闇と光(2)
神岡と電話で話した翌日、木曜日。
俺は予定通り朝一で、設計部長の藤木さんからマンションの設計図と関連データを送ってもらった。久しぶりに見るスケールの大きな図面に、自ずと心が躍る。
神岡も言っていたが、今回のマンションは、シニアと若年層両方の入居を想定した物件だ。10階建の棟に100戸ずつ、全四棟で構成され、シニア向けと若年層向けが二棟ずつ、広々とした遊歩道を挟んで交互に配置されている。
シニア向け住戸の方は落ち着いた和のテイストをふんだんに取り入れ、解放的なバリアフリーで心安らぐ空間になっている。子育て中の若年夫婦を想定した住戸の方は、子供達の成長に伴いキッズスペースが子供用の個室にしっかり分けられるよう、念入りな工夫が凝らされている。
広々とした敷地内には、滑り台など遊具の揃った公園を設置予定だ。居住者達にとってはこの上なく快適な住まいになりそうだ。
——このマンションの購入者のみでなく、住人以外の外部の人にも利益の及ぶような工夫を、どこかに設ける余地はないか。
ふと時計を見上げれば、そろそろ晴と湊の朝食準備の時間だ。いつも通り家事と育児を始めながら、脳に焼き付けた設計図と向き合う。
「とーしゃ、ほん!」
「ばす、たくしー、ぷっぷー!!」
午前中の散歩から帰ってきておやつタイムを済ませた二人は、間髪を入れずいつもの日課で元気に本読みをせがむ。晴も湊も、のりもの図鑑が大のお気に入りだ。
「よし、じゃ読もうな!
今日ものりものクイズからいくぞー。これはなーんだ?」
「しんかんせん!」
「がたんがたん! ぷあーん!!」
二人は、我先にドヤ顔で口々に叫ぶ。車の写真の横についたボタンを押すと乗り物の鳴らす音も聴けるので、この本を読むと毎回リビングがすこぶる賑やかだ。
「そう、新幹線な!」
満面の笑みを浮かべた二人の小さな頭を、両手で思い切り撫でる。
そう言えば——さっき見たところ、今度のマンションには居住者が利用できる大きな図書室が共用スペースに作られる予定のようだ。これも住人達に間違いなく喜ばれる新しいサービスだ。
「とーしゃ、もっと!」
「ああ、悪かった。次はなー」
「これ、これ!」
「あはは、もうお前たちが選んでるじゃんか。それは何だ?」
「しょうぼうしゃ!!」
「うーうー!! カンカン!!」
「そうそう、正解! もう二人とも、この本の乗り物はほぼ全部覚えちゃったなー。父さんもお前達と本読むのめちゃくちゃ楽しいよ。
神岡のおじいちゃんとおばあちゃんも、お前達と本読むのがすごく楽しいって、いつも言ってるよなー」
「じい! ばあ!」
「ふふ、そう。じいとばあ」
晴と湊に本を読む義父と義母の幸せそうな顔が、ふと瞼に浮かぶ。
——本。
俺の中で、何かが微かに動き始める気配がした。
*
その日の昼、一時少し過ぎ。
樹は、A不動産の大澤営業部長と昼食を取っていた。大きな通りから少し奥まった場所にある、静かな和食の店だ。
「昨日の午後、私と営業部門の部下で、例の反対派住民が多く入居するアパートへ行ってきたんです」
大澤は、重く冴えない表情でテーブルの水のグラスを取りながら口を開いた。
「今回の反対派の中心人物は、前回の説明会で主張の強かった小出と下田の二人です。
彼らは二人ともあのアパートの住人で、付き合いも長く、何かと気の合う関係のようです。彼ら二人をどうにかして頷かせることができれば、反対派の動きを大きく変えられるはずです。そこで、二人を個別に訪問して具体的な意見を聞き、何とか話を前に進められないかと思いまして」
「なるほど、それは有効なアクションですね。で、手応えの方は?」
「いや、それが実は、むしろ話が少し厄介なことになってまして……」
「厄介?」
「ええ。
……どうか、お気を悪くなさらず聞いてください。
彼ら、どこからか情報を得たようなんです。その……あなたのプライベートについて」
「……」
