現実(3)
樹は、小さなカフェの窓際の席にいた。
向かい側には、先程声をかけてきた若い男が相変わらず綺麗な笑みを浮かべている。
「ここのブレンドがね、とても美味しいんですよ。なかなかいい店でしょう?」
「……ええ、そうですね……」
相手の意図の見えないことに戸惑う樹の気配を感じたのか、男は改めて柔らかい微笑を浮かべた。
「改めて、自己紹介させてください。小田桐 礼司と申します」
「——神岡樹です」
樹も、自分の名刺を相手に差し出した。彼は丁寧にそれを受け取る。
「……小田桐さん……って、もしかして」
先ほど手渡された名刺を改めて見つめながら、樹は呟く。
「ああ、もう気づかれましたか? 街中にポスターとかありますもんね。そうです。僕、ここの市議の小田桐龍介の息子です。僕自身は社会人駆け出しの青二歳ですけどね」
「……」
市議会議員の息子。名刺に記載された勤務先は、誰もが知る大手商社だ。育ちの良さと何不自由ない暮らしをしている気配は、その表情や振る舞いからありありと伝わってくる。
そんな立場の人間がこういう方法で接触を図ってきたということは、今回のマンション建設に関連し、自分だけに何らかの用があるということだ。
一体何の話をする気だろうか。いずれにしても、変な隙を見せては失敗する。
奇妙な緊張の広がる内心を押し隠し、樹は届いたコーヒーを静かに口に運ぶ。
「説明会、様子見させてもらいましたが……あの反対派集団、随分厄介そうですね?」
「……ええ。まあ、こういう仕事にはつきものなので、仕方がないことですが」
気遣うような柔和な口調につい愚痴も漏れそうになるが、それを堪えて樹は曖昧に語尾を濁す。
「——今日、あなたにお声をかけたのは、僕に今回の件をスムーズに解決するお手伝いをさせてもらえないか、というお話です」
「……」
その言葉に、樹は思わず顔を上げ、相手の目を見た。
「ちょっとした工夫で、あの連中の不満をなかったことにできそうかなと思いましてね。
決して
「……お聞きします」
「実は、少し前からこの市内に大規模な運動場を新設しようという話が立ち上がってましてね、今市議会でその建設地を検討中なんです。
もしも今回のマンション建設がなくなれば、建設予定地だった場所は広大な市営運動場の候補地になる、という情報を流すんです。父が候補地について市議会で一言そういう提案をすれば済む話です。僕の大事な知り合いが困ってると話せば、父は二つ返事で協力してくれますから。
もしあなた方のマンションが建たなければ、あのちっぽけなアパートも含めた地域が運動場になる。そんな噂を聞けば、あの連中は真っ青になるでしょう。アパートを立ち退きになるくらいなら、マンション建設を認めた方がいいという結論があっさり出るはずだ。
どうです? ただ曖昧な情報を流すだけですよ。あくどい手なんか使ってないでしょう?」
そう言って、彼は一層鮮やかに微笑んだ。
「——ただ、この話には一つ条件があるんですが」
「条件?」
「ええ。
あなたが、僕と『親密な友人』になってくれれば、という条件です」
「…………どういう意味ですか」
「話によれば、あなたはつい最近、一年間の育休から復帰されたばかりとのことですね。お家には美しい『同性の奥様』と、天使のように愛らしい双子の息子さんがいらっしゃる。
あなたに愛されている奥様が、つくづく羨ましいです。彼は大変優秀な設計技術者だそうで——まさにあなたのパートナーに相応しい方ですね」
樹の表情が、次第に青ざめる。
「——他人のプライベートを事細かに調べ上げるようなことを、なぜ……
あなたは、一体私に何を要求したいのですか」
「ですから。僕は『親密な関係』を望んでいます。あなたと。——もっと言えば、あなたのこちらでの滞在期間のたった一晩をいただければいいという話です。スーツの男二人が一晩ホテルで過ごしたところで、誰一人おかしな疑いなど抱かない。
ね、すごくシンプルでしょう?」
「——な……」
樹の内心の動揺など無視したまま、小田桐は楽しげに頬杖をついて続ける。
「あなたはきっと毎週末、腕の中で奥様を溶けるほど情熱的に愛されるのでしょうね。その様子が目に浮かぶようです。
でも、僕はむしろ、あなたをお姫様みたいに扱いたいなあ……だってほら、どこに触れても敏感そうだし。あなた、思ったよりもいい声だから」
「…………」
あまりにもふざけた話に、樹の感情は危うく切れそうになる。
ぐっと踏みとどまり、一つ深く息をついてから、向かいの男の目を強く見据えた。
「——私が、そんな話に応じると思っているんですか」
「あれ、怒っておられます?
