闇と光
神岡が大阪出張に出かけて3日が経った火曜の夜。
子供達を寝かせ、浴室へ向かいかけていた俺の耳に、リビングのスマホの着信音が届いた。
『おお、柊くん。元気か? 今、電話大丈夫か?』
スマホの奥から、変わらぬ快活な声が響いた。義父の充からの久々の電話だ。
「お久しぶりです、お義父さん。ええ、子供たちはさっき眠ったとこです」
『そうか、ならよかった。晴と湊にもしばらく会ってないが、また大きくなっただろうなあ』
「はい。晴も湊も、最近言葉の数がどんどん増えてて、新しい発見が毎日楽しくて仕方ないような感じです。外へ連れて行くと、もうじっとしてなくて。子供の成長って、本当にすごいですね」
『はは、二人の楽しそうな笑顔が目に浮かぶようだ』
孫たちの話になると、義父の声は柔らかく溶けたような気配を醸す。いつもは凛々しく頼もしい社長が電話の向こうででれっと甘い笑みを浮かべる様子を想像し、こちらも思わず微笑ましい気持ちになる。
『ここ最近、社内がいろいろと慌ただしくてね、実際のところ息をつく暇もないんだ。ひと段落したらまた遊びにお邪魔するよ。
樹を長期間大阪へ出張させてるのも、柊くんには申し訳ないと思っている。ただ、他でもないあいつがあの仕事を任せて欲しいといつになく強く希望していたし、後継者のそういう意欲的な姿勢は私も嬉しくてね』
「お気遣いありがとうございます。こちらは大丈夫です。晴も湊も、訳もわからず一斉に大泣きとかそういうてんてこ舞いはほぼなくなりましたし、時々ヘルプに来てくれる友人もいますし。樹さんが仕事に前向きに取り組む姿を見るのは、俺もすごく嬉しいですから」
『そうか。そういう言葉を聞けるとほっとするよ。
ところで——大阪の樹から、君に電話やメッセージが来たりしてるか?』
「いいえ。今のところ、特に来ていません。ストレスフルな仕事に向き合っているのだし、そういう気持ちの余裕はないのかもしれないなと思ってはいますが」
『ん、なるほどな』
「……どうかされましたか?」
『君は相変わらず鋭いな。
実は、向こうのマンション建設予定地の地元住民の説得が、だいぶ難航してるようでな。大阪支社の営業部長からもなかなかに厄介な報告が上がってきてるんだ』
義父の言葉に、俺の心臓が思わずどきりと反応する。
『樹本人は、「できるだけ早く何とかします」という言葉を繰り返すばかりなんだが……声の調子がだいぶ張り詰めているというか、緊迫した空気が伝わってきてな。あいつ、自分が今回の件の責任者だという意識に追い詰められてるんじゃないかと、少し気になってるんだ』
「……」
彼が大阪へ立つ前に心配していた事が、現実になりかけている。
そんな気持ちに支配され、スマホを握る掌が急速に冷たい汗で湿っていく。
「自ら進んで引き受けた手前、あいつも何か明確な解決策を自力で模索したいはずだ。簡単に親父を頼ったり弱音を吐くようなことは死んでもしたくないと思ってるだろう。こんな中途半端なタイミングで私が横からあれこれ口を出すのも、多分あいつにとっては苛立ちにしかならないはずだ』
「——そうかもしれませんね」
神岡の立場に立ってみれば、その意地は簡単には曲げたくないとよくわかる。俺だって、言い出しっぺが早々に弱音を吐いて尻尾を巻くようなことは、死んでも嫌だ。
『だから、柊くん。できたら、君からそれとなくあいつに言葉をかけてみて欲しいんだ。「仕事の方はどうですか?」程度の、軽い感じでな。——あいつが今抱えているものを、少しでもいいから共有してやって欲しい』
義父の温かな声が、胸に染みる。
「……そうですね。わかりました。
明日にでも、樹さんに連絡取ってみます」
『君も忙しいのに、こんなことを頼んだりして済まないな』
「いいえ。むしろ、そういう話をしてくださって、ありがとうございます。こういう話をお義父さんから聞けなければ、俺は何も知らないまま、何一つ樹さんの手助けをできずにいたでしょうから」
『あいつ、変なところで頑固で融通が効かないところがあるからな。君の声が聞けるだけで、気持ちが楽になるんじゃないかと思うよ』
「お義父さん——いつも、本当にありがとうございます」
受話器の奥へ向けて、思わず深く頭を下げた。
通話を終え、画面がふっと暗くなった。
それと同時に、もやもやと重たい灰色をした雲が、脳内に膨らみ出した。
神岡は、今、一体どんな重圧を抱え込んで戦っているのか。
育休から副社長の職務に復帰後、過重な疲労を溜め込んで一時はげっそりと削げてしまった彼の青白い頬が、不意に瞼に蘇る。
急速に胸を占領する重苦しい不安に、ふうっと重い溜息が漏れた。
*
翌日、水曜日の夜9時過ぎ。
子供たちを寝かしつけ、家事を全部済ませてから、俺はひとつ大きく息をついてスマホを手にした。
神岡の声や、今向き合う仕事の内容を聞くことは、俺にとっても何かの片手間で済ますことなどできない。彼から伝わる情報は漏れなくキャッチするつもりで、通話ボタンを押した。
『柊くん?』
数回の呼び出し音の後、スマホの奥に声が響いた。
——懐かしい声。
彼が大阪へ発って、今日で4日。たった4日の間に、彼の声がもうこんな風に切なく聴こえる自分自身の感情の揺れを、ぐっと抑え込んだ。
「出張お疲れ様です、樹さん。なんかちょっと久しぶりな感じですね」
俺は敢えて何の翳りもない明るい口調でそう切り出す。
『ん、そうだね。確かにめちゃくちゃ久しぶりな気がするな……連絡とかろくにできなくて、ごめん』
「いいえ、いいんです。そちらの仕事が忙しいのに、家の方にまで気を遣ったりしないでください。
晴も湊も、いつも通りよく食べてよく遊んでますよ」
『そっか、それ聞けて安心した』
「……樹さんの方は、どうですか?」
『んー、まあ今回の仕事は内容が内容だしね……そうさっさと片付く方がおかしいような案件だからな』
「……そうですよね」
ここでこの話を終わらせるわけにはいかない。
スマホを握り直し、俺は言葉を繋ぐ。
「何か、かなり困難な状況だったりするんですか?
