衝動

「晴、湊、ただいま!」

「あ! ぱぱ!!」

「ぱーー!!」

 11月末の金曜、夕方5時。

 リビングのプレイマット上で遊んでいた晴と湊は、2週間ぶりの神岡の顔を見るなりぱあっと目を輝かせた。

 それぞれに湧き上がる喜びが、二人のふっくらと丸い顔や小さな身体全体から一気にドバッと溢れ出す。晴はお気に入りの車のおもちゃ、湊はおふろグッズの水鉄砲を手にして彼の足元に走り寄った。

「ぱぱ! ぶーぶ、やる!」

「ぴゅー! ぴゅー!」

 パパと一緒にやりたいことがたくさんあったのだろう。神岡の両脚に抱きついて一心に見上げる二人の姿に、側で見ている俺も思わず胸がじわりと熱くなる。

「ははは、わかったかわかった!

 ——会いたかった」

 神岡は晴と湊を順番に抱き上げ、腕の中に力一杯抱きしめた。


「樹さん、お風呂沸いてますから、疲れてなければ久々に子供たちと夕食前にお風呂どうですか? 二人とも待ちきれないみたいだし」

 いつもの会話が戻ってきた幸せを噛み締めながら、俺はキッチンで玉ねぎのみじん切りに取り掛かる。今夜のメニューは、煮込みハンバーグとポテトサラダ、野菜スープという献立だ。 

「うん、そうしようかな。よーし、二人ともお待ちかねのお風呂タイムだぞー!」

「うきゃきゃっ!!」

 神岡の呼びかけに、二人の笑顔が弾ける。


 子供たちは間もなく2歳だ。食事の内容も大人用の料理を取り分けできる幼児食へと進んでいる。しかし取り分けとは言え、この時期の子供の胃腸や腎臓の機能はまだ未熟で、大人と同レベルの塩分や脂肪分では負担が大きい。大人と全く同じ料理を食べさせたりジャンクフードで済ませたりすれば、ひいては糖尿病や肥満につながる原因を作ってしまう。そのため、我が家では子供たちに合わせてまず薄味に調味し、子供分の料理を取り分けた後に調味料やソースの味を大人向けに濃く整えるという工夫をしている。こういう毎日の小さな一手間こそが大切なのだと、子育てに向き合って改めてしみじみ思う。


「ほらほら晴、湊、いくぞー! ピューー!!」

「うきゃきゃきゃっ!!」

 浴室から三人の声が聞こえてくる。神岡の声も心から楽しそうだ。2週間の疲労をガッツリ溜め込んで帰ってくるんじゃないかと内心かなり心配だった俺は、ほっと一つ安堵の息をつく。

「あうああ!」

「や、だめ!」

「あーっ、こらこら! 喧嘩するな!」

 ん? 喧嘩? 

 今日は何やらいつもより微妙に物騒か?

 料理の手を動かしつつ、聞き耳を立てる。

「やあ、や!!」

「うぅ……ふわ〜〜んっ!!」

 え!? 

 なんかどっちかが泣いてるぞ!? 風呂場で何が起こってる??

 俺は思わず料理中の手を洗い、浴室へ向かう。

「え、どうしたの!? 大丈夫?」

 ガタリと浴室のドアを開けると、湊が晴のブルーの水鉄砲をギュッと掴み、晴が手をバタバタさせてぐずっている。

「うぶう!(僕のだ!)」

 晴が湊に向かって小さな手を伸ばす。

「や、や!(やだよ!)」

 湊は頑としておもちゃを離さない。

 そんな二人を膝の間に置いた神岡が、ちょっと困ったような苦笑で俺を振り向いた。

「湊が晴の水鉄砲を強奪した……」

 湊の黄色い水鉄砲はと言えば、放置されて水面にぷかぷか浮いている。

 あー、以前からそういうやんちゃなところがあるよな湊は。でも、これまでは晴も、湊のそんな行動をさらっと受け流してたのに。


「こんなふうに喧嘩になっちゃうの、珍しいな」

 そう言いながら、神岡は二人の頭をくしゃくしゃと撫でる。

 そんな彼の優しい表情と、その髪から首筋に滴る湯の滴、露わになった逞しい肩や胸元が目に入った瞬間、俺の心拍が不意に暴走を開始した。


 わ、わー!!? 突然なんだよ俺っ!? ちょ、待てストップ!! 


