打開(2)
「——では、これより第二回住民説明会を開催いたします」
大澤がマイクを持ち、張り詰めた面持ちで開会を告げる。
ここからは、どんな展開になっても淡々とこなすだけだ。決してペースを乱されてはいけない。
樹は深く息を吸い込むと、静かな視線を参加者へ向けた。
「本日は、皆様に一つのアイデアをご提案させていただきます。マンション共用棟の一階部分に、マンション居住者以外の方も自由に利用できる図書館を設置しようという案です」
大澤のアナウンスを聞き、参加者の間にさわさわと小さなざわめきが起こる。
「この案は、共用棟の2階に予定していた居住者専用の図書館を1階へ変更し、居住スペースと共用スペース間のセキュリティを強化することで可能になるものです。図書館前にはオープンテラスを設け、テーブルと椅子を複数個配置することで読書や歓談のできるスペースにしたいと考えております」
参加者同士の小さな会話の波が会場内に続く。見渡した感じでは、不快感を露わにする空気はどこにも感じられない。
「そういや、最近はなんや紙の本を手に取る機会がすっかり減ってしまいましたしな。そういう風にふらりと立ち寄って本と気軽に出会える場所って、あったら楽しいやろな」
「それに、読んだ本や何かの話を共有できるスペースってのは、普通の図書館にはありませんしね」
「そや、自由に集まって楽しめるスペースになるんなら、子供向けの紙芝居なんかをやっても楽しそうですな。公民館の活動で紙芝居クラブみたいのありますやろ?」
耳に届くやりとりの明るい内容に、主催者メンバーの口元も思わず綻ぶ。
「いい感触ですね」
「ええ、予想以上です」
「私もそういうマンションだったら住みたいですよ」
メンバー間にも小さな笑いが起こる。
樹の胸に、じわりと熱いものが突き上がった。
柊くん。
君のアイデアのおかげだ。
君はやっぱり、すごいな。
今日は、何がなんでも、この会を成功させるから——見ててくれ。
いつしか、両膝には拳が固く握られていた。
「この案について、何かご意見等ございましたら、挙手をお願いいたします」
大澤が頃合いを見て会場内に告げる。
会場のさざ波が、すっと静まった。
主催者席の空気が、俄かに緊張を帯びる。
——いつ、彼らが切り札を持ち出すのか。
このプロジェクトそのものを揺るがそうという意図は、この程度の空気の変化では覆らないはずだ。
前のめりになるように身構えたメンバーに向けて、右手をずいと突き上げるように挙手をする者がいた。
小出だ。
「マイクをどうぞ」
社員からマイクを受け取った小出は、ガタリと立ち上がると、ぐっと眉間を寄せて口を開いた。
「——……
とても、ええ案ですわ」
「……」
「嬉しいです。ほんまに。
我々の声にここまで真剣に向き合ってくれはるとは、実際のところ思ってませんでした」
隣に座っていた下田も、椅子から立ち上がって小出のマイクを受け取る。
「私ら、やっと気づいたんですわ。いつの間にか、このプロジェクトに反対している目的を見失ってしまったことに。
よくよく考えれば、あんた方にぶつけていたのは、このプロジェクトそのものに対してというより、社会全体に対しての不満やったんです。
今回のことがきっかけで、それがつい一気に吹き出したみたいになってしもて……あんた方に社会の現状をどうにかできる訳あらへんのに、日頃の不平不満を散々ぶつけてしまいました。
それでも、ここまで誠実に我々に向き合ってもろて……逆に仰天しましたわ。
聞き流したり踏みつけにすることなく、痛みに向き合う姿勢を見せてもらえたことが、私らは嬉しいんです。心から」
二人の言葉に、他の参加者達も会場のあちこちで静かに頷く。
「なのに私らは……今までずっと、苛立ちに任せてこの説明会そのものを潰したれ、みたいなおかしな感覚に陥っていました」
小出がそう呟き、下田が頷く。
「途中、どさくさに紛れた主催者の方への嫌がらせにも、危うく加担しかけました。あと一歩で、私達はとんでもない間違いを犯すところでした」
