闇と光(3)

 藤木部長にマンションに関する情報をもらった翌日、金曜日の夜。

 子供達を寝かしつけると、俺は即座に自室のパソコンに向かった。今朝送ったメールでの俺の質問に、藤木設計部長は忙しいにも関わらず詳細な返信を送ってくれていた。


 今回のマンションには、住戸の入る四棟の他に、居住者達が自由に利用できる共用棟が建設される。共用棟内に設置される図書室は、全国に書店を展開するメジャーな会社が協業する形で運営する予定だそうだ。このようなサービスを付加することで居住者の暮らしに豊かさを提供するだけでなく、住人が本に接する機会を増やすことで書籍への興味を促し、本離れが進む最近の傾向に歯止めがかかればという期待も含まれているという。図書室の設計は、本の取り扱いに関して多くのノウハウを持つ書店運営会社の社員と共同で行ったとのことだ。


 完成予想図は、ゆったりと大きな本棚に充実した量の本を収め、少し時間があればつい立ち寄りたくなるカフェさながらの魅力的な内装やインテリアが設えられている。

 なるほど。

 しかし、この贅沢な空間は、やはりこのマンションを購入した居住者のみが享受できるものだ。

 金を払えば、贅沢が味わえる。それは当然なのだが——胸のどこかで、「じゃあ金を持たない者は?」という思いが同時に蠢く。

 財産の有無。それは本人の努力の現れだという意見は正しい。けど、本当にそれだけか。心からそう思う人は、一体どれほどいるだろう?

 金の有無は、決して本人の努力の成果だけじゃない。むしろ、「運」の方が強く作用していないか?とすら感じることがある。苦労を知らない人、苦労続きの人。運とは思ったよりも不公平じゃないか……そんなことをふと思う。


 本の素晴らしさは、誰もがその世界の中で自由になれる、という点だ。

 どんな境遇の人も、ページを開きさえすれば、物語の中にいる幸福感は平等だ。

 仮に、そんな平等な幸福感を味わえる贅沢な場所を、「マンションの居住者に限らず」提供できるとしたら——?

 図書室は、共用棟の2階・3階に設置される予定だ。それを、例えば1階・2階に移動し、図書室のフロアだけは外部の人も入館可能にできたら。

 共用棟の前は、緑を多く植え込んだ広い公園にする予定になっている。例えば、図書室前の部分の設計を変更し、オープンテラスのようにテーブルや椅子を置き、人々が読書したり会話できたりするスペースにできたら。

 本を自由に手に取り、楽しむ時間。家族や友人、知り合いと本の話や世間話をのんびり楽しむ時間。年代に関わりなく、居住者か外部の者かも関係なく、子供も高齢者も等しく幸せを感じられる場所を作ったら——?


「絶対楽しいじゃんか、これ!!」

 大きな独り言と共に、俺は机から立ち上がった。

 仕事に雁字搦めに縛られていては、もしかしたら自分の中に生まれなかったアイデアかもしれない。小さな我が子達と笑ったり、子供と本読みを楽しむ義父母の笑顔を思い出したり、周囲を見つめ直す時間があるからこそのアイデアだ。

 うまくいくかどうかはわからない。けれど、道を開く案の一つであることは間違いない。

俺は手元のスマホを勢いよく掴んだ。


  







「こうして、あなたと向かい合って美味なワイン飲めるとか、夢みたいです。この赤ワイン、かなりいいものを選んだつもりですが、いかがですか?」

「……これが価値のあるヴィンテージワインだということくらい、知っています」

「やっぱり。流石ですね。価値観の合う人と過ごす時間は実に有意義だ」


 金曜日の夜、8時半。

 小田桐は、言葉通り最高級フレンチの店の窓際の席をリザーブしていた。有名ホテルに入ったこの店の大きな窓の下には、うんざりするような夜景が煌めいている。

 木曜日の夜に急遽A不動産との打ち合わせが入り、予定を金曜日に変更したいとの樹の連絡に、小田桐は何ということもなく応じた。こんな店の予約も、有力市議の息子は自由自在だったりするのだろうか。

 高級だろうが何だろうが、目の前のものをじっくり味わう気など一切ない。樹は、苛立ちを必死に抑え込みながらナイフとフォークを雑に動かす。

「苛立ちながらのナイフ捌きもまた堪らなく悩ましいですね」

 敢えて癇に障るような言葉を選んで言っているのか。樹は思わず顔を上げ、向かい側の男の上品な微笑を強く見据えた。

「あなたとの余計な会話には、一切興味がありません。あなたが今回の件に噛んでいるのかどうか、それを聞かせてください。今日の要件はそれだけですので」

「つれないですね。けんもほろろ、ってやつですか。この言葉の由来、知ってます? キジが一声鳴いて羽音を立てて飛び去っていく様子を冷たい態度に見立てた言葉ですが、雄のキジの羽は非常に美しい。美しい人の冷ややかな態度は一層魅力的だったりしますしね。僕は嫌いじゃないんです、けんもほろろ。なんなら鋭い爪で蹴ってもらっても」

「……」

「はは、怒らないでくださいよ。冗談です。

 今回の件に関しては、僕は何もしてませんよ」

「……」

「まあ、友人にはちょっとだけ頼み事をしましたがね」 

「……! どういう……」

「マンション反対派のひとり、という設定で、小出宛に匿名の手紙を書いてもらいました。大学時代の悪戯好きな友人に頼んだんですがね、ちょっと小遣い握らせてね。そしたら、『お前相変わらず悪趣味だなあ、そういうの大好きだわ』って笑って引き受けてくれました。なかなか器用な男なので重宝してます。……あなたに関する情報を、そこにさりげなく混ぜ込んだだけなんですけどね。小出と下田の二人は、そのことでますます頭に血がのぼっちゃったんでしょうかね。ああいう世代はマイノリティのあれこれに嫌悪感を隠しませんから。

 ……あ、あなたのプライベートは他言しないように友人には念押しときましたから、安心でしょう?」 

「あなたは——」

 思わず乱暴にナイフをテーブルに置いた樹を、小田桐は甘い眼差しで見つめながら静かに呟く。

「……気持ちを落ち着けてよく考えた方がいいですよ。

 実際に、少し困った状況に陥っているんじゃないですか? 今度の日曜の説明会、多数の参加者が集まった会場で、このままだと彼らは大声であなたのプライベートをがなり立てるでしょうね。——あなたは、それでも大丈夫ですか?」

「騒がれて困るような生き方はしていません」

「そうですね。よくわかります。けれど、あなたはそうでも、その事実をいきなり知らされた反対派達はどう受け止めるでしょうね?

 場の空気に流されて小出達に強く同調し、一層勢いづいて収拾つかなくなる様子しか思い浮かばないんですが」

「……」

「あなたが、どうにか食い止めなければならないんじゃないですか?——ここで」

 小田桐は、すいと身を乗り出して囁く。

「このホテルのスイートルーム、取ってるんです。最高に心地良い一室ですよ」


「——……」

「天秤にかけてみれば、何を選ぶべきか一瞬でわかるでしょう」


 美しい微笑で小田桐の囁く言葉は、奇妙な威圧感を持ってじわじわと樹の喉元を締め上げる。

 掌から、じっとりと嫌な汗が噴き出す。


「……例えば、キスだけなら、どうですか?

 日曜の説明会で小出達を黙らせるくらいなら、それで取り引きしましょう」


「……」

 樹は、思わず顔を上げ、小田桐を見据えた。





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