「そ、そっか、大したことないならよかった」

 俺はわたわたとそんなことを言いながら急いでドアを閉める。


「よし、じゃ二人とも身体あわあわしようか〜」

「あわわ!」

「シャワーいくぞー」

「きゃきゃ〜〜っ!」

 ザーザーと水音がし、やがて再び楽しげな声が戻ってきた。

 大きく一つ息を吸い込み、抑え難く身体の熱くなる感覚を鎮めながら、俺はハンバーグの種づくりを再開した。



「いただきます!!」

 夜7時少し過ぎ。料理が並んだ食卓で、久々に家族で笑顔を見合わせる。大好きなメニューに、子供たちは食欲もりもりだ。


「はあ〜、やっぱ柊くんの手料理が一番美味い……」

 赤ワインで喉を潤し、ポテトサラダを口に運んで神岡がしみじみそう呟く。

「あなたにそう言ってもらえるのが、俺も一番幸せです。

 ——大阪出張、本当にお疲れ様でした。反対派の住民の皆さんに快く納得してもらえて、よかったですね」

「うん。なかなかに手強い人たちだったけどね……

 今回の成功は、君のおかげだ。君のあのアイデアがなければ、どうなっていたかわからない。

 本当にありがとう、柊くん」

 箸を置き、神岡が真っ直ぐに俺を見つめた。


「——いえ」

 俺は小さく返し、ドギマギと俯く。

 くそ、今夜はなぜか彼の艶っぽさがいちいちダイレクトに脳を揺さぶってくる。まともに彼の顔を見つめ返せない。

「あなたが疲れ切った顔で帰ってきたらどうしようかと、内心めちゃくちゃ心配でしたが……こんなふうに穏やかで明るいあなたが見られて、マジでほっとしました」

 なんとか顔を上げてそう答えた俺に、彼は声を改めて言葉を続けた。

「——僕の隣に君がいてくれなかったら、僕は決してここまで歩いては来られなかった。

 君が導いてくれなければ、僕はとっくにどこかで道を踏み外して、闇の中を彷徨っていただろう。

 こうして君が絶え間なく僕を想ってくれるから、僕は——」

 

 苦しげに掠れるような言葉を途切らせた神岡の瞳が、一瞬微かに滲んだように見えた。


「……樹さん?」

「いや、ごめん。

 君には、いくら感謝を伝えてもまだ足りない。

 ああ、せっかくのハンバーグ、冷めちゃうね」

 零れそうになった何かを誤魔化すように、神岡は明るく微笑んだ。









 食事を終え、いつになくご機嫌な子供たちに丁寧に歯磨きをする。夜8時半前後に布団を整え、二人のお気に入りの絵本を読み聞かせながら寝かしつけるのが毎日の日課だ。俺や神岡が二人の間に横になって本を読んだり添い寝したりできるよう、最近はプレイマットの上へマットレスを二つ敷き、その上へ布団を敷いている。ベッドよりも自由にゴロゴロでき、子供たちのお気に入りの場所だ。

 今日は二人ともパパとのお風呂でテンションを上げたせいか、絵本を読み始めると間もなくすうすうと小さな寝息が聞こえ始めた。


 子供たちの眠った部屋の照明を消し、そのままシャワーを浴びに浴室へ向かった。温かい湯で、身体の隅々まで洗い流す。


 浴室を出てリビングへ入ると、ソファでワインのグラスを傾けていた神岡が俺を振り向いた。

「二人とも寝た?」

「ええ。今日は速攻で寝ちゃいました。

 久しぶりにパパとのお風呂楽しかったんでしょうね、なんか喧嘩もしたみたいでしたけど。いつもは二人で楽しそうにやってるんですけど、珍しいですね」

 グラスをテーブルに置き、神岡も柔らかく微笑む。

「これも二人が成長してる証拠なんだろうな。少し会わないでいる間にも、驚くほどいろんな表情が増えていく。

 ついこの前まではただ泣くばかりだった二人が、気づけば楽しそうに笑い合って、時には自己主張したり、ぶつかり合ったり。そういう感情の動きが見えるようになってくるのは、びっくりもするけど嬉しいものだね」

「そうですね。本当に」


 食器棚からワイングラスを取り、神岡の横に座った。

 グラスにワインを注ぐ間も無く、乱暴なほどの力で肩を抱き寄せられた。


「——待てない。一秒も」

 熱の籠もった囁きが、耳の奥に入り込む。


 自分自身の強烈な欲求がその囁きに抑えようもなく共振し、躊躇う間もなく言葉になって唇から漏れる。

「待てないのは、俺です」


 テーブルにグラスが倒れるのも構わず、彼の背に腕を回した。 

 ワインの香りのする甘く苦い唇に、激しく呼吸を奪われる。

 唇から注がれる熱い滴りを、俺は貪るように求める。

 

「——……っ……」

 余裕を失った彼と自分自身が、言葉もなく絡み合う。 


 彼の体温。彼の匂い。

 必死に俺を探し求める、彼の指と唇。

 何もかもを忘れ、俺はそれに応えずにいられない。


 強烈な力で、身体が抱き上げられた。

 その首筋に腕を絡め、唇を貪り合いながら、寝室のベッドに倒れ込んだ。

 首筋を辿る甘く湿った熱に、抑えきれない声が漏れる。


「……あ……」

「……柊——……」


 ぐちゃぐちゃに溶かして欲しい。身体の奥深くまで。

 めちゃくちゃに、壊して欲しい。

 全部、欲しい。一滴も残らず。


 荒い息をつきながら、狂おしい程の熱を湛えた彼の眼差しが俺を見下ろす。


「——早く」

 理性をもはや遥か遠くに投げ打って、俺は彼の首筋を強く抱き寄せながらその耳元で懇願した。


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