この大規模プロジェクトが計画倒れになることを思えば、とても条件のいい取引話じゃないですか?
あ、もしお姫様がご不満ならば、あなたが選んでくださって結構ですよ? お姫様が嫌ならもちろん王子様でも大歓迎です。僕、どちらでも大丈夫なんで」
「いい加減にしてください——!」
怒りに爆発しそうな感情と声を、樹は必死に押さえつける。
「あなたのご提案は、今ここでお断りします。人を愚弄するにも程がある」
「そうですか? それは残念ですね。
もしもあなたがその辺にいるようなメタボなおじさまだったら、もちろんこんな提案などしませんよ。この提案は、あなただから持ちかけたんです。これほど綺麗な男盛りってそうそういない。自分の価値を最大限に利用してこそ一流の副社長じゃないですか?」
一切悪びれることのない小田桐の眼差しを、樹は鋭く見返す。
「まあ、僕も今すぐに答えをお聞きするつもりはないんです。急いではいませんのでね。
もしお気持ちが変わったら、ご連絡ください。その名刺の裏に番号書いてますんで。24時間いつでもお待ちしてます。あ、ここのお代はこれで」
彼はテーブルに無造作に札を置くと、軽い世間話でも打ち切るようにすらりと立ち上がった。
まるで大切な友人に微笑むかのように口元を引き上げて美しく一礼し、品の良い身のこなしで歩み去るその背を、樹は強く睨み続けた。
*
宿泊先のホテルに着いてひと息つく暇もなく、夕食がてら今後のことを相談できればと大澤から連絡が入った。了解の返事をし、すぐに部屋を出る。
再びホテルへ戻ってきたのは、23時過ぎだ。室内に敷き詰められた柔らかなカーペットを踏んで思い出したように腕時計を確認し、樹はソファにどさりと身を投げた。
一流ホテルの上層階。手抜きなく上質に設えられた広い一室を、改めてぼんやりと眺める。大きな窓の外には、街の夜景が美しく煌く。
『街のすみっこで必死に生きてる貧しい年寄りの暮らしや生きがいなんか、どーでもええ思てるやろ、あ!?』
昼間、説明会場で怒鳴った小出の荒々しい声が、不意に耳に蘇った。
——確かに、そうなのだ。
自分は、恐らく今まで考えたことがなかった。自分たちの仕事の陰で、ますます息を詰めるような暮らしを強いられる人たちのことを。
それでも、そういう人々を一人残らず救う手立てなど、自分達は持っていない。全体の利益を思えば、今回のプロジェクトを立ち消えにさせることは絶対にできない。
小田桐の囁きが、耳の奥でちらつく。
『この大規模プロジェクトが計画倒れになることを思えば、とても条件のいい取引話じゃないですか?』
あの男の言葉など、反芻するに値しないものだということはわかっている。
それでも、「この大規模プロジェクトが計画倒れになる」というワンフレーズは、樹の心を底知れぬ恐怖で激しく揺さぶる。
先ほどまで大澤と長時間話し合っても、有効な策などは簡単には打ち出せず、話し合いは同じ場所を堂々巡りするだけだ。
マンション建設だけでなく、不利益を被る住民にもメリットのある何かを提案する。彼らを納得させる何らかの案が出せなければ、このプロジェクトは先に進まないのだ。
時間も、予算も、限られている。ここでいつまでももたついているわけにはいかない。
「——……どうすればいい」
ソファにぐったりと背を預け、樹は溜息を漏らして重い瞼を閉じた。
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