「利用される前に目が覚めて、ほんとによかった。そのことを知った家内に、『他人のプライベート晒して仕事の妨害企むとか、あんたいつの間にそんなクズになったんや!? そんな恥ずかしいことしたら即離婚やで!!』と本気で怒鳴られましてな。マンション建設を阻止しても、離婚されたら元も子もありませんわ」
困ったような苦笑いを浮かべながらも、二人は主催者メンバーを真っ直ぐ見据え、深く頭を下げた。
「非礼な振る舞いばかりだったにも関わらず、私どもの声を聞き取ってくださり、ありがとうございます。皆様のアイデアのおかげで、この先の日々が楽しくなりそうです——心より、感謝いたします」
「今の案を取り入れたマンション、建つのを楽しみにしてますわ」
会場内の一か所に、小さな拍手が起こった。
それはやがて、参加者全体の大きな拍手に変わった。
大澤は、しばらくぐっと沈黙してから、マイクを握り直した。
「……この度は、皆様からこのように温かい賛成のお声をいただき、ありがとうございます。
プロジェクトメンバー一同、心より御礼申し上げます」
深く頭を下げた主催者達に、改めて大きな拍手が贈られた。
*
その日の夜は、今回の説明会に関わった全てのメンバーで会の成功を祝った。安い居酒屋だが、成功の喜びはどんな酒も極上の味に変えてくれる。
これほどに満ち足りた思いで仕事仲間と酒を飲んだことはない。そして、これほど強烈に自分自身が困難を這いずり回って成功を手にしたのも、これが初めてだ。
仲間の有り難さと、協力してくれる周囲の支えの有り難さが、痛いほど身に滲みる。
副社長の席に座ったままでは実感することなどなかっただろう「仕事」というものの味を、樹は深く胸に刻んだ。
打ち上げもお開きになり、滞在先のホテルの部屋へ入ると同時に、スーツの内ポケットのスマホが鳴った。
画面に映し出された着信番号を確認し、数コール分躊躇した末、通話ボタンを押した。
「——はい」
『絶対出ないと思ったのに。貴方は優し過ぎます』
「……どのようなご用件ですか」
『今日の説明会、成功おめでとうございます』
「……」
『あなたの席のテーブルの裏にこっそりつけておいたんです、超小型マイク。気づかなかったでしょう? 何が聴こえるか、ゾクゾクしました』
「相変わらず悪趣味ですね」
電話の奥で、ふっと自嘲する小田桐の息が漏れた。
『結局、あんな爺さん達からもクズ呼ばわりされてしまいました。びっくりです。はは』
「自分のしたことの虚しさを、少しはお分かりになりましたか」
『——神岡副社長。
本当に、貴方の会社を目指しても、いいですか』
「……」
『あの夜貴方が言っていた言葉を、本気にしていいんですか?
やり直す気があるなら、東京へ出て、神岡工務店への再就職を目指してみろと、あの時言いましたね』
すっと息を吸い込み、樹は小田桐にはっきりと答えた。
「——ああ、もちろんだ。
ただし、わかってると思うがおかしな真似したら即日クビだからな」
『わかってます』
小さく笑う気配がし、彼は声を改めて言った。
『絶対に、入ります。貴方の会社』
「そうか。それは楽しみだ」
『じゃ、また』
「——頑張れよ」
通話の切れた画面を暫く見つめてから、樹はふっと小さく微笑んで天井を仰いだ。
*
その翌週、金曜日。
反対派住民の説得に成功してからのスケジュールは全て順調に進み、樹は日程を一日早めて大阪を発った。
車窓の風景が移り変わり、我が家へと近づく。
待ち切れない。
窓の外と腕時計の針ばかりを気にしながら、樹はじりじりと車内での時を過ごした。
駅を降り、小走りでタクシーに乗り込んだ。降りがけに釣り銭をやり取りする余裕などない。運転手に押し付けるように札を渡す。
マンションのエントランスまでの距離がなんとも遠く、トランクを引くのさえもどかしい。
エレベーターが指定階で止まるなり、そのドアを飛び出した。
玄関の呼び鈴を押す。
自分の家なのに、指が震える。
ドアがふわりと開いた。
「お帰りなさい」
夢にまで見たその人が、柔らかく微笑む。
荷物を放り出し、樹はその愛おしい温もりをこれでもかと抱きしめた。
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