どんな状況なのか、俺にも今の状況を聞かせてくれませんか」
『……ありがとう。
でも、君にこんな話を聞かせても、君が色々不安になるだけじゃないかと……』
どこか力ない彼の呟きに、俺の脳内のスイッチが不意にカチリと切り替わった。
「——樹さん。そんな風に言われるの、俺、嫌です。
俺のこと、そんな臆病で無能な男だと思ってるんですか?
あなたの抱えていることを聞いて、一緒に考えて、一緒に方法を模索して……そんなささやかな手助けすらも、俺には期待できませんか?
俺はこれでも神岡工務店の有能な設計技術者ですよ」
『——……』
電話の奥の声が、少しの間途切れた。
やがて、小さくクスッと笑う気配がした。
『柊くんには、いつも敵わないな。
何だか、はっと目が覚めたような気分だよ。今まで、何がなんでも自力で解決に辿り着けなければって、無意識に自分自身を追い詰めてた気がする。
わかった。今の状況を話すよ。君にも一緒に考えてもらえたら、こんなに心強い事はない』
神岡は、どこかふっと楽になったような穏やかな声でそう答えた。
神岡の話を全て聞き終えて、俺は小さく息をついた。
確かに、相手方の意見はもっともなものばかりだ。住民一人ひとりの気持ちを思えば、決定事項だからと強引にマンション建設に踏み出すのは強く胸が痛む。
けれど、だからと言って予定を変更する選択肢は、神岡の立場に立てば絶対に選べない。
「——状況は、よくわかりました。
俺も、いろいろ考えてみます。
今回のマンションの設計図や予算的なデータは、本社の設計部から俺のPCに送ってもらいます。できるだけ具体的な案が出せた方がいいと思うので。
何か、方法が必ずあると思います。マンション反対派の人たちもうなずいてくれるような方法が」
『——ありがとう、柊くん。
君に頼らずにいる僕が間違ってたと、今改めて自分の愚かさに気付かされたよ。
確かに、会社の上層部とも設計部門とも直結したポジションにいる優秀な社員を使わない手はないよな』
電話の奥でそう呟く彼の声が、先ほどよりずっと柔らかく
「どうせなら、賛成派も反対派も関わりなく楽しくなるような方法を考えたいですね。追い詰められてガチガチに固まってても、いい方向へは行かない気がしますし」
『楽しく、か……さすが建築学科院卒の超エリートだな。思考の柔軟性が凄まじいね』
「変人ですからね、俺もあなたと同レベルで」
電話越しに、思わず笑い合う。
『今度の日曜の午後2時から、2度目の説明会が予定されている。それまでに何か思いついたことがあったら、なんでも連絡してほしい。僕も、あまり肩に力入れ過ぎずに深呼吸して向き合ってみるよ』
「はい。力抜くのが一番ですね。
あまりむきにならずに、ちゃんと食べて、ちゃんと睡眠取ってくださいね」
『君にそうやって言われるのが、やっぱり一番効くな。
いつも、本当にありがとう。柊くん』
俺を深く信頼してくれる彼の柔らかな言葉に、俺の中にも大きな幸福感が満ちる。
「当たり前です。パートナーなんですから」
通話を終えたスマホをテーブルに置いた俺の脳は、活発に活動を始めた。
ただオロオロと神岡の過労を心配している場合じゃない。明日、朝一で、藤木設計部長に連絡を取ろう。なるべく早く、良い案を引き出せるように。
そのためにも、まずはちゃんと眠ろう。充分な睡眠なしには脳も身体も動かない。
早くもエンジンをふかし始めた脳を一旦クールダウンさせながら、俺はリビングの照明を消した。
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