡は軽く上半身を起こし、乱れた俺の額の髪を指で優しく直しながら淡く微笑んだ。
ベッドサイドの小さな照明が、彼の表情に柔らかな陰影を作る。
「……煙草、喫いたいんですか? 今までそんなこと言ったことなかったのに」
「んー……喫いたいっていうのとは、ちょっと違うのかな。
喫ってる時の人って、みんな独特な顔するだろ。視線がふわっとして、脳や神経が楽になってるっていうか。
そういう瞬間が持てるって、時にはいいものだったりするのかなあって……何となくね」
軽く笑いながら天井を仰ぎ、彼はふっと小さく息を吐き出した。
どこか疲れを漂わせ、視線を遠くへ投げるような表情。
これまでは、見たことのない顔。
「——何か、あったんですか?」
「え?」
「大阪出張の2週間の間に」
「……どうして?」
神岡が、俺の目をじっと見つめてそう尋ねる。
「何度か、思ったんですが……樹さん、涙を堪えていたんじゃないかなって。
出張中、夜中に電話した時も。今日、帰ってきてからも。
それだけ仕事が大変なんだって、そう捉えようともしたんですが……もしかしたら、大阪にいる間、もっと深刻な何かがあなたを追い詰めたりしたんじゃないか……って」
泣くというのは、とても特別な感情だ。
仕事の難航と涙とは、心理的に結びつくタイプのものだろうか? 最も頭を使わねばならない時に、涙は出ない。むしろ対極の位置にある感情とも言える気がする。
しかも、神岡ほど幾つもビジネス上の困難に向き合い、乗り越えてきた男が、「泣く」というのは……
彼の涙腺が揺さぶられるほどダイレクトに心身に踏み込んでくる何かが、神岡の身に起こったのではないか?
それほど強く神岡を追い詰める出来事が、向こうであったのではないか。
そんな気がしてならなかった。
問いかけた俺をしばらく見つめてから、神岡は少し困ったような苦笑いを浮かべた。
「やっぱり鋭いよな、君は。時々鋭すぎて困る。
——反対派の中に、かなり
そういうタイプの精神的なダメージは、これまでに経験がなかったしね……とにかくなかなかに強烈で、僕もまだまだ人間として未熟だと思い知らされた。
取り乱したところを、君に感づかれるのは嫌だったんだが……バレちゃったなら仕方ないな」
「……どうして、その男のことも俺に相談してくれなかったんですか?」
「……」
その問いには答えず、彼は俺の温もりを味わうように、指と掌で俺の頬をゆっくりとなぞった。
「——恐ろしかった。
途方に暮れれば暮れるほど、君が瞼に思い浮かんだ。
君に、触れたかった。
目の前の闇に、何度も手を伸ばした。
こうして今、君の温もりが腕の中にあって、君が間近で僕を見つめてくれて、笑ってくれて……
夢みたいだ」
質の悪い男。
その男と、何か、あったんだ。
何か、あったんだと思う。
でも……
何があったとしても——こうして痛みを必死に堪えている彼を追及し、事実を問い質す必要は、ないんじゃないか。
彼は今、間違いなく、俺の傍に帰ってきた。心も、身体も。
それだけで。
「……今までと変わらない時間が戻ってきて、俺も幸せです」
「——うん」
小さな少年のように俺の首筋に顔を埋める彼の背を、俺は力を込めて抱きしめた。
*
その夜から3週間が経った金曜日。
来週の金曜は、クリスマスイブだ。
神岡の大阪出張以降、神岡工務店の例のプロジェクトはこの上なく順調に進んでいるようだ。会社が手こずっていた厄介な案件を無事解決でき、毎朝早くから出勤する神岡の表情も明るく爽やかだ。
今朝も、見送る俺を振り向いて楽しげな顔を見せた。
「来週のクリスマスパーティー、楽しみだな! 宮田くんと須和くんだけでなく、久々に紗香さんとまどかさんにも会えるなんて、嬉しいよね。優愛ちゃん、今年小学1年だったよね。大きくなったろうなー」
「ええ、ほんと楽しみですね!」
曇りなく生き生きとした彼の表情に、俺も穏やかな幸せを噛み締める。
何気ない幸せこそが、本当の幸せだ。
「晴、湊! こっちきてごらん」
その日の午後。
俺はツリーのセットとオーナメントのたくさん入った箱をリビングに出し、おもちゃで遊んでいた二人を呼んだ。
駆け寄ってきた彼らは、まさに好奇心の爆発する瞳で緑のツリーと輝くオーナメントを見つめた。
「わあ! すごい!!」
「とーしゃ、とーしゃ! みて!」
晴がオーナメントの箱に走り寄り、目をキラっキラに輝かせながら金の星のオーナメントを高く掲げた。
「おほしさま、きあきあっ(キラキラ)!」
湊も、好奇心に満ちた目でオーナメントに手を突っ込み、両手に握ったものをじーっと見て愛らしい声を上げた。
「とーしゃ、サンタしゃ! くちゅった(くつ下)!」
「そうだね! 晴の飾りはお星さま。湊のは、サンタさんのお顔と、くつ下だ。ふたりとも、何でもわかってすごいな!」
二人とも日に日に言葉が増えていき、そのスピードは目を見張るほどだ。子供の秘めた力は、つくづく凄い。
「じゃ、みんなでツリーに飾ってみようか」
「うん! やる!」
二人の手を一緒に持ちながら、枝にゆっくり飾りつけていく。
「わあ、きえー(きれい)!」
「きあきあっ!」
二人の弾けるような笑顔とたどたどしい言葉に、俺も思わず笑みが漏れる。
オーナメントの半分ほどを三人で飾りつけ、ふと時計を見ると、そろそろ午後5時だ。夕食の支度も始めないと。
「よーし、飾り付けはまた明日、パパも一緒にみんなでやろうか。お風呂沸いたら入ろうな」
ツリーの周囲に、あらかじめ用意していたドア付きゲートを置く。子どもたちの悪戯による万一の事故発生を防ぐ対策だ。
「おふろっ!」
「パパ!」
次の楽しみに、子どもたちは再びきゃっきゃっと盛り上がりを見せる。
と、テーブルの上のスマホが着信音を鳴らした。
画面を見ると、宮田からだ。
最近の慌しさで、宮田の声を聞くのも何だかしばらくぶりな気がする。
『三崎くん? 何気に久しぶりだね』
相変わらずペラっとした宮田の声が、電話の奥に響いた。その声にちょっとほっとしてしまうところが微妙に悔しい。
「ん、だな。
今度のクリスマスパーティ、去年同様極上チキン焼いてきてくれるんだって? みんなめちゃくちゃ期待してるからさ」
『またそうやってプレッシャーかけるからー。
ところでさ……』
「は?」
宮田の話を、俺は思わず聞き返した。
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