「……具体的に言えば、神岡副社長のパートナーが同性であること、その方が男性ながらお子様を出産されたこと、そして、あなたが去年一年間育休を取得し、副社長の席を空席にしたことなどです。
自分達が生活を懸けた話し合いをしている相手側の責任者が、そんな訳の分からない人物だとは思わなかったと。理解に苦しむ人間の話などこれ以上聞く気など一切ない、というようなスタンスを取るつもりらしいんです」
食事中の箸を置き、樹は大澤を見た。
「……私のプライベートと今回の件に、一体何の関係が……誰がどう考えても的外れな主張ではないですか」
大澤は、眉間を深く寄せて何度も頷く。
「おっしゃる通りです。常識を欠いているのは彼らの方ですよ。時代錯誤な価値観で凝り固まった頑固な年寄りばかりですからね。
しかし、今の状況で彼らにそういう道理を説いても……こういうどうしようもない理由でごねれば、我々により強い圧力をかけられるという考えなのだと思います」
「——なりふり構わず、というやつですか。随分と卑怯なやり方ですね」
「歩み寄りではなく、関係の悪化が目的の説明会になってしまっては、何度開いても事態は明るい方へ向くはずなどありません。——裏で彼らを唆すようなタチの悪い連中でも絡んでなければいいのですが」
「……」
樹の脳に、ある人物が浮かぶ。
少なくとも、あの男は自分のプライベートを詳細まで知っている。
今回こういう情報が反対派に広まった件と、小田桐は……何らかの関係があるのか、ないのか。
目の前の料理にろくに手もつけず、樹は捨てるつもりでホテルのテーブルに投げた彼の名刺を苦い思いで脳にちらつかせた。
*
その夜、滞在先のホテルの室内をイライラと歩き回りながら散々逡巡した挙句、樹はテーブルに放った名刺を取り上げて乱暴に裏返した。
あの男の思い通りの行動を取らざるを得ない自分自身に歯軋りしつつ、メモされた通りに番号を押す。
『——これは神岡副社長、こんばんは。お電話お待ちしてました』
スマホの奥から、小田桐のあのやたらに品の良い声が耳に粘り付いた。
『嬉しいな。やっと例の取引に応じられるお気持ちが決まりましたか』
下劣な欲求丸出しの甘い声にぐわぐわとむかつく思いを押し殺し、樹は何とか平静な声で話を切り出した。
「いいえ、その件でご連絡したのではありません。
今日お電話したのは、あなたがここ数日で反対派の住民たちと何らかの接触をしたかどうか確認するためです」
『反対派の住民と、僕が?』
「今日、A不動産の大澤営業部長から話を聞きました。反対派の中心的存在である小出さんと下田さんが、私のプライベートに関する情報を把握しているらしいと。彼らは私の個人的な生き方が理解できないという何とも筋違いな理由で、我々との歩み寄りを拒むスタンスを取ろうとしているそうです」
『はは、それはまた滑稽な展開ですね。連中、そんな下衆な手段に出てるんですか』
「あなたは、私のプライベートを事細かく知っている。——その種を蒔いたのは、あなたではないのですか?」
『……さあ、どうでしょう。
近いうち、実際にお会いできれば、詳しいお話をしてもいいですけど』
「……」
つくづくタチが悪い。
もしかしたら、全く無関係かもしれないし、まさにこの男が張本人かもしれない。
いずれにしても、一度は小田桐に直接会わなければ、詳しいことは分からないだろう。こいつがこの件に絡んでいるならば、できるだけ早く動きを止めさせなければ。
「——分かりました。
では、明日の夜にでも。8時半頃であれば」
『了解です。うわ、これは嬉しいなあ。最高級フレンチの店予約しときますよ。店の場所はまた連絡しますので。では明日、楽しみにしてます』
スマホの奥の満足げな声に、この男の仕掛けた罠が少しずつ自分の足に絡みつつある気がしてならない。
湧き上がる不安と口惜しさに乱れる思いを堪えながら、樹は小田桐の言いなりになる以外になかった。
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